しょっぱい火曜日
火曜日の朝。キッチンオリーブの店頭にて。
杏子はおにぎりの具を入れ忘れたことに気づかないまま、伸一郎にそれを渡した。
伸一郎はいつもにも増して嬉しそうだった。
「土日に休めるようになりました」
「本当ですか!?」
後ろに客は並んでいない。言葉を続けた。
「今まで土日しかできなかった作業を平日の昼にできるようになったんです。作業も分担できますし、大分楽になります」
1人で土日出勤している伸一郎を見かねた上長が、
かつて伸一郎に大量の日本酒を勧めて酔い潰した上に、酔い潰れた年配社員の西田の世話を押しつけた上長が、
既存システムを平日に使わせてもらえないか客先に交渉してくれたのだ。
交渉の結果、午後12時から1時までの1時間だけ自由に使える許可が出た。
たった1時間と侮るなかれ。月曜から金曜まで毎日使えるし、メンバーに作業を振り分けられる。
伸一郎が抱えていた作業量は大幅に減る。
なにより土日に休める。
杏子は自分のことのように喜んだ。半分は自分のことも同然だ。
延び延びになっていたデートができる。
ずっと見つめて(伸一郎視点では睨んで)いた人と2人だけで出かけられる。
「お昼ということは、片手でお昼ご飯の復活ですか?」
にこにこ笑いながら尋ねた。
彼のためだけに作ったおにぎりは両手で食べて欲しいが背に腹は代えられない。
土日に休める方が大事だ。
「昼休みを1時間後ろにずらしました。一緒に仕事しているメンバーも混んでる昼時を避けて飯が食えるので喜んでます」
昼休みをずらすことを提案したのは伸一郎だ。
以前ならば「飯食いながら仕事すれば良い」と言いかねない彼が。
木下に「そんなに落ち着いて大事なお昼ご飯を食べたいか」と、からかわれたことは伏せておく。
そういうことこそ杏子に伝えれば、彼女を更に喜ばせることができるのに。
杏子は伸一郎が職場でどれだけ美味しそうに、どれだけ嬉しそうにおにぎりを食べているかを知らないのだから。
伸一郎の後ろに客がきた。
杏子は商売を再開し、伸一郎は駅に向かった。
*・*・*・*
その電話は午後1時過ぎに鳴った。
伸一郎たちが午後12時からの既存システムの調査を一段落させ、さあ昼ご飯だというタイミングだった。
「国見さん、外線です」
社外からの電話を受け付けた社員が伸一郎に声をかけてから外線を転送した。
昼ご飯を食べに行こうと立ち上がりかけた木下が一瞥を寄こして座り直す。
電話を受けていた伸一郎の表情がみるみる強ばった。
「はい、……はい、ええ」
相づち一辺倒で声色からも深刻そうである。
「わかりました。今からすぐに伺います」
伸一郎が受話器を置くと、すぐに木下が「どうしたの?」と声を掛けてきた。
「前にやった在庫管理システムのアプリが今朝から起動しなくなったらしい」
以前に伸一郎がアプリ――画面を、西田がサーバを開発したシステムである。
画面はさしたる問題もなくテスト工程まで順調に終わったが、サーバのテスト項目が穴だらけで伸一郎がやり直した。
伸一郎は上長の下に行って事情を説明し、これから客先に出向く旨を報告した。
納品後に不具合が発覚した場合の対応は契約内容に依存する。
納品までの契約であれば、その後にどうなろうと知ったことではない。
それでは実運用に耐えられないので、大抵は納品後1年程度の保守契約を結ぶ。
保守契約にはメンテナンスや不具合改修も含まれる。家電の保証書のようなものだ。
在庫管理システムは保守契約期間中だった。
自席に戻ってパソコンの電源を落とし、身支度を調える。
西田に声を掛けている様子はない。
木下が伸一郎に尋ねる。
「西田さんは連れて行かないの?」
「俺1人で行く。アプリが起動しないなら俺のミスの可能性が大きいし、西田さんに客先で空気を読まずにタラタラ言い訳されたら困るからな」
西田は性格か年齢によるものか頑固で、言い訳はするが決して謝らない人間である。
自分のミスも他人事のような態度で、伸一郎でさえかなり苛つくのに、客先ではどんな印象をもたれることか。
今回は既に客先の空気は険悪だ。そんなところへ西田を連れて行くリスクはリターンよりも遙かに高い。
「1人はダメよ。わたしも行く。5時までしか付き合えないけど」
「その前にケリをつける。その場で直らなきゃ、どのみちお持ち帰りだ」
お持ち帰り。客先で不具合を解決できず、とりあえず動作の記録を収集して自社に持ち帰り、原因を突き止めること。
そうなれば、かなりの大事になる。
伸一郎は出かける前に西田に「在庫管理システムでトラブルが発生したので、今から客先に行きます。何かあったら連絡しますのでよろしくお願いします」と声をかけた。
西田は「ああ、そうですか」と返事しただけ。
状況を気にするでもなく、自分も一緒に行った方がいいかたずねるでもなく、他人事な態度だった。
客先トラブルだというのに緊迫感が全くない。
伸一郎の予想通りの反応で、西田を連れて行くべきではないと改めて確信を持った。
外出する準備を済ませ、最後に伸一郎は首から提げている社員証を外して通勤カバンにしまった。
「あ……」
カバンの中には手つかずのおにぎりが入っていた。
これが食べたくて昼休みを1時間ずらしたのになあ。
梅雨が明けてから連日猛暑が続いている。
空調の効いた室内ならばともかく、外で持ち歩いたら手作りのおにぎりは傷んでしまう。
防腐剤てんこ盛りのコンビニおにぎりではない。今朝杏子が手ずから握ってくれたものだ。
このまま傷むのを見るのは耐えられない。
新人をチラリと見る。彼もまた昼休みをずらしたのでこれから昼食だ。
くそー、俺が食いたかったのに!
「上田、飯なに食うか決まってないなら、俺の昼飯食うか?」
サンドイッチのプロが作ったおにぎりだ。断る理由はない。
上田が食いついた理由はそれだけではなく。
「国見さんがにやにやしながら食ってる弁当じゃないッスか。食べてみたかったんですよね。器とか明日でいいッスか?」
「器?」
「手作りだったら、弁当箱とかに詰めますよね」
「言われてみればそうだな。そういうの無いから袋ごと捨てていいよ」
「よかったッス。弁当箱持って帰って洗って返すの面倒なんで助かるッス」
「おまえ、ちょっと言い方を遠慮しろよ」
確かに男はそんなものかもしれない。
汚れ物を持ち帰ったり洗ったりするのは作るよりも面倒だったりする。
最近のエコの風潮に反していても面倒なものは面倒だ。
少し前にもてはやされた弁当男子なんかは違うのかもしれないが。
雨の日に1度だけ杏子の家にあがったときを思い出した。
無駄なものがなくて片づいていた家。
家具や調度品は使い込んでいる風情があった。流行を追わずに気に入ったものを長く使い続けているように見えた。
そんな杏子が彼女自身のお弁当を作るときにも使い捨ての包装にするだろうか。
伸一郎は杏子の小さな心遣いにようやく気づいた。
*・*・*・*
杏子が自分のミスに気づいたのは閉店後。明日の準備をしようと調理場に入ったときだった。
「あ!!」
自分でも驚くほどの大声をあげた。
小皿にのった梅干しと高菜が調理台に放置してあった。
おかずにマグロの竜田揚げを入れたからサッパリしたものをと選んだ。
選んでも入れ忘れてはどうしようもない。
「やっちゃったあ」
重ねて嘆いた。
具のないおにぎりを塩むすびと呼ぶが、具を入れ忘れたおにぎりは塩むすびではない。
梅干しや高菜といった塩分の強い具を入れるので、ご飯の塩加減がゆるい。
要するにいつもより美味しくない。
伸一郎は怒らなくてもガッカリするかもしれない。
明日謝ろう。
どこに行くか決めるのは、それから。
「あ!」
杏子はさっきよりも控えめに声をあげた。
着ていく服がない。
1人で暮らしていくのに必要な服は機能性や利便性で選ぶ。
可愛いよりも動きやすく、色鮮やかよりも汚れが目立ちにくいことを優先する。
杏子が持っている服はそんなものばかりで、お出かけするのに適した服を持っていない。
それは杏子にとって「必要なもの」ではなかったから。
でも、これからは必要になる。
2人で出かけることが楽しくなる服を買いに行こう。
ご近所の商店街やカジュアル服のチェーン店ではなく、電車に乗って駅前のショッピングモールに行こう。
杏子はいそいそと雑務と今日の片づけをこなし、明日の準備も整えた。
*・*・*・*
「いやー、わざわざ来てもらってすみませんでした。やらかした社員にはよく言ってきかせますので」
在庫管理システムの納品先のシステム担当が、申し訳なさそう伸一郎と木下を玄関先まで見送った。
ほんの30分前には、苛立ちを微塵も隠さずに当たり散らしていたというのに。
「いいえ。とんでもないです。またお気づきのことがありましたらご遠慮なく」
伸一郎が当たり障りのない社交辞令のごとく挨拶をして客先をあとにした。
そのまま伸一郎と木下は無言で、客先の最寄り駅まで10分の道のりを歩く。
駅のホームについてから、ようやく伸一郎が溜息をついた。
「どうせ、そんなこったろうと思ったわよ」
木下が周囲を気にしながら小声で毒づく。どこで誰が聞いているかわからない。
固有名詞や具体的すぎる内容を避けて話し出す。
「昨日まで動いていたものが、今朝から突然動かなくなるなんて、直前に何かやらかしたに決まってるじゃないの」
何もしていないのに、日をまたいで突然動かなくなることも稀にある。
2000年問題や2038年問題がその例だ。
しかし前者はひと昔以上前のことで、後者はしばらく先の話だ。
それに日付がらみのテストは特に念入りにやっていた。
「でもやらかしたことに気づかずに、1日潰すこともザラにあるからな。何しろ木下姐さんのおかげです」
原因を突き止めたのは伸一郎であるが、木下がいなければもっと手間取っていたはずだ。
伸一郎と木下が客先に着いたとき、システム担当の機嫌は最悪だった。
「今朝から在庫管理を一切できなくて物流が滞っているんですよ」
伸一郎よりは若干年下の男性。髪はこざっぱりしているのに、無精ヒゲが少し目立った。
「どうしてくれるんですか」
端っから喧嘩腰で参ってしまう。
まずは状況を説明してくれ、とは言えずに「起動失敗した画面はありますか?」と尋ねた。
担当が指さす先にはデスクトップパソコンが1台。在庫管理システムがインストールされている。
伸一郎はパソコンの前に座って解析を始めた。
木下がいきり立つ担当を相手にあれこれ受け答えをしている。
これが伸一郎を大いに助けた。
不具合の原因を探ろうと調べている横でやいやい言われたら、わかるものもわからなくなる。
木下が担当の相手を引き受けてくれたことで、伸一郎は調査に集中できた。
原因を突き止めるまでにかかった時間は正味30分。
ランタイムライブラリのバージョンアップの失敗が原因だった。
ランタイムライブラリとは、パソコンにインストールされている様々なアプリが共通で使用するプログラムを、ひとまとめにしたものである。
普通にパソコンを使っている分には気づかない。アプリを起動したときに、アプリが自動的にライブラリを使用する。
在庫管理システムもランタイムライブラリを使用しており、これがパソコンにきちんとインストールされていなければ起動すらできない。
昨夜、システム担当者が新入社員に、ランタイムライブラリをバージョンアップしておくように指示を出した。
ところがバージョンアップの途中でパソコンがハングアップし、新入社員はパソコンの電源を強制的に切った。
翌朝にシステム担当者がパソコンを起動し、在庫管理システムも起動したところ失敗した、が真相だった。
伸一郎も最初からそれを疑っていて、バージョンアップ失敗の証拠を探すのに30分かかったのだ。
伸一郎たちに非は全くなかった。
無理矢理に落ち度を挙げるとすれば、客先に配布した『使い方説明書』に『ランタイムライブラリをバージョンアップする場合は、成功したかを必ず確認すること』というお節介な一文がなかったことくらいだ。
「説明書に追記して送りつけてやろうかしら」
説明書を作成したのは木下である。全く無関係ではないからこそ、付き添いを買って出たのだ。
「まあ、何にせよ平和に片づいてよかったよ」
伸一郎と木下の乗っている電車が乗り換えの駅についた。
中規模ターミナル駅で駅前にはショッピングモールがある。
駅ナカも充実しており、立ち食い蕎麦ならぬ、座って食べられる蕎麦屋が評判だ。
「お腹空かない? お蕎麦食べて行こうよ」
「木下だけ食べてくれば? 俺はその辺でコーヒー飲んでるから」
「国見くんはお腹空いてないの?」
昼飯抜きで空いていないわけがない。電車に乗っているときからお腹は鳴りっぱなしだ。
周囲が騒々しくて腹の音が聞こえなかっただけである。
杏子からのおにぎりを食べずに、違うもので腹を満たすことに気が引けた。
食べないことで贖罪するような気持ちだった。
空腹ではあるが、夜に飲み会があるときには昼食を抜いたりするのでそれほど辛くはない。
「ちょっと言いたいこともあるから、付き合ってよ」
有無を言わさぬ語気があった。
木下は蕎麦屋に入ると冷やし天ぷら蕎麦を注文した。
昼時は過ぎているので天ぷらは作り置きでなく注文を受けてから揚げている。
揚げ物の匂いが空腹に響く。
苦々しげな表情でそば茶を飲む伸一郎に、木下がずるずる蕎麦を啜りあげながら説教を始めた。
「国見くんねえ、チャラい身なりしているくせにクソ真面目に仕事抱え込みすぎなのよ」
「チャラいは関係ないだろ。それにチャラくない」
仕事と見た目に関係はある。年齢よりも若く見られて初対面で侮られてしまうのだ。
男が若く見られることは、仕事の上では若干不利になる。
しかし伸一郎と一緒に仕事をしてみれば、その真面目さと正確さに相手はすぐに考えを改めざるをえない。
それどころか身なりと態度のチグハグ感が印象に残り、次回のシステム開発発注時に伸一郎を名指ししてくる顧客もいる。
「もっと他人に仕事を振らなきゃ。西田さんに対してだってそうよ。国見くんがテストをやり直す必要はなかったの。テスト項目書は作り直させればいいし、テスト実施は下のモンにやらせなさいよ。」
「下はともかく西田さんは今さら無理だ」
あの頑固さを説き伏せて軌道修正させるには相当苦労するだろう。その苦労に見合う成果が得られるかも怪しい。
「そうね。西田さんは無理かもね。かなりトウが立ってるし。あの年齢であの態度の人をわたし達が育てる義理も無いし」
木下姐さんは見切りも早くて容赦ない。
「だったらテスト項目書も将来有望な後輩に任せちゃえばいいのよ。最初は時間かかるけど、下が育てば国見くんが楽になるのよ」
木下が言うことはいちいちごもっともで、全く反論できなかった。
実際に木下はそれをやっている。だからこそのOJT担当だ。
「木下は人に仕事を振るプロだもんな」
「なにそれイヤミ? そうしないと私はやってけないの。わかってるでしょ」
わかっているから、せめてもの反撃と憎まれ口を叩いたのだ。
*・*・*・*
杏子は目的の駅について溜息をついた。
中規模ターミナル駅で人が多く行き交う。店舗兼自宅を中心に行動範囲が狭い杏子には慣れていない光景だ。
人混みと華やかさに腰が引ける。
水筒に入れてきた麦茶を飲んで口を潤した。
確か東口だったはず。
最終目的地は駅前のショッピングモール。人を避けながら出口に向かう。
その途中に駅ナカで評判の蕎麦屋があった。
座って食べられる蕎麦屋で天ぷら蕎麦が一番人気だ。
お昼を我慢して、ここで食べるようにすれば良かったかな。
杏子は悔やんだが、昼ご飯の時間をずらすと夕飯を食べられなくなり、生活リズムが狂ってしまう。
21時就寝、午前2時半起床は一朝一夕でできるものではない。
名残惜しげに蕎麦屋に目をやった杏子は見てしまった。
伸一郎が女性と連れだって蕎麦屋から出てくるところを。
咄嗟に柱の影に隠れた。
伸一郎は今朝店頭で会ったときと同じノーネクタイのYシャツにスラックス、女性は青のストライプのブラウスに紺のタイトスカート。
ビジネス仕様の服装だった。
伸一郎は杏子が見たことのない表情――おそらく仕事中の顔で、なにごとか話していた。
お蕎麦を食べたんだ。
あのおにぎりは失敗作だったから良かったかも。
ただ、仕事中の伸一郎はいつもより更に素敵に見えて眩しかった。
杏子が思わず目を反らしてしまったくらいに。
*・*・*・*
伸一郎は帰社して真っ先に上長に顛末を報告した。
それが済むと上田に「おにぎりどうだった?」とたずねた。
「スゲー旨かったッスよ」
「当たり前だろ」
「何スか。あんな旨いもん作ってもらえて羨ましいだろって自慢ッスか?」
自分が食べられなかったからせめて感想をと思ったが、やっかまれて話にならない。
旨かったならば、いつも通りだったってことかな。
伸一郎はそう解釈した。浅はかだった。
杏子のおにぎりを初めて食べた人間が、いつもとの違いに気づくわけがない。
おにぎりに具が入ってなくても、そういうものだと捉えてわざわざ指摘などしない。
おかずにマグロの竜田揚げが入っていたのだから尚更だ。
杏子基準では失敗作でも、それは普通に旨いおにぎりだった。
伸一郎は杏子の絶品おにぎりを思い出してお腹を盛大に鳴らした。