おにぎりの失敗
舌の根も乾かぬうちにとはまさにこのことだった。
伸一郎が杏子を誘った翌朝。
本来であれば、行き先と待ち合わせ時間を決めるはずだった。
店頭で相談するから手間取らないように、あらかじめ候補を挙げておいて杏子に選んでもらおうと考えていた。
ところが
「誘っておいてすみません。しばらく土日に仕事を休めなくなりました」
「あ……そうなんですか」
杏子はあからさまに意気消沈した声だった。
昨朝から今までどれほど浮き立っていたことだろう。喜んでいたぶん落胆も大きい。
伸一郎は杏子の顔を見ることができずに下を向いたまま。
好きな杏子の声を暗くさせてしまった上に、落胆させた表情まで見るのは嫌で杏子の目線から逃げた。
ただの言い訳にしかならなくても、土日に仕事を休めない理由を話そうとしたが、後ろに客が来てしまったので諦めて切り上げた。
「すみません、あとでメールします」
メールアドレスと電話番号はあの雨の日に交換済みであったが、これまで使うことはなかった。
最初のメールの用事が約束破りの言い訳になるのならば、挨拶でもなんでもメールを打っておけばよかった。
伸一郎は後悔した。
学生の頃は用もないのに頻繁にメールしていたものだが、それと同じ感覚でしていいのかわからなかった。
伸一郎と杏子はお互いの距離感を未だ掴みかねていた。
その日の22時過ぎ。伸一郎は残業を終えて帰宅の電車に乗った。
座席はほどよく埋まっているので、立ったまま片手でつり革をもちながらメール本文を作成する。
たいした理由ではない。落ち着いて話せばものの5分とかからない話だ。
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大変申し訳ありません。
今、僕が携わっている業務はある商社の決算システムのバージョンアップ開発です。
バージョンアップと言っても既存から大きく変わり、ほぼ作り直しです。
その為の事前調査として、既存のシステムを動かしてアレコレ動作確認しなければならないのですが、現在も運用中なので平日に動かせません。
土日であれば好きに動かして良いとのことで土日出勤することになりました。
土日出勤の期間は未定です。
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メール本文を読み返して呆れた。なんと言い訳がましいことか。それにバカっぽい。
削除して作り直した。
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大変申し訳ありません。
業務上の都合により土日出勤することになりました。
土日出勤の期間は未定です。
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大分すっきりしたが素っ気ない。
ええい、ままよ、とそのまま送信した。
文末に『好きだよ』とか『早く会いたい』とかあればメールの印象もかなり変わるだろうに、そこまで気が回らなかった。
それに未だにデート1つしていない、手を繋いだこともない関係で追伸に愛の囁きを書けるほど、伸一郎は軽い男ではなかった。
その日のうちに杏子からの返信はなかった。
杏子の就寝時間が21時であることを伸一郎は知らない。
帰宅してからも返信がないかしばらく待っていたが、明日会えるからまあ良いかと思った。
*・*・*・*
そして約束を果たせないまま2週間が過ぎた。
伸一郎は土日出勤する代わりに水曜日に休んでいるが、水曜日は杏子が働いている。
15時に閉店しても雑務や仕入れといった仕事がある。とはいえ、それらを終えれば会えなくもない。
しかし伸一郎自身が連日の終電ギリギリ残業で疲れ果てて、休みは1日寝込んでいた。
毎朝顔を合わせられるのも却って良くなかった。
全く会えなければ痺れを切らせて、疲れも時間も構わずに相手の元に駆けつけたかもしれない。
しかし実際は、疲れた体で帰宅しても一晩寝れば翌朝には会えるものだから、ついつい寝てしまう。
それでいて朝は店が混んでいて、ろくすっぽ話もできない。
顔だけ合わせて言いたいことは何一つ言えず、欲求不満は溜まるばかり。
伸一郎がリーダーを務めるプロジェクトチームは、伸一郎と木下とOJT中の新人と伸一郎より1年後輩が1名。
滑り出しはこの人数で進め、徐々に人を増やす予定である。
現在は既存システムの調査と要件定義の段階であった。
この時期は無駄に人数を増やしても仕方なく、信頼の置ける少数精鋭で取り組むのが会社のセオリーである。
それにしても、既存システムの調査のためのテスト動作が土日しかできないのは痛かった。
土日に休めないこと自体もさることながら、作業分担にも関わってくるからだ。
調査も手分けすれば1人当たりの作業量は少なくなるのに、伸一郎はメンバーに土日出勤を強制できなかった。
だから土日も朝から晩まで1人で作業をしなければならない。
今日は日曜日で、伸一郎はチーム内で1人出社していた。
(木下は仕方ないけど、他の連中には頼もうかなあ)
考えたりもするが、(土日は休みたいよなあ)とも慮ってしまう。
誰よりも自分が休みたいのだから。休みたい気持ちがよくわかる。
「杏子さんとデートしたいなあ。まだ1回も出かけたことないんだぜえ」
ひと休みとばかりに自分のデスクに突っ伏してぼやいた。
唯一お店の外で会えたのが、雨の日のずぶ濡れの自分だなんてあんまりだ。
明日は月曜日。
また一週間が始まる。
*・*・*・*
月曜日の夕方、杏子は地元商店街の魚屋にいた。
「今日はマグロが安いよ」
店主お勧めのマグロを吟味する。刺身用に切られたものよりサクで買う方がお買い得だ。
1人で食べるには多いけど、明日のおにぎりのおかずに回せば丁度使い切れる。
今夜は鉄火丼にして、おにぎりのおかずはマグロの竜田揚げにしよう。
竜田揚げならばピックをさせば片手で食べられる。
こうして今までよりも少し多めに材料を買えることが、杏子は嬉しい。
すかさず、おかみのチェックが入る。
「あら、杏ちゃん。1人分にしては多いわね? さてはいい人できた?」
ご近所ならではの遠慮の無さと商売人の勘の良さに、杏子は苦笑いする。
「いえ、試作品を作ってみようかなと思って」
ごまかした。
本当はごまかしたくなかった。
(そうなんですよ。わたしにはもったいないくらいの素敵な人なんですよ)
自慢したかった。
でもそう言えばきっとおかみは「あらあら、どんな人!? 今度連れておいでオマケしてあげるから!」と言うだろう。
そうなったときに伸一郎を連れてこられるだろうか。一緒に行こうと言っていいのだろうか。
未だ2人でどこかに出かけたことすらない。
自分は「ありったけの心」なんて言ってしまったが、伸一郎がそれらしい言葉を口にしたこともない。
伸一郎を責めることはできない。
朝はあまりにも慌ただしい。
杏子が寝る時間は伸一郎の残業真っ盛りの時間だ。
休日もズレてしまった。
2人はことごとくすれ違っていて、落ち着いて会える時間がなかった。
杏子も伸一郎も真摯に働いている。
だから「わたしと仕事どっちが大事なの!?」や「俺と仕事どっちが大事なんだよ!?」という発想もなかった。
もしかしたら、そうやって一度ぶつかってしまえば良かったのかもしれない。
早いうちに、お互い遠慮無く気持ちをぶちまけるべきだったのかもしれない。
しかしそれができない杏子はおにぎりに想いを託す。
おにぎりを受け取った伸一郎が嬉しそうで、杏子も嬉しい。
食べてもらえてもっと嬉しい。
自分のおにぎりを食べてもらえるうちは大丈夫。
そう言い聞かせながら、おにぎりを作る翌火曜日の朝。
伸一郎と落ち着いて話せないことが、お互いの気持ちをきちんと確かめ合っていないことが、杏子の心を浮つかせた。
杏子はいつもならば有り得ないミスをおかした。
おにぎりに具を入れ忘れてしまったのだ。