何かをしよう土曜日
伸一郎は杏子の寝ている場所を見たことがない。
部屋は和室なのか洋室なのか、寝具はベッドなのか布団なのかも知らない。
身体を重ねるのは寝床であるべきと思ってはいるのに、その場で最後まで致してしまう。杏子が怒りもせず受け入れてしまっているのをいいことに、改めようともしなかった。
寝床を使うもう一つ(本来)の目的、就寝においても、伸一郎は杏子の家に泊まったことはない。
伸一郎の帰宅時刻はいつも午後九時を過ぎていて、杏子は寝てしまったあと。杏子の起床時刻は午前二時で、伸一郎は深い眠りのなかだ。この時間のズレはどうしようもなく、二人の間で敢えて話題にすることもない。近所に住んでいながら、なし崩し的に半同棲状態にならない理由は、お互いの生活リズムを守るため。この先、そのズレをどう擦り合わせていくかはまだ見えていない。
伸一郎が目覚めたところは自分の住処のワンルームではなかった。寝具の感触が違う。敷き布団にはほどよい厚みがあり、掛け布団は軽くて柔らかかった。仰向けで見上げる天井も初めて見るものだ。
ゆっくりと上半身を起こし周囲を眺める。見覚えのない部屋だった。六畳よりは広い和室。障子窓からは薄日が差し込んでいる。洋服箪笥が一棹。鏡台には布がかかっている。どちらも伸一郎が一人暮らしを始めるときに急ごしらえで揃えた家具とは全く違う。父方の本家と呼ばれる親戚の家で見かけたものに似ていた。
伸一郎の枕のすぐ横に、長い髪の毛を一本見つけた。つまんで眺める。ゆるくうねうねと波打っている。伸一郎の口元もゆるんだ。昨日の夜の記憶を辿り杏子を抱きしめたことを思い出す。
「ここどこー!?」
この部屋にはいない彼女に届くように声を張り上げる。喉が焼けつくほどに飲んだのに咳き込まなかった。
「寝室よー」
期待していたソプラノの声と答えが返ってきた。伸一郎は杏子の家の寝室で一人顔をほころばせた。
(とうとう泊まってしまった)
遠慮というよりは配慮が先立ち、泊まることを避けてきた。しかし泊まってしまえば、なんと満ち足りた気分で迎えた朝だろう。
しかし記憶がない。
杏子を抱きしめたことは覚えている。その先を思い出せない。いつものように押し倒してしまったのか。事に及んでしまったのか。
布団およびその周辺に痕跡はなかった。ティッシュ屑一つ見当たらない。あったとしても、先に起きた杏子が始末しているはず。
伸一郎は掛け布団をめくり下着の中を覗き込んだ。そこには毎朝あるはずの男の生理現象がなかった。ここ最近は杏子を抱けずに溜まっていたはずなのに。それにしては妙に腰の辺りが軽い。
(やっちまったか? まさか中高生のガキじゃあるまいし)
念のために下着を汚していないかも確かめるが不審な点は全くない。それどころか妙に小ぎれいに見える。
とりあえず目が覚めたのだから布団から出なければ。ここは自分の家ではない。彼女の家の彼女の布団だ。
伸一郎は寝室の引き戸を開けた。途端に甘酸っぱくて香ばしい匂いに気がついた。伸一郎がグダグダと寝ている間に彼女は既に一仕事を終えたようだ。
大きな家ではないので、間取りも何となく見当がつく。杏子は居間にいた。伸一郎は下着代わりのTシャツとトランクス姿。正直言って少々肌寒い。伸一郎は自分の身体に起きている違和感をつぶやいた。
「妙にスッキリしてんだよね。不思議だな。結構飲んだはずなのに」
「そう?」
杏子の様子がおかしい。返事の声はくぐもっているし、肩を震わせて頬も膨らんでいるように見える。顔色も赤みを帯びている。
もしかしたら怒っているのかもしれない。心当たりは充分過ぎるほどある。とにかく謝らなければ。
「ごめん。俺、昨日夜中に押しかけたんだよな。酔っ払っちゃってつい」
「いいよ。今日は土曜日だし、ゆっくりできるもの。お腹空いてる? 朝ご飯食べる?」
喋り方がどことなくぎこちない。ここで「怒ってる?」ときいた場合、もしも怒っていたら火に油を注ぐ可能性がある。伸一郎は話を先に進めることにした。
「食べる。腹減った。昨日ほんとごめん。説得力ないかもしれないけど、普段はちゃんとしてるんだよ。真面目に会社に行ってるし、こんなになるまで飲んだくれたりしないから」
「本当に?」
「醜態晒してばっかりだから信じてもらえないかもしれないけど」
「わたしの前だけ?」
「毎度迷惑かけて本当に申し訳ない。反省しているから。でもまた同じことやりそうだなあ」
頭を抱えてしゃがみ込みそうな勢いで言い訳ばかりを繰り返してしまう。それが済むと、朝ご飯を持ってくるね、という杏子のあとをついていった。せめて給仕くらい手伝わなければ気が済まない。
台所の調理台の上には白い丸皿にのったオムライス。寝室の扉を開けて嗅いだ匂いはケチャップが焼ける匂いだったのか。
「赤いオムライスだ。どうして?」
「食べたかったんでしょ?」
飲みたくない酒を飲み「助けて」と言う代わりに「食べたい」と言ったオムライスがそこにあった。ケチャップライスを包む薄焼き卵には何もかかっていない。
「なんて書く?」
杏子がケチャップを持って妖しく微笑んだ。
伸一郎は背筋がゾクリとした。理由はわからない。悪寒とは違う。敢えて例えるならば、朝っぱらからは憚られるような行為の始まりに似ていた。伸一郎は生つばを飲み込んだ。
「杏子さん、昨日、俺……何かした?」
「ううん。うちに着てからずっと寝ていただけ」
「そっか。それならいいんだけど」
「なんて書く?」
「うねうねで」
杏子はケチャップを絞り出してオムライスの上で左右に振る。真っ黄色のキャンパスに真っ赤な波模様がよく映えた。
すっすっと、スプーンの背でケチャップをまんべんなく伸ばす。薄焼き卵とケチャップライスを同じ面積ですくう。大きく口を開けパクリ。ゆっくり咀しゃくを繰り返し、甘酸っぱく香ばしい旨味を味わう。
「これだよー。これこれ」
スプーンを握りしめて何度も頷く。
居間でオムライスを食べながら、伸一郎はここ一週間の顛末を洗いざらい話した。
「というわけで、木下はとんだ災難で、俺もとばっちり」
「昨日で一件落着したのかな」
「送別会の最後の方を覚えてないけど、こっちの濡れ衣は晴れたはず。あとは知らない。とにかくもう関わりたくない。ただ、木下が怒らなかった理由がわからない」
「ガマンしているってことは?」
「うーん、考えにくい。短気で言葉とかキッツい方だし」
杏子はスプーンをフォークに持ち替えてハムと生野菜のサラダをつついた。ドレッシングを絡めてレタスにフォークを突き刺し口に運ぶ。
「わたし、木下さんが怒ってない理由がわかったかも」
「なになに? 教えて」
「辞める理由を嘘ついてごまかそうとしたからじゃないかな」
伸一郎は首を傾げる。
辞める理由を嘘ついてごまかそうとしたのに何故怒らないのか? その理由が「嘘ついてごまかそうとしたから」とは狐につままれたような気分だ。
「ちょっと意味がわからない」
「ええと、岩崎さんが一年で退職したときには「結婚退職しまぁす」ってノリだったんでしょ?」
「その口調、スッゲー似てる」
「こういう子、どこにでもいるから」
「……で、だから今度も「妊娠したので会社辞めまぁす」で良かったわけじゃない? でもそうは言わなかった。仕事を放り出すことに多少なりとも罪悪感があったってことよね」
「つまり結婚退職したときよりは働く意識がマシになったと?」
「そう」
「だからって人のせいにしちゃダメだよ」
「それはそうなんだけど。そもそも、その無計画みたいな妊娠もどうかと思うし。でも」
「でも?」
「岩崎さんが妊婦さんだから、木下さんますます怒れなくなっちゃったんじゃないかな」
「妊婦無敵だな」
「それぐらい大変なことで、お子さんがいる木下さんは他人事じゃなかったんだと思う」
「なるほどねえ。全然納得できないけど」
伸一郎はわざとらしくしかめ面を作った。その表情を見て杏子はクスクスと笑った。
「全然納得してないのに、よくまあ、あんなに泥酔するまで飲んであげたね」
「それは……! やっぱり妊婦に酒を飲ませるわけにはいかないから」
相手に好感を抱いていようが嫌悪していようが関係ない。放っておいたら人として後悔すると伸一郎は思っただけだ。
杏子は笑うのをぴたりと止めた。
伸一郎は俯いてオムライスの最後のひと匙をすくい頬張ったところだった。顔を上げて、杏子に見つめられていることに気づいた。
「そんなにジロジロ見てどうしたの? もしかして杏子さん俺のこと結構好き?」
「うん」
照れ隠しにおどけたつもりが、杏子の返答に驚いて吹きだしそうになった。堪えて無理矢理に飲み下して咳き込んだ。口内に残ったものを水で流し込み息を整える。肩を大きく上下させた。驚きの衝撃が過ぎ去れば、喜ばしい気持ちで満たされる。
「よかった。俺ばっかり好きだと思ってた」
伸一郎は天にも昇る思いで有頂天だ。それと反比例するように杏子のこめかみには青筋が立っていく。
「俺ばっかりってなに」
「え……だって……」
「わたしの方が先に好きになったのに」
「そうなの……?」
「おにぎりもオムライスも、わたしを好きになってほしくて作っているのに」
「そうだったの……?」
「そうよ。それがわたしの取り柄だもの。悪い?」
伸一郎は首をブンブンと横に振る。
杏子の料理の腕は必要に迫られてのことだと伸一郎は思っていた。ところがどっこい、伸一郎はしっかり釣られてしまっていたのである。
身につけた理由が生きる為であっても、生きる為だけに使わなければならない道理はない。杏子には自分の恋のために利用する狡猾さがあった。好きな男をモノにするために使って何が悪い。
「てっきり親切心かと思ってた。俺がおいしいお昼ご飯を食べられるようにって」
「そうよ。でもそれだけじゃない。下心よ。し、た、ご、こ、ろ! もう伸一郎さんは本当に鈍すぎる。昨日だって……」
「昨日って何? 何かあった?」
「な、なにって……」
杏子は口ごもった。怒りの表情はなりをひそめ、動揺が色濃くなっている。
杏子は、伸一郎は寝ていただけと言っていた。それにしては伸一郎の腰の辺りは軽すぎた。まるで毒気を抜かれたような感覚。昨日の夜、伸一郎の身体には何かが起こったはずなのだ。それを追及しなければ、ここを逃せば男がすたる。
「俺に何かした? 杏子さん?」
杏子は答えない。しかし台詞はなくても真っ赤な顔が昨日の夜の『何か』を物語っている。
「目が覚めたときにスッキリしていたんだ」
「さっき聞いた」
「今またモヤモヤしているんだけど」
「そ、そう?」
「これから、俺が何かしていい?」
「こ、ここで?」
「ここで」
「ふ、布団は?」
「干しちゃった」
杏子の後ろ頭には伸一郎の手が回されている。そのままゆっくりと押し倒す。
「ちょ、ちょっと待って! ケチャップ!!」
「ケチャップ?」
「あの、えと、その、お皿にケチャップがこびりついて固まっちゃうと洗いづらくて困るから……」
「なんだ。冷蔵庫からケチャップ持ってこいって言ってるのかと思った」
杏子は上半身を起こした。あまりに勢いよく起きたので額と額がぶつかり、頭突きをかましたような恰好になった。伸一郎は目から火花が出たような感覚に襲われて身動きできない。痛みのあまり目尻には生理的に涙がにじむ。
「違うから! ケチャップいらないから、絶対!」
杏子はケチャップよりも赤い顔をして必死に否定している。頭突きのダメージはないのか。
オムライスを食べ終わった食卓にケチャップがいらないのは当たり前なのに何をそんなに慌てているのだろうか。
数日前、伸一郎は杏子と付き合っていく先に見えるはずのものが見えずに不安にかられた。それでも自分が杏子を好きでいて、杏子も自分を好いていてくれている。
遠い未来はまだ見えない。今見えるもの、それは一番近い過去――昨日の夜に何があったのかをじっくりときいてみようと思った。
自分の身体がまるで一発抜いたあとのように軽くなっていた理由と、ケチャップをオムライス以外でどう使おうとしていたのかについて。
続編 ―秋の勤労週間― <おわり>
☆★☆あとがき☆★☆
これにて秋の勤労週間は完結です。今回もあはんオチで失礼しました。




