おにぎりバンザイ金曜日
翌、金曜日の朝。伸一郎の通勤の足取りは重い。
仕事面つまり客先との打ち合わせは事なきを得たというのに、社内ではとんでもない噂が広がっていたからだ。
(三角関係のもつれで退職とか有り得ないだろ)
それは伸一郎が知らないだけで、人間が集まれば恋愛沙汰になったり、いざこざが起こったりするのはよくある話。しかしオフィスラブに縁がなかった伸一郎にとっては想像もつかない話だった。
新見が小会議室で伸一郎を責めたときに恋愛感情のもつれについて触れなかった。あの時点では、木下が岩崎をいじめたらしい、国見が相談を受けたことを報告しなかった、だけが明らかだった。三角関係云々はそのあとに無責任に付け足された情報、噂に過ぎない。
それをを否定すればするほど周囲は面白るだけだろう。それにバカ正直に面と向かって噂の当事者に話をぶつけてくるのは上田くらいで、多くは影でひそひそやっているだけだ。弁解する相手すらいない。
まとまらない考えに翻弄されながら気づけばキッチンオリーブの店頭にいた。伸一郎の自宅から駅までの最短距離から外れたところにあるキッチンオリーブ。伸一郎は遠回りが習慣づいていた。
「おはようございます。いらっしゃいませ」
杏子が営業スマイルで応対してくれる。その笑顔に癒やされる気持ち半分と申し訳なさが半分。
(俺は既婚者ふたりと三角関係を噂されるようなろくでなしですから)
そんなどうしようもない情報を話そうとは思わないが。
伸一郎がサンドイッチを買うローテーションは決まっている。金曜日はツナサンドとオリーブサンド。最近では注文しなくても出してくれるようになっていた。
しかし今朝はいつまでも動く様子がない。忘れてしまったのかな? と思い注文を告げる。
「ツナサンドとオリーブサンド下さい」
「伸一郎さんにお売りするサンドイッチはありません」
思わぬ返答に伸一郎は固まった。昨日は打ち合わせでおにぎりを、一昨日は岩崎の相談でサンドイッチを食べられなかった。もうダメなんだろうか。お断りなのか、見捨てられるのか。そうさ、お茶も満足にいれられない自分なんか。
伸一郎が表情を凍らせたまま何も反応しないので、杏子は慌てた。いつもならば呆れたり笑ったり、ときには反撃してくるはずなのに。
「冗談よ、冗談!」
「冗談なの? でもちょっとヒドくない?」
今のメンタル状態で杏子の仕打ちは骨身にしみた。もしも自分が女の子だったら確実にベソをかいていたと思う。
杏子は軽い気持ちの冗談だった。だけどたちが悪かったのかもしれない。今日サンドイッチを売るつもりがないのは事実だが、意地悪をしたかったわけではなく。
「ごめんね。サンドイッチでなくて、こっちを食べてほしかったの」
そう言って杏子は伸一郎に竹製で長方形の箱を手渡した。それは火曜日と木曜日に杏子手作りのおにぎりを入れる弁当箱。
「どうして? 今日は金曜日なのに」
「昨日おにぎりを食べてもらえなかったから。ダメ?」
「いや、食べたかった。とっても食べたかった」
伸一郎の強張っていた表情がゆるんで、杏子もホッとした。
「よかった。水曜日も食べてもらえなかったでしょう。ちょっと張り合ってみた」
杏子は笑顔だった。魚屋の前で見せた笑顔でも、ついさっきの営業スマイルでもなく、伸一郎だけに見せる表情だった。怒ったような照れたような笑った顔。
受け取った弁当箱がずっしりと重い。その重さが、杏子の想いが、少しだけ意地悪な台詞が愛しい。伸一郎のシンプルな想いが口をついて出る。
「杏子さん」
「はい」
「好きだよ」
伸一郎が想いを言葉にするのは初めてだった。
自分も相手もお互いに好意を抱いていることはわかっていて、告白らしいこともせずに流れに乗っかってきた。いつかきちんと好きだと言おうと気負っていても実行できなかった。しかし今、どうしても伝えたくなった。
杏子が目を丸くしている。不意打ちを食らったような表情。
「俺……」
「ごめんなさい」
(俺、振られるの!? どうして!?)
「お客様が……」
いま自分はどんな表情をしていたのか。杏子に気の毒そうな声色で言われて後ろを振り返る。苛立ち気味のスーツ姿の中年男性が立っていた。伸一郎がてんぱっていて気づかないうちに客が並んでいたらしい。伸一郎の視界からは見えずとも杏子は真正面から見えていた。
そして杏子は伸一郎の思いがけない告白を受けて動揺しつつも、商売中を忘れない冷静さを保っていた。伸一郎はそれが少しだけ悔しい。そして仕事のケジメを忘れない杏子を眩しく思う。
(こんなときに限って……)
そう思いながらキッチンオリーブを離れるのも何度目だろうか。
ばつの悪さもあって小走りで駅に向かった。少しずつ駆け足をゆるめ、徒歩に変わる。興奮気味だった感情も段々と冷静さを取り戻してきて彼は気づく。あのタイミングはないんじゃないかと。
『おにぎりあげる』
『杏子さん好き』
(まるでおにぎりをもらって喜んでいるだけみたいだ。俺は裸の大将か)
苦笑しながら、でも足取りは軽く駅に向かった。
そして杏子のおにぎりは伸一郎の気持ちを軽くしただけでなく、彼の窮地を救うことにもなった。
昼休み。伸一郎は自分のデスクで弁当箱のフタを開けた。
大きなおにぎりが二つ。梅と鮭。定番の具なだけに強烈に食べたくなるときがある。一昨日はデミグラスソースのオムライス、昨日は豚カツ定食で、脂っぽい昼食に辟易していたのをお見通しだったかのようだ。おかずは卵焼きと焼き茄子。つけあわせの沢庵はすっかりおなじみの味。
上田が話しかけてきた。
「金曜日はサンドイッチの日じゃないッスか?」
うるさい、早く飯に行けと言おうとしたがとどまった。ワザといつもよりも大きな声で答える。
「昨日食べられなかったからって彼女が作ってくれた」
「彼女ッスか?」
「彼女だよ。俺の彼女」
「いいッスねえ。優しい彼女で羨ましいッス」
「そうだよ優しい彼女だよ。俺にはもったいないくらいの彼女なんだよ」
必要以上に彼女彼女と連呼する。俺には彼女がいるんだと周りに聞かせるように。
(彼女か)
(彼女ね)
(彼女なんだ)
そんな声が聞こえるような気がする。周りの視線が変わったように感じたのも気のせいだろうか。
昨日、小会議室を出てから一度も口をきかなかった木下が席を立った。
「上田くん、お昼行くよ」
そして伸一郎を見る。木下は大きく息を吐いてから肩を上下させた。周囲の目を気にしたがための妙な緊張感がなくなった。
「彼女のおにぎり本当に美味しそう」
「彼氏の特権だ。木下も旦那に作ってやれば?」
「大きなお世話」
日頃、伸一郎は職場の人間のプライベートに一切口を出さない。しかしこのときばかりは違った。自分には彼女がいて木下には夫がいると主張するためだ。誰に? 「誰」と特定できない集団に対してだ。
そうして杏子のおにぎりが起点となり、下衆な噂が木っ端微塵に打ち砕かれた。




