なんでそうなる木曜日
伸一郎が帰社すると木下の机は空席だった。パソコンのスクリーンセーバーは動いているので出社はしているようだ。
客先との打ち合わせの結果を木下に説明するつもりだったので、便所か休憩かとしばらく様子を見ていたが、一向に帰ってこない。
何度も振り返って木下の机をチラチラ見ていたので、それを見かねた上田が話しかけてきた。
「木下さんは新見課長に呼ばれたッス」
上田は小会議室を指さした。空き室では開け放たれている扉が、いまは閉じられていた。
「打ち合わせ?」
そんなはずはない。木下は同じチームでリーダーは伸一郎だ。彼の知らない打ち合わせはありえない。伸一郎が首を傾げると上田も首をすくめた。
「俺もよくわからないッスけど……」
奥歯に物が挟まったような口調。詳しくは知らないが何ごとかは知っていそうだった。
再び小会議室を見ると扉が開いて木下が出てきた。伸一郎が見たことのない固い表情をしている。木下は怒りを隠さないタイプの人間だ。理不尽な客の要求や、自社内の上の連中の無茶振りには断固として立ち向かう。眉をつり上げたり、こめかみに青筋を立てることもあった。しかし今の木下の表情は、そのどれとも違っていた。
木下は表情を凍らせたまま自分の席に戻った。伸一郎を見て声を掛ける。
「新見課長が呼んでるわよ。小会議室」
「わかった」
伸一郎は席から立ち、木下は席に座る。小会議室に向かう伸一郎の背後で木下が深い溜息をついた。
「失礼します」
小会議室には新見ひとりだけだった。新見は四十代後半の男性の管理職で、不良中年、ちょい悪オヤジという言葉を体現する風貌をしている。年相応で洒落っ気のある髪型。趣味の良さを感じさせる装いと小物使い。伸一郎の身だしなみの拘りの延長線上にいる人物でもある。伸一郎も数年後には新見のような見た目になっているかもしれない。
伸一郎は促されて小会議室の会議卓に着席した。その向かいの席に新見も腰を下ろしている。
「今朝、岩崎が電話で退職したいと言ってきた」
「え!?」
「国見は事情を知っているらしいな?」
「知っているというか……」
昨日の自己完結相談が果たしてそれにあたるのだろうか。だとしたら原因は……
「さっき木下が会議室から出たのも見ているな?」
「はい」
「岩崎の退職は木下のイジメに耐えかねてのことだそうだ。事実関係を知りたい」
「俺は知りません。昨日相談を受けただけです」
「その内容は?」
伸一郎は返答をためらった。伸一郎が聞いて知っているのは岩崎の一方的な言い分であり、客観性に欠けているからだ。それをもって事実関係と解釈されるのは本意ではない。何しろ伸一郎はイジメの現場を目撃していないのだ。
「木下にいじめられている、と言っていました。しかし言っていただけです。俺は見てません」
「やっぱりな」
新見はやれやれと言いたげに表情を緩めたので、伸一郎も一安心した。ところが
「木下を庇っているだろう?」
「はあ!?」
「お前らは同期でプロジェクトチームも一緒のことが多い。だからまともに話をきいてくれなかったと岩崎が言っていた」
伸一郎はあっけにとられて二の句が継げなかった。しかし言われっぱなしでは全面的に認めたことになってしまう。少し間を置いてから反論を試みた。
「ちゃんと話は聞きました。聞いた上で、俺ではなく然るべき窓口に相談することを勧めたんです。木下を庇ったつもりもありません」
「その結果がこれだ。とにかく、国見は相談を受けていながら、その報告を怠ったわけだ」
確かに面倒くさいと思って放置したことは事実だ。ここは職場だ。学校ではない。愚痴のような話を真に受けていちいち上に報告する必要性を全く感じていなかった。
伸一郎の職場は社員に占める女性の比率がかなり低い。また、この職業を選ぶ女性ゆえの特性であろうか、悪い意味での女性らしい女性は皆無だった。みんな総じて気が強く物怖じせずに表立って発言し、陰口を叩くような様子も見受けられなかった。伸一郎がそういう動向に鈍いという可能性を差し引いても、である。
だから女性同士のいざこざを仲裁した経験もなく、対処する術も知らなかった。そんなことは必要なかったのである。今までは。
つまり伸一郎は岩崎の対応をしくじったのだ。
(ならば、どうすればよかったんだよ!?)
頭を掻きむしりたくなった。
「話は大体わかった」
本当ですか。と聞き返したい。
「どうされるのですか」
「岩崎は今日付で退職だ」
「俺と木下はどうなります?」
「どうにもならない。罰する規定もない」
まるで規定があれば罰すると言わんばかりだ。木下と伸一郎が一体何をしたというのか。あまりにも岩崎に偏りすぎてはいないだろうか。
新見は伸一郎たちと所属が異なり個人的に話す機会もほとんどなかった。対して岩崎は新見が直接勧誘した直属の部下である。せっかく手に入れた雑用係を手放せば、人手不足の状況に逆戻りだ。新見にとって肩入れしたくなるのは岩崎なのだろう。
退職を望む社員を引き留めるにも限界がある。新見は渋々と受け入れざるを得ず、その腹いせに原因と思われる木下と問題を見過ごした伸一郎を詰問したのかもしれない。
伸一郎は昨日の今日の急展開に全くついていけない。何一つ納得できないまま小会議室を退出した。
自席に戻り、パソコンのスクリーンセーバーを解除した。その瞬間にメッセンジャーソフトが受信通知を表示する。差出人は木下だった。彼女は伸一郎の真後ろの席にいるにも関わらず声を掛けずにメッセージを送ってきた。
伸一郎がなにげなく周囲を見渡すと、他の社員たちは慌てて目を反らした。この状況で顔をつきあわせて会話をするのは憚られる。
『面倒ごとに巻き込んでごめん』
木下からのメッセージに伸一郎もメッセージで答えることにした。素知らぬ顔をしてキーボードを叩き文面を作成して送った。
『正直混乱してる。課長は木下が岩崎をいじめたって言っていた。俺も昨日、岩崎から話をきいていた。でも話を聞く限りイジメとは思ってなかった』
『私もいじめたつもりはなかった。ただ、ちょっとキツくあたっていたかもしれない。それをイジメと言われれば仕方ないと思う』
『別に物を隠したり書類破ったりしたわけじゃないんだろ? 集団で無視したりとかさ』
背後でプッと吹き出す声がした。
『バカバカしい。少し気が楽になった。ありがとう』
伸一郎も少しだけ安心した。今は周囲も物珍しさで注目しているだけだ。岩崎には悪いが騒ぎの張本人が姿を消して時間が経てば解決するだろう。
しかし、いつかは沈静化するだろうが、現在は騒ぎの真っ直中。
小柄で可愛らしくてコロコロとよく笑う岩崎は社内のアイドルになっていた。伸一郎が苦手とする笑い声も愛でられる対象で、多くの社員が彼女の退職を惜しんだ。
なぜ突然に?
あんなに楽しそうに働いていたのに?
疑問は噂となり社内を駆けめぐる。
終業時間三十分後、木下が退社したのを見計らったように、上田がおずおずと伸一郎の前に現れた。
「国見さんと木下さんと岩崎さんの三角関係のもつれで、木下さんが岩崎さんをイビリ倒して追い出したって本当ッスか?」
「何言ってんだ。そんな風に見えるのか上田は」
「さあ?」
「首を傾げるなよ! おーまーえーは!」
「ちょっ……苦しいです……首が……」
上田の迂闊で無神経な台詞に腹が立つが、面と向かって言ってくるだけまだマシだ。おそらく口に出さないだけで、かなり穿った目で見ている人間も多いはず。
木下も岩崎も既婚者で、ましてや木下は子持ちである。そんな二人と三角関係だなんて突飛で淫らにもほどがある。チャラそうな見た目に反して社内に浮いた噂もなかった伸一郎が絡んでいることで、面白がられているのかもしれない。
「明日、岩崎さんの送別会があるらしいッスけど出ます?」
「出るわけねえだろ」
経緯が経緯だ。送別会に出席する意思はさらさらない。ましてや自ら進んで針のむしろに座るのも御免だった。




