おにぎりの値段、プライスレス
職場で昼休み開始を告げるチャイムが鳴ると同時に、伸一郎はパソコンのディスプレイの電源を切った。
「国見さん、どうしたんスか」
木下の指導を受けてOJT中の新人が、伸一郎のいつもとは違う行動を目ざとく見つけた。木下は国見の同期で姉御肌の女性社員である。
「いつもパソコン触りながら飯食ってるじゃないスか」
「マウスな」
パソコンにすり寄って愛でるような趣味はない。
伸一郎は通勤カバンからキッチンオリーブの紙袋を出して机の上にのせた。
「あれー? 今日は火曜日だからコンビニおにぎりじゃないッスか?」
「木下! 早くこいつ飯に連れ出してくれよ。うるさくて仕方ない」
「はいはい」
伸一郎のすぐ後ろの席で、顧客との打ち合わせ議事録のチェックをしていた木下が「よし! 終わり!」と言って振り返った。
赤ペンだらけの議事録の束で新人の頭を軽く叩く。
「チェック入れたから書き直してね。午後で良いから」
「えーーっ、マジっすかあ」
「マジマジ。マジでちゃんと書きなさいよ。相手の言質なんだから」
伸一郎は無言でうんうんと頷いた。
ソフトウエア開発において、プログラミング工程に入る前にきっちりと仕様が決まっていることは、まずない。
未決定のまま開発を進め、その途中に繰り返される顧客との打ち合わせで仕様を詰めていく。
後になって「言った」「言わない」の水掛け論になることも少なくない。
それを避けるために確固たる証拠を残す。それが議事録の目的だ。
重要なものなのに議事録を任されるのは新人が多い。議事録の作成自体は生産活動ではないからだ。
議事録を1行書いたからといって、プログラムのソースコードが1行増えはしない。
だからといって軽んじられるものではなく、木下や伸一郎の年代のチェックが必ず入る。
新人が作った議事録は相当コテンパンにやられたようだった。
作成者である新人に突っ返して書き直させるよりも、木下が修正した方が早いに決まっているが、それでは新人の教育にならない。
何度もダメ出しを食らってやり直して新人は成長するのだ。
新人は受け取った議事録を自分の机の引き出しにきちんとしまってから木下に訴えた。
「見て下さいよ。国見さんの昼飯」
伸一郎は両手で梅おにぎりを頬張っていた。
紙袋の中には、残りのおにぎり1つと、アルミフォイルに包まれた卵焼きとたくあんが入っている。
全て使い捨ての包装になっているのは杏子の心遣い。
食べ終われば紙袋ごとまとめて捨てられるように、伸一郎に手間を掛けさせないように。
伸一郎がその心遣いに気づいているかは別として。
「あらあら、なにそれ、どこで買ったの? 美味しそう」
木下まで食いついてきた。
伸一郎は頼むから早く飯に行ってくれと心から願うが無駄だった。
「買ったんじゃない」
「えーー!? ちょっと、ヤダ、どういう意味? お母さん? なわけないよね」
「彼女ッスか!? 彼女できちゃったッスか!?」
「たぶん……?」
「なによ、ハッキリしないわね。国見くん、チャラそうなのに浮いた噂もないもんねえ」
「チャラくない。普通」
当たり前の身だしなみをチャラい呼ばわりされるのは心外である。
家に男性用のファッション雑誌ぐらい普通にあるだろ、その年の流行に合わせるのが一番無難なんだよ、と伸一郎は思った。
伸一郎はわざとらしく自分の腕時計を見た。
携帯電話の普及とともに腕時計の需要も減ったが、伸一郎はアクセサリー感覚で付けている。
時間を知るために携帯電話を取り出すのは格好悪いという美意識もあった。
「もう10分過ぎてんぞ。こりゃ普通の飯屋には入れないな。ファーストフードかコンビニ飯決定」
「なによ、自分が手作り弁当食べてるからって調子乗っちゃって!」
木下が悔しそうに歯がみしながら新人を引きずって出て行った。
伸一郎は、やっと落ち着いて『手作り弁当』に向き合えた。
残りのおにぎりを囓ると昆布が見えた。この昆布も出汁をひいた後の再利用で杏子流の味付けがほどこされている。
伸一郎は当然そのことを知らないが、コンビニおにぎりの昆布よりも味がわざとらしくなくて好みだった。
これはヤバイ。マジで旨い。おにぎりってこんなに旨かったんだ。
伸一郎がおにぎりに感動するのは2度目。
今まで適当に食っててすみませんでした、と全世界に謝りたいくらいだった。
これ、本当にタダでいいのだろうか。
今まで食っていたコンビニおにぎりよりも段違いに旨いのに、コンビニおにぎりにお金を払って、杏子さんのおにぎりはタダなんておかしくないか?
月水金は1つ300円前後のサンドイッチを買っているのに、火木はタダでおにぎりもらうのも変だろう。
代金は支払おうとしたのだ。
しかし断られた。
受け取ってもらおうと粘ったが、後ろに客が並んでいたので諦めた。
米も海苔も梅も鮭もタラコも昆布も卵もタダじゃない。
材料の値段はスーパー価格で許してもらうとして、杏子さんの技術――プライスレス。
伸一郎が勤めるソフトウェア開発業界は技術でお金を稼いでいる。
杏子の料理の腕に報酬を支払うにはどれほど必要なのだろう。
昼休みが終わる前に昼食から戻ってきた木下に「代金を支払いたいのに受け取ってくれない。金額が足りなかったかな」とこぼしたら
「バカじゃないの?」
一蹴された。
「国見さん、バカじゃないッスよ! 今度のプロジェクトだってリーダーじゃないッスか」
新人が横から口を挟んだ。
「あんたは議事録!」
「まだ昼休みッス」
「あんだけダメ出し食らって就業時間内で終わると思ってるの? 昔の国見くんを見習いなさい」
1年前の伸一郎が昼休みに昼食片手に仕事をしていたことを指している。
バカにされているのか持ち上げられているのかサッパリわからない。
新人は話題から外されて名残惜しそうに自席に戻った。
「彼女は『厚意』もしくは『好意』で作ってくれたわけでしょ? 気持ちの対価がお金なんて酷いと思わない? 彼女が望んでいるお礼はそんなんじゃないと思うよ。例えば映画に行くとか、遊園地に行くとか、プレゼントを贈るとか、心でお礼するもんでしょ」
「それは普通にするつもりだったから」
「は?」
「お礼とかじゃなくて普通に誘うから。お礼は別問題だろ」
「……もげろ」
木下はそう言い放って背を向けた。
*・*・*・*
おにぎりのお礼ではなく、彼女と一緒に出かけてみたいと思っていた。
それなのに、翌日水曜に伸一郎は
「おにぎり、とっても美味しかったです。ありがとうございました。お礼と言ってはなんですけど、映画でも行きませんか? 遊園地でも動物園でも水族館でもいいですけど」
結局お礼を口実にしてしまうのだった。
杏子は代金を断ったときには険しそうな顔をしていたのに、伸一郎の『お礼という名の口実』に嬉しそうに笑った。
しかしそのお礼はしばらく実現しなかった。