スッキリしたはずなのに……木曜日
翌朝、伸一郎は少しだけ遠回りをして駅に向かった。キッチンオリーブに寄るためである。
しかし寄る必要はなかった。今日は木曜日だが客先に直行するので、おにぎりはいらない。昼食の調達という目的においてはキッチンオリーブに用はない。杏子に昨日のしどろもどろの件を弁解するつもりもない。
ただ杏子の顔を見て確かめたかった。
なにを確かめたいのかは伸一郎自身もわかっていなかった。
「こんなときに限って……」
遠巻きにキッチンオリーブを見つめてボヤいた。昨日と思いは同じだが店の状況は真逆だった。女子高生数人グループを先頭に行列ができている。
初めて訪れたのか、ショーケースを前にキャアキャア騒いでいる。どれがいい? 決めらんなーい、そんな声が聞こえてきそうだ。後ろに並ぶ客に目をやると踵を地面につけて軽く足踏みしている。杏子も困り顔だ。
店員という立場上、杏子が客を急かすわけにもいかないだろう。お節介な客として横から口を出すか。
伸一郎が一歩足を踏み出そうとしたとき、女子高生たちが店から離れた。
けたたましい笑い声をあげながら女子高生たちが伸一郎の横を通り過ぎる。彼女たちの背中を目で追った。
そして再び杏子を見やる。杏子は何事もなかったかのように接客をしていた。
その表情、その手捌き。
杏子はたったひとりで店を守って生活している。
伸一郎と付き合う前も、付き合ってからも。
こんなトラブルとも呼べないような出来事など日常茶飯事なのだろう。
伸一郎は思い出した。
数日前の休暇に伸一郎の手助けを一切必要としなかったことを。
「いつもやってることだもの。一人でできるに決まっているでしょ」
そう言って笑った杏子の顔を。
そして気づいた。
杏子の家事の腕もご近所づきあいも、何もかも杏子がひとりで生きていくために必要だったのだと。
中学生の頃に母を亡くし父とふたり生きていくために、父が亡くなってからは自分ひとりが生きていくために、身につけるしかなかったのだと。
「わたしぃお料理が得意なんですぅ」と女子力をアピールするためなんかではない、と思う。
自分ひとりで生計を立てられる。暮らしていく技もある。杏子は誰かをあてにしなくても生きていける。地に足がつかない、ふわふわとした夢のような家庭など杏子には必要ない。杏子の生き方に女性の取り柄として称される「家庭的」は当てはまらない。
(なにが家庭的な彼女だ。そんなのクソくらえだ)
伸一郎はその場から立ち去った。
今日は客先で打ち合わせがある。その時間が迫っていた。
客先の会議室。伸一郎は志村を連れて打ち合わせに臨んだ。用件は三日前のメール『【仕様変更】検索条件の追加について』である。志村は伸一郎がどうするつもりなのか聞かされていない。不安そうな顔で伸一郎をチラチラと見ている。
会議卓を挟んだ向かいに座る担当者も、志村に負けず劣らず不安げに伸一郎を見る。
「実際のところ、どうなんでしょうね。僕も突然上から指示を受けて困ってまして」
担当者は男性で、見た目も伸一郎と変わりない年頃に見えた。上から無理難題をふっかけられても逆らえない世代。
「そうですねえ……、既に設計が終わってプログラミング段階ですので、今からの手戻りは正直キツいです」
「ですよねえ」
「ただまあ、突貫工事で何とか納期に間に合わなくもないです」
「と、いうと?」
担当者の顔色がパアッと明るくなった。
「ただし、検索する速さが五倍遅くなります」
「五倍……ですか……」
「え!?」
志村が思わず声を上げる。伸一郎は視線を担当者に向けたまま志村の足を踏んだ。志村は肩をすくめて無表情を決め込んだ。
「とりあえずの対処ですので。納期にリリース後、本格的に対応する工数を頂ければ、他の検索条件と同じ程度に速度改善できます」
「その工数をご提示いただけますか」
「こちらです」
真正面を見据えたままの志村が横目で工数が書かれている紙を見る。再び声をあげそうになったが今度は堪えた。その工数は志村の見積もりの1.5倍だった。
担当者は伸一郎の提案をひとまずは受け入れ、その提案で上に掛け合うと告げた。担当といいつつ、工数を左右する決定権は与えられていないのである。
自社に戻る電車の中で志村が
「きいてもいいですか?」
と言った。
「速度の水増し? 工数の水増し?」
「両方です」
志村は速度は三倍増しと報告していた。
「工数を引き出すためだよ。三倍程度なら『そのままでいい』って言われかねないだろ。それに言ったよりも遅くて文句はあっても、速くて文句言われることはないしな」
「工数は?」
「1.5までイケると判断したから」
「木下さんは1.3と言われたんですよね?」
「そうだよ。志村もきいたの?」
「はい。気になったので」
「いい心がけだね。木下はああ言ったけど、俺は1.5だと判断した。というか、水増ししたつもりもない。設計からやり直すんだ。テストだってやり直しだ。デグレチェックの工数も考慮してるか? 1.5でもギリギリだと思ってるよ」
「やらないという判断はなかったのですか?」
「あるわけないだろ。やってくれと言われたらやるしかないんだよ」
伸一郎は視線を電車の窓に移した。窓の外には見慣れた風景が広がる。自社の最寄り駅に近づいてきた。
「途中で飯食ってこうか」
「そうですね」
時間は昼飯時に差し掛かっている。昨日の昼に引き続き今日の昼も外食か、と伸一郎は溜息をつきたくなる思いだ。
夕食だってコンビニ弁当や外食などで済ませている。キッチンオリーブのサンドイッチと杏子の手作りのおにぎりは伸一郎の生命線と言っても過言ではない。なんと杏子に頼りきった生活だろう。
志村とともに混んだ店で適当に食事を済ませ自社に戻る。
そこでは岩崎と木下をめぐりちょっとした騒ぎが起きていた。