ナゼナゼの火曜日からアタフタの水曜日朝
翌火曜日に出社した伸一郎は、まず溜まりまくったメールを捌くことに忙殺された。
顧客との連絡手段は主に電子メールを使う。打ち合わせでは保留だった件の回答や、急ぎの作業依頼などをやり取りする。
その内容をプロジェクトに関わる全ての人に周知できるよう、メーリングリストが使われている。メーリングリストは、複数人に同報(同時に配信)できるので便利な反面、自分の作業とは直接には関係無いメールも受信してしまうので鬱陶しくもある。
伸一郎はチームリーダーであるので、全てのメールに目を通さなければならない。昨日読めなかったメールが百件以上溜まっていた。
(メール読むだけで午前中は潰れるな)
溜まったメールのほとんどは読み飛ばしても差し支えない内容なのはいつも通り。打ち合わせ日程の調整や施設停電によるサーバー停止のお知らせなどは、すぐに返信メールを作成して送信した。次々とメールを捌いて残すはあと一通のみ。そのメールのタイトルを見て、伸一郎は息をのんだ。
件名: 【仕様変更】検索条件の追加について
伸一郎たちが開発しているシステムは、ある商社の全ての支店と営業所の取引情報を画面に表示したり、画面上で操作するものである。
そのシステムには検索条件を指定し、条件に合致した情報のみを表示する機能がある。検索条件は4種類。年、年と月、年と週次、年月日。
これに月次週を追加してほしいとの要望だった。
週次と似ているが、週次は年を通してナンバリングしているのに対し、月次週は月単位の週数を指す。例えば週次が『2013年第5週』である場合、月次週は『2013年2月第1週』となる。
画面表示の仕様は決定済にも関わらず、後になって「追加してくれ」「削除してくれ」「変更してくれ」はわりとよくあることである。それらを引き受けるか否か(大抵は引き受けざるを得ないのであるが)、引き受けた場合のリスク管理とスケジュール調整はリーダーの仕事だ。
伸一郎は画面設計とデータベース設計の担当者たちに、変更した場合の影響度について調べるように指示を出した。
そこで昼休み開始を告げるチャイムが鳴った。
伸一郎はパソコンをスリープモードに設定する。職場が節電や節約に口やかましく、昼休みのパソコンの使用は禁止された。
ディスプレイの電源も切って、いそいそとお弁当箱をデスクの上に置く。
杏子の手作りおにぎりを食べ始めた頃は使い捨ての包装であったが、その後に二人で弁当箱を買いに行った。大型ホームセンターで買った弁当箱は竹製の長方形で大きなおにぎりが二つと小さなおかずが入る。
おにぎりの中身はフタを開けてのお楽しみ。しかし今日は秋刀魚の混ぜご飯のおにぎりだと知っている。
知っていても伸一郎の心は躍った。
「国見さーん」
まさにいま弁当箱のフタに手をかけたとき、後ろから名を呼ばれた。振り向きざま「なに?」と答える。自分でも明らかに不機嫌そうな表情をしたと思った。
声の主は岩崎だった。
「ランチ一緒に行きませんかぁ」
「俺と?」
「相談したいことがあるんですぅ」
「午後にきちんと時間をつくって聞こうか」
「そこまでしていただくのはぁ。本当にただの相談でぇ」
「仕事絡みの相談ならば業務の一環だよ」
「仕事というかぁ」
「仕事じゃないの?」
おにぎりよりも優先してもいいことは仕事絡みの緊急事態だけだ。岩崎と仕事で関わりがあるわけでもなし、相談されることに心当たりもない。伸一郎の答えも自然と素っ気ないものとなる。
「弁当持ってきているから今は無理だよ」
「明日はどうですか? そのときにお話したいんです」
「わかった」
(昼時の飯屋は混んでいるから嫌なんだよなあ)
そう思っても、職場で相談と言われたら無碍に断ることはできない。しかし二人っきりで昼食をとるには抵抗があった。仕事で外出したときならばともかく、岩崎とでは自分が納得できる理由がない。
「木下も呼ぼうか?」
そもそも相談内容の見当もつかない自分では力不足かもしれない。気を回したつもりだった。
「いいえぇ、結構ですぅ」
甘ったるい声と語尾を伸ばした喋り方でキッパリと拒否された。伸一郎は気を回すどころか空気を読んでいなかったらしい。
午後の勤務が始まってから一時間ぐらい経った頃、午前中に調査を依頼したデータベース設計の担当者が報告にきた。画面設計の担当者は三十分前に「影響はあるが微少」と報告済であった。
データベース設計の担当者は伸一郎の二期下で志村という。伸一郎より背が高く、スポーツ刈りの男性社員である。
「データベースはいまの設計のままで大丈夫なので影響度はないと思います」
「設計そのままでいけるの? 本当に?」
「はい」
「速度は? 月次週検索だけ極端にデータ抽出速度が遅くなったりしない?」
志村は目をぱちくりとした。
「すみません。調べてみます」
「うん。頼むね」
データベースは四種類の検索条件でのデータ抽出が最速になるように考慮して設計されている。考慮していない『月次週』検索で同じ速度が出るとは考えにくかった。
三十分後に志村が申し訳なさそうに再び報告にきた。
「すみません。他の検索条件よりも三倍遅いです」
「三倍で済んだんだ?」
あからさまに気落ちしているように見えたので、明るい声で問い返す。データ抽出の速度が遅くなること自体は想定通りであったが、速度は予想よりも速かった。十倍以上遅くなることもよくあるので、かなりマシな方だといえる。
「わかった。ありがとう。あと、検索条件を追加した場合の設計工数を見積もっておいて。明日まででいいから」
「見積もりやったことないです」
「今回の設計はしたよな?」
「はい。木下さんに相談しながらですが」
「なら設計にかかった工数を計算しておいて。ザックリでいいから」
「わかりました」
志村は何度も頷いてから、自席に帰った。
伸一郎は背もたれに体重を預けて、ふんぞり返るような姿勢をとった。
(画面はさして影響ないからいいとして、データベースが微妙だな。さーて、どうするかな)
顧客先への回答期限は三日後である。調査結果を元に要望を受けるべきか否かを考え始めた。
岩崎と一緒に昼食に行って相談事をきく約束は、頭の外に出て行ってしまった。
それを思い出したのは翌朝。キッチンオリーブの店頭であった。
「これ、前に言っていたお茶っ葉」
「ありがとう。本当にいいの?」
俺が杏子さんの家に行ったときに、おいしいお茶をいれてよ。
そんな気障な台詞は言えない。それどころか……
杏子が「ポテサラサンドとハムカツサンドだよね」と言いながら、ショーケースに手を入れた。
「忘れてた。今日、外で飯食う約束してたんだ」
伸一郎は言い誤った。「外で飯食うんだった」と言うべきだった。
約束ときいた杏子は当然
「誰と?」
こうなる。お客さんと答えれば角は立たないがそれは大嘘である。
「職場の女の子で……昨日、相談事があるって言われて……」
本当のことを話しているのに、なぜかしどろもどろになってしまう。やましいことをごまかしているみたいだ。
「相談って言っても……何のことだかサッパリわからなくて……木下も一緒にどうかきいたら……断られた」
「二人きりなんだ?」
墓穴を掘った。
「いつもは外で飯なんか食わないよ」
「そうね」
杏子以上に伸一郎の昼食事情を知っている人間はいない。
伸一郎はこれ以上喋るべきではない。しかしこんなときに限ってなかなか客が来ない。伸一郎は無理矢理に話を切り上げざるを得なかった。
「じゃ、じゃあいってきます」
「はい。いってらっしゃい」
杏子は笑みを浮かべていた。魚屋で見せた表情と同じだった。