考えてみた日
伸一郎の勤め先はシステム開発を生業としているのに、勤務時間の記録はいまだに手書きである。タイムカードもない。『出勤簿』と呼ばれるA3サイズの用紙に、出勤と退勤の時刻および残業時間を記入して月初に所属長に提出する。
いずれはWEBシステム化するという話だが導入時期は未定。とりあえず現在は月末に来月分の用紙を配られるのが慣わしとなっている。
「来月分の出勤簿でぇす」
その声に伸一郎は作業の手を止めて振り返った。
「国見さん、お久しぶりです。また今月からよろしくお願いしまぁす」
小柄な女性が鼻にかかるアルトの声で挨拶した。職場には不釣り合いな媚びた声だった。
伸一郎は(誰だっけ?)と訝りながら曖昧に頷いて出勤簿を受け取った。
女性は背中の真ん中ほどまである黒いストレートの髪を揺らしながら去っていった。
伸一郎と背中合わせの席の木下がコーヒーを飲んでいる。即ちひと休み中であると、伸一郎は判断して、あの女性が誰なのかをたずねた。見覚えはあるのに名前が出てこないのだ。
「岩崎さん。旧姓は細谷さんよ。入社して一年くらいで『結婚しまーす』って辞めちゃった子」
「なんで辞めた人がいるんだ? しかも出勤簿を配って」
事務的な書類の配布は伸一郎や木下のような開発部門の社員の仕事ではない。
岩崎もかつて開発部門に在籍していたことを、伸一郎は思い出した。
「先週からまた働き始めたみたいよ。事務で」
「そんな課、前からあったっけ?」
総務課と人事課と経理課があるのは知っている。
開発部門で働いていると、とかく開発作業に没頭しすぎて、それ以外の動向に疎くなる。人事異動に気づかずに前役職名で呼ぶ失態をしでかしたのは、いつのことだったか。
伸一郎はそんな調子で無頓着であるから、知らない間に課が新設されていても不思議ではない。
「事務課なんてないわよ。人手が足りないって新島課長が退職者に声をかけたみたい。課長の雑用係ってところかしら。入社一年で辞めた時も呆れたけど、まさか戻ってくるとはね」
自称ではない、周囲が認めるサバサバ系の木下にしては珍しく、険のある言い方だった。
「会社は新入社員に先行投資をしているのよ。三年は働いてもらわないと会社は元を取れないのに、たった一年で辞められたら会社は赤字よ。ああ腹立つ」
「そういえば木下は岩崎さんのOJTも担当していたっけ」
木下は表情から憤りを隠そうともせずに頷いた。
OJT担当として時には厳しく時には優しく指導している相手が辞めてしまう。自分の指導に問題があったのか、当時木下は反省もしたはずで。
しかしその理由は結婚退職。
この職場は結婚退職を推奨してはいない。それは入社試験のときに説明があり、伸一郎も木下もきいている。入社年度は違えども岩崎もきいていたはずだ。
事実、入社後の新人研修も男女分け隔てなく行っている。木下もそのつもりで指導していた。
社内結婚の場合は退職も多いが大抵は五、六年は働いてからである。それを一年経つか経たないか、一人前にも達しない時期に辞められた脱力感といったら。木下が腹に据えかねるものがあるのも仕方がない。
「結婚後に仕事を続けるかどうかはプライベートな問題だし、とやかく言えないけど。寿退社するつもりならば、どうしてこの業種を選んでうちに就職したのかって思うわ」
伸一郎は返事をしあぐねた。
一般的に男には結婚退職という選択肢はない。結婚して家庭をもてば、それを維持する責任を感じて真摯に仕事に取り組むことはあれど「結婚するから仕事辞めます」はまず考えられない。
結婚と仕事を天秤にかけたことがないのだから、咄嗟に返事のしようもなかった。
女はそういうもんだと言われれば、そういうものかなあと想像するしかない。
伸一郎の脳裏に杏子がよぎった。
毎朝、夜中といってもいい時間に起きて商品のサンドイッチを仕込み、朝の六時には店頭に立っている彼女。伸一郎がキッチンオリーブに通うようになってから、彼女以外の店員を見たことがない。
たった一人で店を切り盛りしている。代わりはいない。
客の立場としたら、あれだけ美味しいサンドイッチを売るお店が無くなるのは困る。
杏子のおにぎりはとても美味しいが、商品であるサンドイッチの絶品さも捨てがたい。
コンビニのサンドイッチよりは若干値が高くても味は段違いだ。それにボリューム感もありコストパフォーマンスはコンビニやスーパーのサンドイッチを遙かに凌駕する。
朝に買いに行っても客が並んでいることが多く、店頭では最低限の会話、客と店員のやり取りしか出来ないのが不満なくらいだ。
(杏子さんは結婚しても仕事を続けるだろうな)
「結婚しても」は軽く思いついた前提だったが、その状況に考えを巡らせて衝撃を受けた。
杏子が結婚するとしたら相手は自分のはずなのだ。
『女と仕事と結婚』は他人事な一般論ではなく、自分に関わることだと自覚すると、そわそわ落ち着かなくなった。
杏子とはいい付き合いが続いている、と伸一郎は思っている。
ケンカはたまにする。ケンカというよりは伸一郎が杏子の地雷を気づかずに踏んで怒らせるのが大半だ。
それでも深刻な事態に発展しないのだから、ケンカもコミュニケーションや愛情表現の一種といえる。
ふたりの意思が食い違うたびに杏子が爆発して、その溝を埋めているのだから。
付け加えると、伸一郎は未だに杏子の家の寝室を見たことがない。あれこれあるたびに、その場で組んず解れつになってしまっている。
杏子の家はどこもかしこも整理整頓されてチリひとつないくらいに綺麗であるのに、事に及んだあとは脱ぎ散らかした衣服や紙屑で散々なありさまに変貌する。
部屋には交わった男女の熱気と匂いがこもり、それに浮かされて更に事に及ぶこともある。お互いに満足し熱が引いて我に返り、ふたりで黙々と片づけるのも恒例となっていた。そのことについてだけは杏子が怒ったこともない。
要するに杏子もそうすることが好きなのだ。性の相性や嗜好が合致していれば、意見が食い違っても言い争っても、最後には丸く収まる。恋愛関係においては、それで充分だった。
後輩を数人抱えてチームリーダーをしている伸一郎は、後輩から慕われ、上長からの信頼も厚い。次年度で昇進の話も内々にきいている。
外見が周囲に与える印象は細身で洒落た優男風で、激高することもない。
しかしその実は、欲情したが最後、抑えがきかずにその場で押し倒してしまう。細身であるはずの身体も裸になれば下っ腹も弛んだまま。
身体を重ねるようになって三度目に杏子に気づかれた。彼女は伸一郎の腹の贅肉をつまんで笑った。
「これは食事に気をつけているだけじゃダメね。運動しなきゃ」
そういう杏子の身体は女性ならではの柔らかさを残しながら余分なものはない。
(どういう生活をすればそうなれるのかな)
いつのまにか、自分と一緒ではない杏子の時間にまで思いを馳せるようになっていた。