不穏な空気
杏子には会社勤めの経験がない。大学卒業と同時に家業のサンドイッチ店を継いだ。
父が亡くなってからはたった一人で店を切り盛りして生計を立てているので、お金を稼ぐ大変さはそんじょそこらのサラリーマンよりも身に染みて知っている。
どうにも判らないのが恋愛面、いわゆるオフィスラブである。
杏子の知識の基は昼の連ドラ再放送であるので、非常に偏っている。
一緒の部署にいれば恋が芽生え、残業時間にオフィスに男女二人っきりになれば恋が進展すると思っている。
隣の部署には恋敵がいたり、ライバル会社のエリートサラリーマンが横恋慕してきたり。
そういうことが日常茶飯事に起こりうると思っている。
「ないから。ホントに」
伸一郎が珍しく残業無しで定時上がりした夜。キッチンオリーブ、つまり杏子の家に寄り道をした。そういう夜には二人でちゃぶ台を囲んでご飯を食べるのが常である。
たまには居酒屋でしっぽりと語り明かすのもいいんじゃない?
と思いはするが、杏子の手料理の前には完敗だ。それに居酒屋では盛り上がってしまったときにその場で押し倒すわけにはいかないではないか。
焦りながら会計して店から連れ出して、しかるべき場所を探す。まどろっこしくて仕方がない。
(いや、ちょっと待て。飯食ってヤルだけって言いたいみたいだ。それはヒドイ男の定番だぞ)
自分の所業を反省しながら杏子に返した台詞が「ないから。ホントに」であった。
「そんなんでいちいち恋愛沙汰になっていたら、そこらじゅうカップルだらけで、やりづらいったらないよ」
「伸一郎さんの職場で職場結婚はないの?」
「……ある」
実は結構多い。管理職の半分は嫁さんが元社員だ。結婚したと同時に退職している。
木下もその口だった。ただしこっちは結婚後に夫が転職している。
どいつもこいつも、いつどこでそんな状況になっているのか。伸一郎の知らない間に愛をはぐくみ、ある日突然「結婚します(しました)」
そのたびに「マジでー!?」だ。
伸一郎自身はどうかというと、そんな沙汰とはとんとご縁が無かった。
恋愛経験がないわけではないが職場内においては潔癖を誇れる。誰かを好きになることも、誰かから好かれることもなかった。
理由なんかない。ないからなかったとしか言いようがない。
伸一郎は自分の素の見た目が平凡であることを自覚している。
不細工ではないが人をひきつけるほどでもない。要するに個性がない。他人の印象に残らない。
自意識が過剰になる年頃にそれに気づいた伸一郎は、身なりに気を使うことで自分の無個性をカバーすることを覚えた。
清潔にすること、適度に流行を取り入れること。
特に「適度に」が重要で、頑張っていることが周囲に透けて見えるようでは痛々しいのである。その匙加減が難しかった。今では意識せずに実行できていると自負している。
杏子には伸一郎があか抜けて見えている。ありていに言えば『かっこいい』
身なりはいつも綺麗で洒落ている。先日伸一郎がぶっ倒れて自宅にいったときには、普段のきちんとした姿ではない隙だらけの恰好に惚れ直した。普段きちんとした人が乱れた姿というのは、どうしてあんなに扇情的なのだろう。
こんな人とオフィスで二人きりになったら自分だったらドキドキしてしまうと思う。
木下と恋愛関係ではないと信じているが、それは伸一郎を信じているからである。状況としては信じられない。
いずれ訪れる四月。新入社員の季節。女性社員はどれほど入社してくるのだろう。
(職場にこんな格好良い人がいたら一目惚れしちゃうんじゃない?)
そう思えて仕方がない。そして伸一郎の仕事ぶりを知ったら杏子は更に焦ることになるだろう。
女房の妬くほど亭主もてもせず
という言葉もあるが、この先も伸一郎が職場内恋愛をすることはありえない。
もしあるとすれば、杏子が伸一郎の職場に途中入社したときである。
「ところでさー、この前、大学のサークル内でつきあってそのまま結婚した奴の披露宴に行ってきたんだけど、杏子さんはサークル内恋愛ってあった?」
「え……?」
杏子の台詞がはたと止まった。
伸一郎が恨めしげに杏子を見る。
男の方が嫉妬深いのである。