いただきます
納期が迫っているのに、更に酷い場合には納期を過ぎているのに、開発が終了する目途の全く立たないプロジェクトを炎上プロジェクトという。
伸一郎の勤め先で、あるプロジェクトが火を噴いた。伸一郎とは全く無関係のプロジェクトである。
会社は始めに手すきの社員を手当たり次第に炎上プロジェクトに投入し、それが尽きるとリーダークラスではない社員を投入。それでもどうにもならずに、とうとう国見伸一郎を助っ人として炎上プロジェクトに放り込んだ。
伸一郎は自分の業務を全て後回しにして、火消しに専念することを余儀なくされた。
放られる前日までは、炎上具合を対岸の火事の心持ちで傍観しながら
(あそこにだけは関わりたくねー)
と首をすくめていたが、翌朝出社してみればまるで野戦病院のような有様の職場。
徹夜で作業をしていたのだろう。机に突っ伏したまま時折ビクッと体が震えている社員、イスを並べてその上で仮眠を取っている社員、勝手に応接室に入り込んでソファで寝ている社員もいた。風呂にも入っていないようで、すえた臭いが漂っていた。
その惨状をみて
(おそらく俺も巻き込まれる気がする)
腹を半分だけ括った。そしてその日の朝一番に上長に呼び出されたのだ。
「国見のチームはいまのところ順調だよな?」
違うと答えれば嘘になる。少しは問題を起こしておけば良かった。不測の事態に自分の仕事を任せられる人材がいることも裏目に出た。それもこれも通常ならば伸一郎にとっては良いことなのに、ここでは仇となった。
木下にリーダー代行を頼み、伸一郎も渦中に身を投げることになった。
伸一郎が最初にしたのは入社二年目以下の社員をまる一日休ませること。わけもわからず、ただ作業指示を待っているだけならば、体と頭を休めた方がいいと判断した。
「人数ばっか増やしたってしょうがないだろ」
彼や彼女らが休んでいる間に、仕様を知っている数少ないメンバを集めた。指示系統を明確にし、場当たり的に口頭で伝えていた仕様をできる限り文書化した。そうすれば多少なりとも現場の混乱状態は終息するはずと信じて。逆に言えば、こういったことを疎かにしていたから、プロジェクトが火を噴いたのだ。
それからの伸一郎は下っ端連中を交代で休ませながら、自身はほぼ不眠不休で体を張った。それでも平日は何がなんでも家に帰った。終電を逃したときには翌朝に帰った。昔ならばネットカフェに泊まる状況だが、伸一郎は頑なに拒んだ。
朝帰りして風呂に入り仮眠をとる。キッチンオリーブの開店時間に合わせ家を出る。
月水金はサンドイッチ、火木はおにぎりの食生活を崩さず、土日は会社に泊まり込んだ。
杏子は伸一郎がそんな状況に巻き込まれていることを知らない。土日に休めないのも以前のような客先の都合によるものだろうと思っていた。平日もボロボロで、ほうほうの体で帰宅しているとは夢にも思わない。
伸一郎は朝になればいつも通りに来店するし、毎日入浴しているので身なりも綺麗なものだ。下着やYシャツも多く持っているので、洗濯をしなくても一ヶ月は洗い立てを着ていられる。部屋の隅に汚れ物が山のように積まれていた。
そうやって人間らしい生活を二週間ほど放棄すると、プロジェクトに鎮火の兆しがみえてきた。二週間で何とかなったのだから、炎上具合はまだ軽い方だったといえる。不具合対応も残すところあと僅か。伸一郎の助っ人期間の最終日。
件のプロジェクトの一角が小さな騒ぎになっていた。伸一郎は様子を見に行く。作業中の入社三年目の男性社員が救いを求めるような目で伸一郎を見た。
「国見さん、わかりません!」
「どうした?」
「データ書き込みボタンを1回押すと画面が固まるんです」
「どれどれ」
パソコンのディスプレイに映し出されたプログラムコードを眺める。プログラムコードが何の処理をしているのか説明するためのコメントは無かったり、有っても間違っていたり。そもそもコードが冗長で煩雑でやたらと長い。読もうとすると目が滑って、内容が頭に入らない。
伸一郎も疲れが限界にきていた。眠りそうになりながらプログラムコードの上から下まで目で追う。
目がある一箇所で止まった。まるでそこだけ浮き上がっているように見えた。
「ファイルオープンしたまんまで、クローズしてなくね?」
「あー! その通りです! なんで気づかなかったんだろう!?」
「そんなもんだよ。なにごとも経験経験、それと勘」
プログラムが不具合を起こす原因は類型的で、突き止めるには解析で苦労した経験が物を言う。それとは別に「なんとなく気になる」と勘づく能力もまた大事なのだ。真面目に働いて年月を重ねれば経験は身につくが、勘のよさは本人の資質に左右される。
他人が解析できない不具合の原因を見つけられたときの快感は癖になる。そういう意味においては伸一郎も仕事中毒といえた。
こうして伸一郎の助っ人期間は終わった。明日からは本来の業務に戻れる。伸一郎はようやく安堵した。
明けて水曜日。
伸一郎の部屋の枕元で携帯電話のアラームが鳴る。手を伸ばしスヌーズ機能ごと止めた。
布団の中で伸びをして起き上がろうとしたが叶わなかった。体に力が入らないのだ。
「寒い……」
布団の中にいるのに氷の中にいるみたいだ。ひどい悪寒がする。歯がカチカチ鳴って噛み合わない。
震える手で携帯電話を持ち会社に休暇申請の電話をかけた。いつかの嘘の腹下しとは違う本気の体調不良だ。ちゃんと話そうとするのに声が震えて何度も言い直した。
(こりゃあ、山を越えて気が抜けたな)
伸一郎は布団を頭から被って再び眠りに落ちた。
夢を見た。どこかの小さな個室で尋問を受けている。万引きでもして捕まったのだろうか。
『住所は? どこに住んでいるの?』
伸一郎は一生懸命に答えているのに
『聞こえない。もう一度、最後までハッキリ言って。目印になるものある?』
ああもう、うるさいなあ、しつこいなあ。どこに住んでたっていいじゃないか。
『熱計った?』
なぜそんなことをきく?
伸一郎の疑問で夢は幕を閉じた。
伸一郎は目を覚ました。上半身も起こせた。ひどい悪寒は治まっている。喉がカラカラだった。
「起きたね。なにか飲む? ポカリ買ってきたよ」
「ん……」
朝からどのくらい寝ていたかわからない。頭がボーッとしていて聞き慣れた声に条件反射で返事をした。
「お腹空いてる?」
杏子がマグカップを差し出しながら問いかけた。
「ありがと……え!?」
マグカップを受け取り、伸一郎の思考がやっと回り出した。
「どうしてここに?」
「そんな姿でよく言えますね? 朝はお店に来ないし、メールしても返信がないし。迷惑かなって思ったけど電話したら、声がグダグダだし」
「電話くれたの?」
「お店が終わってからね。もっと早くかければよかった」
伸一郎がマグカップに口を付けるのを見届けてから、杏子はその場を離れた。
その後ろ姿を伸一郎は見つめる。それから周囲を見渡した。部屋の中が一段階明るくなっているように見えた。寝ている間に空気も入れ換えてくれたのだろう。汚れ物の山も姿を消していた。
体に気だるさが残っている。気分は悪くないが疲れは抜けていなかった。
「寝汗がひどかったから着替えたら?」
杏子からTシャツを受け取って枕元に置くと、杏子の手を掴んで布団に引きずり込んだ。
「きゃあ!」
布団の中で伸一郎の両足が杏子の下半身に絡まる。杏子はまさかと思う。電話をかけたときには、あんなに弱々しく擦れた声で消えてしまいそうだったのに。伸一郎の住所を何度たずねてもまともに答えられないくらいだったのに。いまのこの状況はまるで――――
――――そんなわけないではないか。杏子は心の中で首を横に振る。
(これは安心して寝てしまうパターンね。よくあるある)
しかし杏子の予想は大ハズレ。そんなわけあったのだ。
着衣のまま擦り寄り伸一郎が腰を揺すった。擦りつけられて布越しに伝わる身体が熱いのは、体調不良が原因だけではないらしい。伸一郎の熱さに煽られて杏子の身体にも飛び火しそうになるが。
「待って! 待って待って! 具合悪いでしょ? 疲れてるよね?」
「ここ二週間まともに寝てない。疲れなんとかとか、バテなんかとか聞いたことない?」
「ないない、あるわけないっ。二週間寝てないってなに!?」
「バレないように気をつけてたから」
「それでぶっ倒れていたらしかたないでしょ!? すっごく心配したんだからね。それに……」
杏子の声が涙声に変わる。
「わたし全然気づかなくて。毎日会ってたのに」
「上等上等。バレないように気をつけてたって言っただろ」
「ちゃんと言ってよぉ」
「大丈夫だって。ちゃんとご飯食べてたんだから」
「だって寝込んでいたじゃない」
「寝てれば治る。そんなに心配してくれるならさ、ほら」
伸一郎が掛け布団の端を引っ張り、二人は頭からスッポリと掛け布団を被った。
がさごそ、がさごそ。掛け布団が揺れる。布団の中では呼吸をするだけで温度が上がる。
「なんでそんなに元気なの」
「疲れてるよぉ。そういうときの方がこう……疲れ……」
「ぎゃーっ! わかってる! さっき聞いたから!」
「叫ぶと暑くなるよ。では、いただきまー……」
ぐー
伸一郎と杏子は布団の中で顔を見合わせた。杏子がクスッと笑う。伸一郎はそれを無視して更に進めようとするが。
ぐー、ぐー
「ぶはっ! ごめん」
杏子が布団から抜け出した。続いて伸一郎もしぶしぶ布団から抜け出す。脱ぎかけていたスウェットを腰まであげた。
「お腹空いてるよね?」
「……はい」
それはもう、いやいやと。心の底から嫌そうに返事をした。
「おにぎり作ってきたの。食べる?」
杏子は持ってきたトートバッグからおにぎりを出して伸一郎に渡す。
「食べながらってあり?」
「あるわけないでしょ」
杏子は立ち上がった。
「ご飯をおろそかにするようなことを言う人にはお味噌汁を作ってやる」
「うちに味噌あったかなあ」
「ご心配にはおよびません」
杏子がラップに包んだ味噌玉を伸一郎に見せた。
「いりこだしとワカメとネギも混ぜ込んであるの。お椀に入れてお湯を注げばできあがり。お鍋も汚さないから後が楽でしょ」
「おみそれしました」
伸一郎はただ平伏するばかり。
炎上プロジェクトの火消しで、朝も夜も判らなくなりながら正気を保っていられたのも、杏子が作るお昼ご飯を食べていたから。彼は彼女に心配させたくないだけでなく、彼自身のためにキッチンオリーブに来店していたのだった。