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月が綺麗だから

『客先は山の中』

 と言っては大げさだけれども、工場を併設した広い敷地の客先の社屋は、都会の喧噪を離れた郊外にあった。郊外といっても住宅地ではなく人が生活している気配もない。


 終業時間をとうに過ぎた午後八時に、伸一郎はようやく仕事から解放された。

 ここから自宅まで電車を乗り継いで二時間はかかる。最寄り駅に着く頃には十時を回る。杏子は既に寝ている時間だ。


 仕事疲れと杏子に逢えない落胆で、下を向いて溜息をついた。

 舗装の行き届いていない砂利を含んだ道で視界がいっぱいになる。その光景にますます気が滅入りそうだ。

 気を取り直そうと顔を上げた。


 目に映るのは濃い紺色で塗りつぶされた空。ビルも家もない風景に月があった。

 月は丸くてとても大きくて、思いのほか近くに見えた。


 中秋の名月は昨日だったが、なかなかどうして今日の月も綺麗だ。


 伸一郎は思い立って携帯電話を取りだし、歩きながらメールを打ち始めた。


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 月が綺麗なのでメールしました。

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 これは会心の出来だと思った。なんといっても情緒がある。いつものいまひとつなメールとは一味違う(はず)。

 気の利いた俳句のような出来映えだと自画自賛しながら杏子宛てに送信した。


 それから五分ほど過ぎて、伸一郎が駅に着く頃に杏子からのメールを受信した。


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 ありがとう。ちょっと驚いた。

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 伸一郎は首を傾げた。「ありがとう」はともかく「驚いた」とはどういうことだろう。

 日頃のいまいちメールと比べてのことだろうか。

 駅のホームで電車を待ちながら再びメールを打つ。


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 いつものメールと違うから?

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 送信ボタンを押した直後に電車に乗った。

 電車に揺られながら返信を待つ。さっきのメールよりも待ち時間を長く感じた。


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 夏目漱石の話知ってる?

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 伸一郎は再び首を傾げた。

 杏子はたまに話が脈絡無く飛ぶことがある。

 今回飛んだ意図は全く見当もつかないが、夏目漱石に関する知識を総動員してメールを打つ。


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 知ってるよ。『吾輩は猫である』の作者だね。

 『こころ』は国語の教科書に載ってた。

 昔の千円札で、数年前昼ドラで『吾輩は主婦である』が

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 そこまで打って手を止めた。これを送っては非常にマズイ予感がする。

 根拠はないが直感だ。

 そもそも杏子の話が飛ぶときは、自分が杏子の地雷を踏みかけたか、踏んだときである。


 メール画面を中断して、ブラウザを起動する。

 「夏目漱石」と「月」で検索した。


 検索結果の一番上のサマリーを読んで驚愕した。

 夏目漱石は、その昔"I love you"を「月が綺麗ですね」と訳した云々と書かれていたのだ。事実か逸話かは定かでないが、そんなのは大した問題ではない。

 重要なのは『月が綺麗はI love you』が周知の事実になっているということだ。


 自分が最初に杏子に送った文面に当てはめてみると「杏子を愛しているからメールした」ということになる。

 それを遠回しに月が綺麗だなどと気障ったらしく伝えてしまったわけだ。

 そんなつもりではなかったのに。


 杏子を好きだ。逢えなければ落ち込むくらいに。月が綺麗ならばそれを伝えたいくらいに。

 それはきちんと自分の言葉で言いたいと思う。


(あれ、ちょっと待てよ。俺は杏子さんに好きだと言ったことがあったっけ)


 記憶を手繰っても思い出せず。何と言い繕えばいいかも思いつかず。


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 ごめんなさい。今度ちゃんと言います。

 おやすみなさい。

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 今夜もやっぱり情けないメールになってしまった。

 伸一郎は送信ボタンを押してから、恨めしげに電車の窓から月を見上げた。

 窓越しから見える月も綺麗だった。

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