どっちもどっち
いま職場では、国見伸一郎のお昼ご飯に熱い視線が注がれている。
彼が火曜日と木曜日に食べているおにぎり弁当に。
おにぎりは中くらいの大きさが3つ、もしくは大きめが2つ。
絶妙な握り具合と塩加減。具は日替わりで梅干し、おかか、昆布、高菜、ツナなど。
つけ合わせのおかずに自家製のたくあんは必ず。他にだし巻き卵や煮卵や揚げ物のいずれか1品。旬の野菜を炊いたものが1品。
サンドイッチの名店がお得意様だけに提供するという、幻のおにぎり弁当という噂だ。
今日は木曜日で、伸一郎がおにぎりを頬張る横を、何人かの社員が物欲しげに眺めながら通る。
常識的に、人が食べている物をジロジロ見るなんて失礼なことであるはずなのに。
伸一郎と近しい社員など「その弁当いくら? 俺の分も注文してくれ」と言い出す始末。
どうしてこんなに有名になってしまったのか。
「おい、上田」
伸一郎は隣の席でコンビニの焼肉弁当を食べていた上田に声を掛けた。
今日は木下が有給休暇をとっているので、上田は外食をせずに社内で食事をしていた。
「どれだけ吹聴してまわったんだ?」
噂の発生源はこいつに決まっている。かつて伸一郎が昼食を食べ逃して、代わりにおにぎりを食べたことがあった。
上田は悪びれもせずに答える。
「いいじゃないッスか。旨いものを旨いって言っただけッスよ? 事実ッスから。具は目撃追加情報ッスけど」
「事実じゃねえだろう!? なんだよ『お得意様に提供』っつーのは。俺がここ最近何件注文断ってると思ってんだ」
伸一郎がお得意様であるなら、そのよしみで便乗注文してしまえという腹づもりの輩たちからの注文だ。
「だって『彼女』だって言わなかったじゃないッスか。一応気を遣ってるッスよ」
気を遣って歪んだ情報を流されたらたまらない。それに最早そんな気遣いも不要だ。
「あれから状況が変わったんだよ」
「そんなの聞いてないッスよ」
伸一郎と上田が軽く口論をしている横をまた1人通りがかる。伸一郎の同期の男性社員だ。
「お、今日も旨そうだな。いくら?」
「知らねえよ!」
気心の知れた同期だから、伸一郎の返事もひときわ乱暴になる。
答えた後に伸一郎は首をひねった。
そういえば、いくらなんだろう?
今でも、デートの口実ではない本当の意味での「お礼」もしくは「代金」はうやむやになったままだ。
杏子は売り物にはならないと言っていたが、買いたがる人はこんなにもたくさんいる。
さすがだなあ。
伸一郎は素直に感心した。
その尊敬の念が杏子の地雷になるとは露知らず。
その日の午後から客先で打ち合わせがあった。
帰りの電車の中で左手でつり革を掴みながら右手でメールの本文を作成する。
=================
今日は客先に行って直帰です。
打ち合わせが早く終わったので18時頃に駅に着きます。
会えますか。
=================
会話からやっと「です」「ます」が消えたのに、メールの文面はまだ少しよそよそしい。
どうにもマヌケな文面に見えてしまうのは、このよそよしさのせいかもしれない。
かといってどう直せばいいのかも思いつかず、そのまま送信した。
別にメールで口説こうとしているわけじゃない。早く用件を伝えることが大事なのだから。
杏子からはすぐに承諾の返信が「お肉とお魚のどちらがいいですか?」という質問とともにきた。
迷わず「肉!」と返したあとに、俺バカじゃん、と自分に突っ込んだ。
こういうときに外食に誘わなくてどうするんだよ!?
電車の中で携帯電話を握りしめ溜息をつく。
杏子と自分の関係について、いろいろと順番がおかしくなっていることは自覚していた。
玄関先でやらかしてしまった件については、まだ生々しく記憶に残っている。
残っているというよりも、時が経っても忘れられる気がしない。
思い出すと身体が反応してしまいそうになる。
こんなところでそんなことになったら変態だろ。
公衆の面前で考えるべきではないことから気をそらすために、電車の窓ガラスに映る自分の姿を見て身だしなみのチェックを始めた。
今朝ドライヤーとヘアワックスでチラした毛先は汗と時間の経過で馴染んでいる。これはこれで見てくれは悪くないはず。無精ヒゲが生えていないことも確認した。
顔もテカってないし、洗顔の必要もないだろう。電車を降りたらそのまま直行だ。
身だしなみのチェックを終えて改めて窓ガラスに映る自分を見ると、朝よりは疲れた顔をしていた。
疲れているのは自分1人ではない。夕方から夜の電車に乗っている人たちは、みんな大抵こんな表情だ。
そのなかでも自分は、これからおいしい夕食を食べられるのだから幸せだと思う。
外食を思いつけずに家で食べる前提で返信をしてしまったのは、身体が杏子のご飯を欲していたからだろう。
そう、欲しがっているのはご飯だ。
二度とあんなふうに欲情を暴走させてはならない。
伸一郎が杏子の家に着くと、既に夕飯の支度は調っていた。
「簡単に作れるものにしちゃった」
杏子がちゃぶ台に並べたのは、豚の生姜焼きに千切りキャベツ、イカオクラ納豆、シジミの味噌汁、揚げ出し豆腐。
伸一郎は生姜焼きが豚ロースの一枚肉であることに感激した。
「細切れの豚肉と玉葱が炒めてあるバージョンもあるけど、あれは生姜焼きじゃなくて肉野菜炒めだと思う」
「生姜の摺り下ろしで味付けしてあるなら、あれも生姜焼きだと思うけど」
杏子の受け答えを聞いて、伸一郎は豚肉を頬張りながら不満げだ。
子どもの駄々こねのような態度を見て、杏子は笑った。
「これから、うちの生姜焼きはこれにするね」
「うん。でも肉野菜炒めも好きだから」
生姜焼きという呼び名に拘ってしまっただけで、杏子の作るご飯は何でも旨いし、全部食べたい。
レパートリーが封印されては困るのだ。
杏子もそんなことは百も承知で「肉野菜炒め生姜風味ね」と、まだ披露したことのない料理に命名した。
伸一郎が杏子が作ったご飯をどれでも美味しそうに食べるように、杏子は伸一郎の話を何でも楽しそうに聞く。
話している伸一郎が(こんな話が本当に面白いか?)といぶかしげになる内容であっても。
会社勤めをしたことがないから、上司や同僚や後輩といった上下関係の話がことさら面白いらしい。
杏子が話にウケてくれると伸一郎も気分がよくなり、嘘ではない程度に話を誇張したりオチをつけたりと、面白おかしい話に仕立て上げた。
そうして調子に乗って、伸一郎は知らずに地雷に片足をかける。
「杏子さんのおにぎり、会社でスッゲー評判いいの。売ってくれってうるさいくらい」
「あれは売り物にならないから」
食事を終えて、食器を重ねて2人で洗い場に持っていった。
杏子はあとで洗うからと言って、伸一郎に居間に戻るように促した。
お盆に麦茶が入ったボトルと氷入りのグラスをのせて戻ってきた。
蒸し暑くて渇いた喉を麦茶が潤す。
「でもメチャクチャ旨いし絶対売れるって」
「売るために作ってるわけじゃないから」
頑なに拒む杏子に、伸一郎は首をかしげる。
おにぎりが売り物になるかならないかという判断基準において、伸一郎と杏子の認識にずれがあった。
伸一郎はクオリティだと考えているが、杏子は動機だと考えている。
味は申し分なくて周囲からも評判が良いのだから、伸一郎は売り物になると思う。
しかし杏子は、伸一郎のために作っているのだから売り物にはならないと思うのだ。
このずれに気づかない限り、2人の話は平行線のまま。
そして杏子はふと疑問に思った。
「どうして注目されちゃったのかしら。地味なお弁当だと思うのだけど」
メインはおにぎりで、おかずは付け合わせだ。人目をひく派手さはない。
杏子のおにぎりの良さは食べてみなければわからないのだ。
材料も前日の残りを使ったり、当日の昼ご飯のおかずと共用していたりする。
伸一郎と同じおかずを食すことは、杏子の密かな楽しみになっていた。
「前に俺が食べられなかった日に、代わりに後輩に食ってもらったから。そいつの口が軽くて……」
伸一郎はついに地雷を踏んだ。
「なんですって」
杏子の声色が変わった。きれいな声に変わりはないが怒気をはらんでいる。
「あ、食べなかったって、あの蕎麦屋の日だよ。あれだけ」
杏子の怒りを買ったのはそんなことではない。
「誰かに食べてもらったの?」
後輩に食べてもらったときいたのに改めて尋ねる。
「あ、うん。そう。だって捨てたらもったないし」
恐る恐る答えた。
「国見さんはギターを弾きますか?」
「は?」
杏子の話は脈絡なく飛んだようにみえた。
「誰かのために歌を作ってプレゼントしたことはありますか」
「いや、俺、そういう趣味なかったし……」
今どきそんなことをする男がいるのだろうか。
「お手紙でもプレゼントでも何でもいいです。相手のために贈ったものを、いらないからと言って誰かにあげていたらどう思いますか」
杏子の口調がですます調に戻っていて、伸一郎に恐怖感を与えた。
つられて伸一郎の口調も戻ってしまう。
「いや、だって、弁当だし、食べ物だし、食べ物を粗末にしちゃいけないですよね」
「そんなことはわかってます! でも売り物になるとか、何とか、わたしの気持ちを何だと思ってるんですか!? わたしは国見さんに食べて欲しいから作ってるんです。国見さんが食べてくれないなら意味ないんです」
そうだった。
杏子がおにぎりを作ると言い出したときに「俺のために作ってくれたものは」と答えたのは自分自身であったことを、伸一郎は思い出した。
「食べられなくてもいいんです。でもそのときには国見さんの手で処分して欲しいんです。誰かに託さないで」
杏子は怒っていた。
もらったものをどうしようと、もらった側の自由であるはずなのに、他人に譲るのは許さないと言う。
伸一郎は食べられなかった引け目もあるし、一方的にもらってばかりいる立場でもあるので、反論のしようがない。する気もない。
怒っている杏子は怖い。
付き合う前、サンドイッチを買いに行くたびに睨まれていたときも怖かったが、今はもっと怖い。
怖い。怖いのだが。
「……あれ?」
杏子の声から怒気が消えた。視界に伸一郎が入っていたはずが、天井に変わっていた。
背中には畳があたり、身体は仰向けになっている。
一度視界から外れた伸一郎が再び視界に入ってきた。
自分は押し倒されたのだと気づいた。
何で?
杏子の疑問の回答は伸一郎がくれる。
「こういうことしてうやむやに話を終わらせようとしてます?」
伸一郎は首を横に振った。
「そんなこと考える余裕ない。すっごく興奮してるから」
身体がピッタリと張りついてきて部分的に出っ張りを感じ、嘘ではないのはわかった。
「俺はちょっと変かもしれない。怒っている杏子さんをみると、したくなるみたい」
「~~~~!?」
そこから先は言葉にならず、伸一郎は先ほどの電車内での反省もすっかり忘れていた。
脚を絡めて杏子の髪を撫でながら伸一郎はぼんやりと呟いた。
「睨まれて怖かったのに店に通ってた理由って、サンドイッチが旨かったからだけじゃなかったのかも」
「他に理由があるの?」
「怖かったから」
「えーー!? なにそれ!?」
「だから怒っても無駄だって話」
2人が睦言を交わしている場所は居間で。寝床はまだ遠い。
とりあえず、ちゃぶ台が引っ繰り返らなかったことが奇跡なくらいの激しさだった。