おにぎりいかがですか
長谷部杏子の月水金の朝は、ウキウキして落ち着かない。
杏子は家業の手作りサンドイッチ販売で生計を立てている。
大学卒業と同時に家業を引き継いだ杏子を見届けて、父は翌年に亡くなった。
母が亡くなったのは中学生の頃だ。
杏子は店舗を兼ねた家で1人で暮らしている。
手作りサンドイッチの店キッチンオリーブの朝は早い。
仕込み開始は午前3時。
杏子は2時半には起床して身支度を調える。
爪はのびていないか、気づかないうちに指先に傷を作っていないか。
それらを確認すると、肩までかかる天然の緩やかなウエーブの髪を1つに束ねる。
身だしなみ程度のメイクをするのは、仕込みが終わって接客を始める直前である。
パンは業者から仕入れ、挟む具材は全て手作りだ。
揚げ物から、ポテトサラダやタマゴサラダ、野菜を切るのもパンを切るのも杏子1人。
朝6時の開店に間に合わせるために、毎朝暗いうちから懸命に準備をする。
お客様は通学や通勤で駅に向かう途中に寄って買っていく人たち。
杏子はショーケース1台置いただけの店頭でサンドイッチを売っている。
毎週必ず月水金に買いに来る人がいる。
杏子の心を浮き立たせる男。
前髪が目にかかるくらいの長さで襟足は短めのクセっ毛風の髪型。
黒縁メガネは流行りのスクエア型。おそらく同年代。20代後半から30代前半。
身長は160cmの杏子が軽く目線をあげるくらいの高さ。
秋から初冬にかけては細身のシルエットのスーツを着ていた。
今はクールビズの時期らしく、ノーネクタイでYシャツを着ている。
下着代わりの派手なTシャツが透けているという迂闊さはない。
注文のために彼が近づいてくると、ほのかに香る。
香水のような強いものではないので、ヘアワックスの香料だろう。
髪型が毛束感のあるクセっ毛風なのも、杏子のように天然ものではなくて、パーマをかけているのかも。
床屋ではなく美容室に行くタイプ。
あか抜けた人。
それが第一印象だった。
あか抜けたという物言いそのものが、杏子の野暮ったさを表している。
キッチンオリーブに来る客の多くは、杏子が親近感を持つような風貌をしている。
彼は特別だった。
「いらっしゃいませ。お決まりですか」
「イカリングとタマゴサンド」
彼はいつもと同じ注文を告げた。
最初に惹かれたのは注文を告げる声だった。喋り方は軽いのに耳の奥にズシンと響いた。
それから財布から代金を取り出す長くて細い指。
関節が節張っていて男の人の指だと思った。
杏子は彼の名前も知らない。
どこから来たのかも、どこへ行くのかも知らない。
ただサンドイッチを買っていくだけの人。
それ以外に何も知らないのに、杏子は彼を見て声をきくと心臓がドキドキしてしまうのだった。
杏子はまず彼の後ろにお客様が並んでいるかを確認する。
朝の商売は迅速さが何より大事。誰もみな目的地に向けて急ぎ足。少しの手間取りが命取りだ。
彼の後ろにお客様がいれば、潔く恋心はシャットアウト。
ウキウキもときめきも捨てて商売に専念する。
今日は彼の後ろにお客様は並んでいなかった。
(話しかけてみようかな)
杏子の逡巡が始まった。
(良いお天気ですね)
心の中で言葉を紡ぐ。しかし今日は曇天だった。
(サンドイッチお好きなんですか?)
気を取り直して他の話題を考えてみるが
(嫌いだったら買わないだろう)
自答してしまう。
杏子の目線は彼に釘づけ。こんなに見つめていたら気持ちも伝わってしまうかもしれない。
目は口ほどにものを言う、という言葉もある。
しかし実際のところは、杏子の恋する視線は彼を睨んでいるようにしかみえず、彼を無闇に怖がらせていただけであることを、まだ杏子は知らない。
*・*・*・*
キッチンオリーブの閉店時間は不定だ。サンドイッチを全て売り切れば閉店である。
今日は午後3時過ぎに店のシャッターを下ろした。
そのあとは売上げを計算したり、銀行に行ったりと雑務をこなす。
日々几帳面にこなしているので時間はそんなにかからない。
雑務が終わればテレビを見たり、夕飯の買い出しをしたりして好きに過ごす。
杏子はまとめ買いをせずに毎日商店街まで買い物に行く。
ぶらりと歩くことが好きだった。
夕飯はもっぱら和食。今日は商店街の魚屋で鰯を選ぶ。
サンドイッチに挟む白身魚フライの代わりに鰯フライはどうかしら?
と考えてみたが、大量の鰯を下ろすのに時間がかかりそうなので諦めた。
杏子が魚屋の主人に鰯の代金を支払う横で、おかみが馴染み客と会話にいそしんでいる。
夕飯時も買い物に急ぐ時間ではあるが、朝の急ぎ方とは違う。
夕方の忙しさには迷う余地がある。夕飯のおかずは肉にしようかしら、魚もいいわね、と。
朝は時間との競争。注文に迷っている暇はない。
それでも毎日同じ物はイヤだと思う人のために、キッチンオリーブには「日替わりサンド」もある。
日替わりサンドは一週間ローテーション。ダブる心配はない。
でも、あの人は月曜日はいつもイカリングとタマゴサンド。
杏子は彼を思い出し、1人で笑みをこぼす。
いつか、ゆっくりお話したいな。
夕方に魚屋のおかみと馴染み客が長く会話をするように、時間を気にせずに話をしてみたかった。
「ねえねえ、杏ちゃん」
馴染み客との会話を終えたおかみが話しかけてきた。
杏子の買った量を見て言う。
「まーた、1人分だけ買ってえ。いい人いないの?」
「残念ながら」
「今度、いい人紹介してあげるわよ。勤め先もカッチリしてるから」
「いいご縁があれば」
曖昧な返事に愛想笑い。
おかみのお節介は善意からきている。
杏子ぐらいの年齢の女性が1人でふらふらしているのは見ていられないらしい。
顔を合わせるたびに何かと『ご縁』を勧められる。
わたしだってねえ、好きな人くらいいるんだから。
名前も知らないけど。
*・*・*・*
杏子の就寝時間は午後9時。6時間は寝ないと調子が出ないので仕方ない。
夜のテレビ番組のドラマもバラエティもとんとご無沙汰だ。
昼間に再放送している数年前のドラマを、お茶を飲みながら見るのが関の山。
いま見ている再放送のドラマは商社を舞台にしたオフィスラブもの。
主人公の男性と同僚のヒロインが居酒屋で酒を飲んでいる。
不運続きで荒れているヒロインに主人公があれこれと世話を焼いていた。
仕事が終わった後の飲み会なんて、まるでおとぎ話のよう。
大学卒業と同時に家業を継いだので、杏子には会社勤めの経験がない。
スーツを着て、通勤電車に揺られて、仕事して、時には残業もして、ストレス発散に飲みに行く。
あの人もそんな風に暮らしているのかな。
ぼんやりと考えながらお茶をすする。
「アチッ」
お茶が熱い。杏子以外には誰もいない食卓で1人で声を上げた。
今日は金曜日だったのに彼はお店に来なかった。
今週の月曜日も水曜日も来ていたのに。
彼は名前も知らないお客様。
常連客がある日を境にパッタリ来なくなることなんて、よくあること。
理由はいくらだって想像できる。
引っ越して買いに行けなくなった。
会社を辞めて昼食を買う必要が無くなった。
飽きて違う物を食べたくなった。
……昼食にお弁当を作ってくれる人ができた。
もしも来週の月曜日にも来なかったらどうしよう。その次の水曜日は?
杏子はどうしたらいいのか、わからない。
話しかけられないとか、うじうじしていないで、勇気を出せばよかった。
後ろにお客さんが並んでいないときに話しかければよかった。
後悔。後から悔やんだってどうしようもないのに。
*・*・*・*
だから杏子は翌日の土曜日に彼を見かけたときに粘りに粘った。
土曜日はキッチンオリーブの定休日で、朝から髪は下ろしたまま。
定休日には朝から出かける。映画を見たり、書店に行ったり、気の向くままの行き先だ。
雨が降りそうなので、メガネの代わりにコンタクトレンズを入れて、傘を持って家を出た。
案の定、大粒の雨が降り出した。杏子は傘を開いて駅に向かう。
傘に雨があたる音は好きだ。心地よく音を聞きながら歩いていると、見つけたのだ。
傘もささずに大雨に打たれている彼を。
全身濡れ鼠を体現する出で立ちだった。
いつもは無造作に飛び跳ねている毛先は、びしょ濡れでグシャグシャで見る影もない。
Yシャツは濡れて体にピッタリ張り付いていて気持ち悪そう。
怒ったような顔をして大股で歩いていた。
「風邪を引きますよ」
ありきたりな台詞だったが、これ以外は思い浮かばなかった。
雨に濡れて歩くなんて彼らしくない。
身なりの気遣いや、お会計のときの手つきからいって、梅雨時期に彼が傘を忘れるとは思えなかった。
誰かに貸してあげたのかしら?
女性? 男性?
邪推する気持ちに懸命にフタをする。
とにかく彼を捕まえるのだ。
このチャンスを絶対に逃してはならない。
それからはもう必死だった。
「走って帰ればすぐだから」と言う彼に「うちもすぐ近くだから」とすがり、クシャミをした彼に「引き留めちゃってごめんなさい」と言いつつも彼を解放しなかった。
いらぬお節介、迷惑、そんなことは気にしていられない。なりふり構ってられなかった。
彼が口では断りながらもお腹の音を鳴らしたときには、天使が鳴らすベルに聞こえた。
なぜならば、料理の腕には絶対の自信があるからだ。
慌てて材料を買いに行く必要などない。
家の常備菜の梅干しとたくあん、昨日買ったばかりの菜っ葉。出汁ひき用の鰹節。これで充分。
一口食べてもらえれば、杏子は彼の胃袋をガッツリ掴める。
そして彼女は捕獲の網を打つ。
「おにぎり食べますか?」
*・*・*・*
一人暮らしの女の家に男を招くことがどういうことかぐらい、杏子も知っている。
料理の腕を振るうまでもなく、彼女自身が彼に戴かれてしまうのもやぶさかではなかった。
しかし彼は家に足を踏み入れた途端に言った。
「風呂はいいです」
杏子はガックリ肩を落とす。
「体を温めた方がいいですよ」
「ええ、タオルだけ貸して下さい。頭とか拭きたいんで」
彼の足もとに雨の滴がポタポタ落ちていた。
「あ! すみません。家の中で」
「全然構わないんで。気にしないで下さい。タオル持ってきますね」
全身を包むバスタオルと、頭を拭く大きめのフェイスタオルを用意する。
粗品のペラペラではなく、内祝いなどで戴くようなふっかふかのタオルだ。
本当は着替えも用意したかったのだが、この家の唯一の男性だった父の服は処分してしまった。
遺品は他に残してあるので、着るあてのない服は不要品でしかない。
杏子の身の回りには必要なものしか置いていない。
服も1枚くらい残しておけばよかったかな。
しかし上半身裸の上にバスタオルを羽織っただけの彼の姿を見て、処分してよかったんだと思い直した。
彼は一見、細身だが万年運動不足のために、下っ腹が出ていることを、まだ杏子は知らない。
彼が着ていたびしょ濡れのYシャツは乾燥機の中で回っている。
Yシャツの乾燥を待っている間にご飯の仕度をする。
冷凍ご飯を電子レンジで温めるか迷ったが、炊きたてのご飯を食べてもらいたくて、炊飯器の早炊きモードのスイッチを入れた。
鰹節で出汁をひいて菜っ葉の味噌汁を作る。
残った鰹節は刻んで醤油と和えておにぎりの具に。
梅干しもおにぎりの具。つけ合わせにたくあん。
雨に打たれてグッタリ疲れているだろうから、塩気を強めに。
おにぎりと、たくあんと、味噌汁。
地味なメニューでも、美味しいと言わせる自信がある。
杏子の勝負下着ならぬ勝負飯を一口食べた彼は、おにぎりを見つめて破顔一笑した。
さっきまで少し強ばっていたような表情がみるみる柔らかくなる。
「お味はどうですか?」などと聞くまでもない。
「おにぎり、メチャ旨いです。おにぎりも売ればいいのに……と思います」
かなり嬉しい。ちょっとガッカリ。心をこめたのに伝わっていないようで。
もちろん売り物のサンドイッチも心をこめて作っている。でもそれは不特定多数のお客様に対してのこと。
『誰か』を思い浮かべて作っているわけじゃない。
いま彼が食べているおにぎりは、彼のためだけに作ったもの。
彼に美味しいと言ってもらいたい一心で。
だからこのおにぎりは売り物にはならないの。
おにぎりは売れないと答えると、彼は残念そうだった。
月水金はサンドイッチの彼は、火木に何を食べているのだろう。
もしかしたら、火木も外食か買った物を食べているのかもしれない。
「火曜日と木曜日は何を?」
「え?」
「あ、すみません。たぶんお昼を買われていると思うのですが、月水金だけいらしていたので」
「ああ、コンビニでおにぎり買ってます。片手で食べられるものがいいので」
「そうですか、あの、もし……」
チャンスを逃すな、捕まえろと焦っていて、肝心なことを聞いていなかった。
それは名前。名前を知らなくても恋はできるのだと身をもって知った。
しかし名前を知らないままでは、この先困るではないか。現にいま会話が途切れてしまった。
「お名前は?」
杏子の声に彼の声が重なり、心地よい和音となって響いた。
「国見伸一郎と言います」
杏子はやっと、彼の名を知った。
ついでに思いも寄らぬ事実も知った。
伸一郎曰く、嫌われていると思っていたらしい。
「睨まれていたので」
なんと言うことだ。
恋する乙女の熱い視線だと自分では思っていたのに、威嚇する鋭い眼光になっていたらしい。
遠慮がちに「怖かった」とも言った。
ショックである。
「怖かったのに、いらしてたんですか」
「そういうことになりますね。なんでだろ。サンドイッチ旨かったからかな」
ええい、もう!
商売物のサンドイッチが恐怖心に打ち勝つくらいに魅力的ならば、彼の為だけに作ったおにぎりはどれほどか、目に物見せてあげる。
「おにぎりは商品にはできませんが、国見さんが食べたいと仰るならば作ります」
月火水木金。
まるまる一週間、わたしのご飯で満たしてあげようじゃないの。
ありったけの心をこめて。
乾燥機が終了の合図を鳴らした。
伸一郎の髪も乾いてボサボサになっていた。
日頃のクセッ毛風の髪型は伸一郎のスタイリングの技だったらしい。
杏子はいつの日か、今日みたいな雨の日のアクシデントではなく、ごく日常的にボサボサの髪を見たいと思っていた。