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MAC

作者: ランノスケ
掲載日:2026/11/03


1973年、アメリカ、ブロンクス。焼けた煉瓦とサイレンの音が響く混沌とした街で、貧困と孤独の中に生きていた15歳の白人少年マック・アイリッシュは、偶然足を踏み入れた空き地で、黒人の若者たちの間で熱狂的に支持されていたターンテーブルのビートと出会う。初めて手にしたマイクの前で口を開いた彼は、自分の言葉をリズムに乗せて言葉を放つ。

後に白い悪魔と呼ばれる天才マック・アイリッシュの始まりである。

目次

1. 序章 白い悪魔

2. 第一章 ブロンクス

3. 第二章 悪友

4. 第三章 ブロックパーティー

5. 第四章 マイクを握れ

6. 第五章 ラップバトル

7. 第六章 異端児

8. 第七章 レコード契約

9. 第八章 God

10. 第九章 孤独

11. 第十章 最後のビート

12. 第十一章 少年


序章 白い悪魔

のちに誰もが知ることになる名前は、あの夏の夜にはまだ誰のものでもなかった。

一九七三年八月。ブロンクスの空気は焼けた煉瓦とごみとどこかの窓から流れてくる揚げ油の匂いが

した。

マック・アイリッシュは十五歳だった。痩せていて肘が尖っていて着ているTシャツは三つ年上の従

兄の古着だった。袖が長すぎていつも二回折っていた。

「いいから来いってマック。見たらぶっ飛ぶから」

ベニーが腕を引っ張った。プエルトリコ系の小柄な少年で口数の多さでは街でマックと張り合える数

少ない一人だった。

「どうせ、また誰かの兄貴がラジオ流してるだけだろ」

「違う。レコードだ。ターンテーブル二台で同じとこをずっと繰り返すんだよ。ずっとだぞ」

意味がわからなかった。わからないまま、マックはついていった。家に帰れば祖母の小言が待ってい

るだけだ。それよりわからないもののほうがましだった。

角を二つ曲がると音が聞こえた。

最初に腹に来た。低い割れた太鼓の音が地面の底から押し上げてくる。次に人の声と笑い声と靴底が

擦れる音。建物の間の空き地に百人近くが集まっていた。街灯から延長コードが引かれ、その先で電

球がひとつ、虫を集めながら揺れている。

機材の前に大柄な男が立っていた。レコードを指先で押さえ、盤の上で小さく戻し、また走らせる。

曲の一番熱いところだけが何度も何度も繰り返された。

そのたびに人の波が爆ぜた。

少年たちが輪の中に飛び出し背中で回り、床に手をつき、足を蹴り上げる。見物の女の子たちは手を

叩いている。誰も金を払っていない。誰も着飾っていない。なのにマックの知るどんな劇場よりそこ

は満ちていた。

「な?」ベニーが叫んだ。

マックは答えなかった。口が開いたままになっていた。

DJの横でマイクを持った若い男がリズムに言葉を乗せていた。街の名前集まった連中の名前、今夜の

暑さ。それが拍にぴたりとはまって笑いが起こり、歓声が返る。

マックの頭の中で何かが動き出した。

言葉が拍に乗る。そんなことが許されるのか。

彼は小さい頃から言葉遊びが好きだった。祖母に叱られるたび、口の中でこっそり韻を踏んで言い返

していた。声に出せば拳骨が飛んでくる。だから黙っていた。その黙っていたものが今目の前で堂々

と鳴っている。

マイクが一度、宙に浮いた。持ち主が観客に向かって言った。

「誰かやるか? 一人くらい、度胸のあるやつはいないのか」

ベニーがマックの背中を押した。

「おいお前言ってただろ。口だけは達者だって」

「やめろ、冗談じゃ――」

押された足が輪の中に出ていた。

視線が集まった。百人の視線が肌に刺さった。誰かが笑った。「白いのが出てきたぞ」。声は悪意と

いうより好奇心だった。だが十五歳の胸にはどちらも同じ重さで落ちた。

マイクが手に渡された。思ったより重かった。掌の汗で滑った。

DJが盤に針を落とした。あの太鼓がまた地面から立ち上がる。

マックは息を吸った。何も用意していなかった。頭が真っ白だった。

それでも口が先に動いた。

俺はマック この街じゃ名無し

白い顔でも ビビってんのはそっちだろ

最初の二行はひどい出来だった。自分でもわかった。だが拍に乗っていた。観客の誰かが「ヘイ!」

と声を返した。それが次の言葉を引っ張り出した。

腹は空っぽ でも舌は満腹

婆ちゃんの小言で鍛えた この口は無敵

どっと笑いが起きた。笑われたのではなかった。笑いが彼のほうを向いていた。

DJがにやりとして盤を戻した。ビートが倍の熱で返ってきた。

そこから先の数十秒をマックは後になっても正確には思い出せなかった。ただ世界の音が全部、自分

の口と同じ速さで動いていた。

終わったとき、空き地は静まり返っていた。

次の瞬間、爆発のような拍手が起きた。

ベニーが飛びついてきて何か叫んでいた。さっきマイクを持っていた若い男が、マックの肩を乱暴に

叩いた。

「名前は?」

「

……マック。マック・アイリッシュ」

「アイリッシュ? 国の名前かよ」

周りが笑った。マックもつられて笑った。

その夜のことを後の彼は何度もインタビューで語ることになる。語るたびに細部は少しずつ違った。

ただ一つだけ変わらなかったことがある。

あの空き地の電球の下で彼は初めて自分の居場所を見つけたと思った。

それがどれほど長い旅の入口でどれほど多くのものと引き換えになるのかを、まだ誰も知らなかっ

た。

数十年後、世界中の人間がその名を口にするようになる。

褒め言葉として。罵り言葉として。そして最後には一つの時代の名前として。

だがそれはまだ先の話だ。

八月の夜、ブロンクスの空にビートだけが立ちのぼっていた。


第一章 ブロンクス

マック・アイリッシュが生まれたのは、一九五八年の冬だった。

ブロンクスの古いアパートの三階、暖房が壊れた部屋で産声を上げたという。後に祖母が何度も繰り

返した話だが、本当かどうかは怪しい。祖母は話を盛る人だった。ただし本人は絶対に盛っていない

と言い張った。

「あんたはな、寒さに文句を言いながら生まれてきたんだよ。口の減らない子だってのは最初っから

わかってた」

祖母の名前はノーラといった。アイルランドの小さな町から若い頃に船で渡ってきた。背は低く、腕

は太く、眉間の皺は二十年前から一ミリも動いていないように見えた。

苗字の「アイリッシュ」にはちょっとした由来がある。

エリス島の入国審査で祖父が自分の家の名前を何度も名乗ったのに、役人は聞き取れなかった。面倒

になった役人は帳面に一言だけ書いた。「どこの出身だ」「アイルランドだ」「なら、アイリッシュ

でいいだろう」。

そうして祖父の家は国の名前そのものを苗字にしてこの国で生きていくことになった。

「笑えるだろ」と祖母は言った。「でもね、本当の名前なんか誰も覚えちゃいない。あたしたちはこ

こで『アイリッシュ』になったんだ。それで十分さ」

マックという名前はそのエリス島の祖父からもらった。顔を知らない祖父の名前だった。

父親のことをマックはあまり覚えていない。

覚えているのは玄関に立つ大きな背中とドアの閉まる音だった。八歳の秋だった。父は「ちょっと仕

事で遠くに行く」と言った。「ちょっと」が何年を意味するのか、八歳の少年にはわからなかった。

祖母は何も言わなかった。ただその夜の夕食はいつもより皿の音が大きかった。

母のキャスリーンは優しい人だった。優しすぎて壊れやすかった。夜の仕事を掛け持ちし、朝に帰

り、昼に眠った。起きている時間はいつも疲れていて、マックの話を最後まで聞く前にまぶたが閉じ

た。責める気持ちはなかった。たださびしかった。

だから彼は祖母の家に預けられた。

「預けられた」という言い方を祖母は嫌がった。

「預かったんじゃないよ。うちの子だ。うちの子がうちにいるだけさ」

それが祖母なりの愛情表現だった。

アパートはブロンクスの南寄りの通りにあった。

窓から見えるのは向かいの建物の壁とその上に切り取られた細い空だった。通りの先には焼け落ちた

建物が何軒も並んでいた。窓のない黒い四角が巨大な死んだ目のようにこちらを見ていた。

近所の大人たちは言った。大家が保険金目当てに火をつけているのだ、と。真偽はわからない。ただ

毎月のようにどこかの建物が燃えた。消防車のサイレンは街の子守唄のようなものだった。

仕事はなくなり、店は閉まり、人は出ていった。

それでも通りには人がいた。

角の食料品店のおやじはツケで牛乳を売ってくれた。階下のロドリゲスさん一家は日曜になると揚げ

たバナナの匂いを廊下いっぱいに漂わせた。向かいの窓辺では黒人のおばあさん、ミス・ロレッタが

毎夕聞いたことのない歌を口ずさんでいた。

貧しい。危ない。壊れている。外から来た人間はそう言うだろう。

だがマックにとってそこは単に家だった。

「マック! 降りてこい!」

下の通りから声がした。窓から顔を出すとベニーを含めた悪ガキたちが石畳に座り込んでいた。消火

栓の蓋が外され、水が噴き出している。夏の午後の街で一番の遊び場だった。

「婆ちゃんに聞いてみる!」

「どうせ駄目って言われるぞ!」

「うるせえ!」

台所に戻ると祖母がジャガイモの皮を剥いていた。手を止めずに背中で言った。

「行きたいなら行きな。ただし七時までに戻ること。靴を濡らしたらあんたの分の夕飯はないよ」

「やった」

「それと」

祖母がようやく振り向いた。目だけが鋭かった。

「あの子らと喧嘩するんじゃないよ。あんたは口が悪いんだから」

「婆ちゃんに似たんだよ」

次の瞬間、ジャガイモが飛んできた。マックは笑いながら階段を駆け下りた。

学校は好きでも嫌いでもなかった。

マックは成績が悪いわけではなかった。ただ教師の話を聞いているふりをして、頭の中で勝手に言葉

を並べていた。たとえば「ブロンクス」と「ミンクス」、「バス」と「パス」。意味のない音の遊び

が授業中の退屈を埋めた。

教室はほとんどが黒人とプエルトリコ系の生徒だった。白人の生徒は数えるほどだった。

最初のうちはからかわれた。「ホワイトボーイ」「アイリッシュ」。だがマックはからかわれるたび

に倍の速さで言い返した。口が達者な少年はそれだけで街の一員になる。拳を使わずに済むなら、そ

れが一番だった。

もちろん、拳を使うこともあった。放課後の路地で三つ年上の少年に因縁をつけられ、鼻血を出して

帰ったことがある。祖母は無言で濡れタオルを押しつけ、無言で夕食を出した。食べ終わる頃にぼそ

りと言った。

「やり返したのかい」

「

……逃げなかった」

「ならいい」

それだけだった。

その夜祖母は部屋の戸口に小さな缶を置いていった。中には古い飴が入っていた。マックは暗い部屋

の中で一個ずつ、ゆっくり舐めた。口の中が甘くて少し痛かった。

音楽はいつもそこにあった。

祖母のラジオからはアイルランドの古い民謡が流れた。だが階下の部屋の窓から通りの向こうの車か

ら屋上の洗濯物の間からもっと違う音が漏れてきた。

ファンク。ソウル。ギターが跳ね、ベースが唸り、ドラムが床を叩く。誰かが歌い誰かが叫び、誰か

が笑う。

マックはその音の中で育った。意味を理解する前に体が反応した。歩く速さがビートに揃った。

ある日の夕方、彼が台所の椅子で足を鳴らしていると、祖母が言った。

「うるさいよ」

「リズムだよ、婆ちゃん」

「リズムでパンが焼けるなら、苦労しないね」

「焼けるかもしれないじゃん」

「焼けないよ」

祖母は鍋をかき混ぜながら背を向けたまま続けた。

「いいかい、マック。音楽じゃ食えない。あたしはうんざりするほど見てきたんだ。夢を見て夢に食

われた連中をね。あんたにはまともな仕事に就いてほしい。郵便局でも消防署でもいい。きちんと給

料がもらえてちゃんと家に帰ってこられる仕事さ」

「

……わかってるよ」

「わかってない」

祖母の声がほんの少しだけ、低くなった。

「あんたの父さんもそうだった。夢ばっかり見て足元を見なかった」

沈黙が落ちた。鍋がことこと鳴った。

マックは何も言えなかった。父の話題が出たのはあの夜以来、初めてだった。

祖母はそれ以上何も言わなかった。ただ湯気の向こうでほんの少しだけ肩が震えたように見えた。

その夜マックはベッドの中で天井を見つめた。

ここにいたい、と思った。この街でこの古い部屋で口の悪い祖母と焦げたジャガイモの匂いの中で。

けれど同時にもっと遠くへ行きたい、とも思った。窓の向こうのまだ見たことのない場所へ。

二つの気持ちが胸の中でずっと拍を取っていた。


第二章 悪友

ルーサー・ブッカーはその日二十二回目の失敗をしたところだった。

一九七〇年の春。三階の窓際で父親の古い電蓄の前にあぐらをかいている。四十五回転のシングル盤

を縁だけを持って載せ、針を下ろす。ギターのカッティングが跳ね、ベースがうねる。サビの直前で

頭の中の数字とスピーカーの音がずれる。

止める。針を上げる。もう一度、最初から。

何かがおかしかった。針が悪いのか。盤が悪いのか。父親が夜勤から戻るまでに原因を突き止めなけ

ればならない。ノートには二十二回分の「×」が几帳面な字で並んでいた。

その二十三回目の途中だった。

「おい!」

窓の下から声が飛んできた。

ルーサーは顔をしかめた。通りの子供が何か叫んでいる。無視して針を戻そうとした。

「そこ遅れてるぞ!」

手が止まった。

「サビの前! ずっと遅れてる! 針の置き方が下手なんだ!」

ルーサーは窓から頭を出した。

通りの真ん中に痩せた白人の少年が立っていた。自分と同じくらいの歳。袖の長すぎるTシャツ。手

を口の横に当ててこちらに叫んでいる。

「

……何だって?」

「だから遅れてるって! いま二回聴いたけど二回目のほうがもっと遅れてた!」

なんだこのガキはと思った。

人の家の窓の下で勝手に聴いて勝手に採点している。しかも針の置き方が下手だと言った。ルーサー

が二十二回、ノートに書いてきた作業を通りがかりの子供が数秒で断定したのだ。

腹が立った。同時に背中の奥がひやりとした。

二回目のほうが遅れていた。

それはルーサーがついさっき、ノートの端に書いたばかりの発見だった。誰にも言っていない。

「そこで待ってろ」

窓を閉めた。階段を駆け降りた。

入口の扉を開けると少年は階段の手すりに寄りかかっていた。平然とした顔だった。殴られる覚悟な

ど、微塵もない顔だった。

「ルーサー・ブッカーだ」

「マック。マック・アイリッシュ」

「アイリッシュ?」

「やめろ、その話はもう飽きてる」

そんなことはどうでもよかった。ルーサーはずり落ちた眼鏡を押し上げた。

「もう一回、言え。どうして遅れてると分かった」

「どうしてって聴けば分かるだろ」

「俺には分からなかった」

マックはぽかんとした顔をした。本当に不思議そうだった。説明の仕方を知らないのだ。生まれつ

き、聞こえてしまうものをどうやって聞こえない人間に伝えればいいのか。

「じゃあ……ほら」

マックは手すりを指で叩き始めた。

トントントンタッ。

「これがほんとの拍。ベースが先に入る。ドラムはその後ろ。お前のさっきの音は」

トントントン……タッ。

最後の一つだけほんの少し、遅らせた。

ルーサーの背筋に鳥肌が立った。

そのほんの少しの遅れ。それはルーサーが二十二回、聞き続けて言葉にできなかった違和感とまった

く、同じ形だった。

「

……もう一回、やれ」

「何を」

「その遅れてる方」

マックは肩をすくめてもう一度、叩いた。今度は遅れをさっきよりわずかに大きくした。

「二回目はこう。だんだん、遅くなってる。ずれが広がってるんだ」

ルーサーは息を止めた。

「

……回転、か」

「え」

「針じゃない。盤でもない。ターンテーブルがだんだん、遅くなってるんだ」

「そうなんじゃないか? 知らないけど。ただそう聞こえる」

ルーサーは階段を三段飛ばしで駆け上がった。マックが後ろからついてきた。

電蓄の蓋を開けた。回転盤の裏。ゴムのベルトが伸びて緩んでいた。指で触れるとぬるりと滑る感触

がした。

「

……これだ」

二十二回の失敗の原因がそこにあった。

ルーサーはベルトをじっと見つめてそれから背後に立つ少年を振り返った。

通りから聴いて半拍のずれとずれの広がり方まで聞き分けた。回転の遅れに気づいた。しかも本人は

それがどれほど、すごいことか分かっていない。

「お前変なやつだな」

「それさっきも言われたぞ」

「誰に」

「今頭の中で自分に」

ルーサーは思わず笑った。声を出して腹を抱えて笑った。

「何がおかしい」

「いや。いい。お前気に入った」

それが二人の最初の会話だった。

友情というものは一日では出来上がらない。

最初の数週間、二人はむしろ喧嘩ばかりしていた。

ルーサーは几帳面で慎重で一つのことを徹底的に調べないと気が済まない。何時間でも同じレコード

を聴き続け、誰がベースを弾いているのかどこでドラムが入るのか頭の中で図にしていく。

マックはせっかちで雑で思いついたら先に口が動く。ひとつの曲を最後まで聴くのも苦手だった。気に入った一箇所だけを何度も繰り返しては、自分で適当な言葉を乗せて歌った。

「違うそこはそういうリズムじゃない」

「リズムなんかどうでもいいんだよ、気持ちいいかどうかだ」

「気持ちよさはリズムの中にある」

「じゃあ、お前の言うリズムは気持ちよくないな」

「

……もう一回言ってみろ」

その繰り返しだった。それでも翌日になると二人はまた同じ階段に座っていた。

マックの祖母はルーサーの存在を知ると露骨に顔をしかめた。

「黒人の子と毎日何をしてるんだい」

「友達だよ」

「そういうことじゃない」祖母は言った。「あんたはあの子たちとは違う。それを忘れるんじゃない

よ」

マックはむっとした。

「何が違うんだよ。同じ階に住んでて同じ学校に行ってて同じ飯を食ってる」

「飯は同じかもしれないがね、世の中はあんたたちを同じには見ないんだ」

「じゃあ、世の中がおかしいんだ」

祖母は鍋を叩きつけるように置いた。

「そうさ。世の中がおかしいんだよ。だけどね、あんたがそれを変えられるわけじゃない。あたしは

あんたに傷ついてほしくないだけさ」

マックは何も言い返せなかった。ただ祖母の言葉が棘のように胸に残った。

その棘の意味をマックが本当に理解するのはずっと後のことになる。

ある日曜日、ルーサーの母親がマックを夕食に招いた。

ミセス・ブッカーは教会の聖歌隊でピアノを弾く人だった。背筋がまっすぐで笑うときに口元を手で

隠す、上品な女性だった。部屋には大きな鍋の匂いが満ちていた。

「たくさん食べなさい。そんなに痩せて」

テーブルにはフライドチキン炒めたコラードグリーン、とうもろこしパン、マカロニチーズ。マック

は生まれて初めて見る料理がいくつもあった。祖母の食卓はジャガイモと茹でた肉とパンだった。

「うまい」マックは頬張りながら言った。「これめちゃくちゃうまい」

ミセス・ブッカーが口元を隠して笑った。

向かいの席にはルーサーの父親のミスター・ブッカーが座っていた。地下鉄の整備士でがっしりした

肩にいつも油の匂いをまとっている男だった。彼は黙ってマックを観察していた。

「坊主」

「はい」

「ルーサーのレコードを勝手に触ってないだろうな」

マックの背筋がびくりと伸びた。

横目でルーサーを見る。ルーサーは顔を伏せてチキンの骨を見つめていた。

「

……触ってません」

「ほう」

「聴かせてもらっただけです。ルーサーが盤の持ち方を教えてくれたから」

ミスター・ブッカーはしばらく黙っていた。それからふっと息を吐いた。

「あの電蓄の針な」

「はい」

「俺が三回、替えたんだ。ここ半年で不思議なほど減りが早い」

ルーサーが咳き込んだ。

「

……夜勤の日だけ聴くなら、盤はそこまで減らないはずなんだがな」

沈黙が落ちた。ミセス・ブッカーが笑いをこらえて咳払いした。

やがてミスター・ブッカーがのっそりと立ち上がった。部屋の隅の戸棚から一枚のレコードを取り出

して食卓の上に置いた。

「これをやる。二枚持ってる。一枚はお前たちの分だ」

「

……え」

「ただし、夜勤の日だけにしろ。昼間は近所に迷惑だ」

ルーサーの顔がぱっと明るくなった。

マックも笑った。何が起きたのか半分しか分からなかったがとにかく、この家はあたたかい家だと

思った。

その年の夏は二人にとって悪事の季節だった。

地下鉄の改札を乗り越えて終点まで乗ってみた。見たことのない街の見たことのない空を見た。帰り

の電車で二人とも寝過ごして終電に間に合わず、夜道を延々と歩いて帰った。

「親父に殺される」ルーサーが青ざめて呟いた。

「俺も婆ちゃんに殺される」

「どうする」

「歩くしかないだろ」

深夜の街は静かだった。廃ビルの窓が月の光を受けて白く光っていた。遠くでサイレンが鳴り、どこ

かの犬が吠えた。

「なあマック」

「なんだ」

「お前将来何になりたい」

マックは少し考えた。

「分からない。何かになりたい、とは思う。でも何になるのか分からない」

「俺は決まってる」ルーサーが言った。いつもの几帳面な声ではなく、少し照れたような声だった。

「ターンテーブルを二台、買いたいんだ。自分の。親父の電蓄じゃなくて」

「二台? なんで二台なんだ」

「一台だと曲が終わるだろ」

マックは笑った。

「それいいな」

「だろ」

「じゃあ、俺はお前の二台のターンテーブルの前で、何かやる」

「何かって」

「何かだよ。まだ分からない。でもそこにいる」

ルーサーは立ち止まって眼鏡を直した。

「約束か」

「約束だ」

二人は拳を軽く合わせた。それはただの子供の約束だった。もちろん、そのときは誰もそれを覚えて

いなかった。ただ二人だけが何年経っても忘れなかった。

十三歳になる頃、マックは初めて失恋した。

相手はルーサーの従姉のタニアだった。一つ年上でショートカットが似合い、笑うと片方にだけえく

ぼが出る。マックは三週間かけて彼女のために韻を踏んだ詩を作った。

「聞いてくれ」

「なに」

マックは勇気を振り絞って口にした。

タニア タニア 君の名は

夏の夕暮れ 甘いカラメル

沈黙。

タニアはまじまじとマックを見つめた。それから噴き出した。笑いすぎて涙が出ていた。

「カラメルって何それ」

「だって甘いだろ」

「ダサい! 最高にダサい!」

タニアは笑いながら去っていった。マックはその場に立ち尽くした。顔が焼けるように熱かった。

ルーサーが後ろから肩を叩いた。

「聞いてたぞ」

「……忘れてくれ」

「忘れない」

「頼む」

「絶対に忘れない」ルーサーは真顔で言った。「それと韻としては悪くなかった。カラメルはダメだ」

「慰めになってない」

「事実を言っただけだ」

マックはルーサーの脇腹を小突いた。二人は取っ組み合いになって歩道に転がった。笑い声が通りに

響いた。

失恋は痛かった。けれど隣に笑ってくれる友達がいると痛みは少しだけ軽くなる。

マックはそのことをこの頃に初めて知った。

一九七三年の初夏。

二人は十五歳になっていた。

ルーサーの部屋にはいつの間にかターンテーブルが一台増えていた。近所の修理屋で半年かけて安く

譲ってもらった中古品だった。ミキサーはまだ、ない。それでもルーサーは二台の機械を並べてうっ

とりと見つめていた。

「まだ二台目だけだ。足りないものはたくさんある」

「でも約束の半分は来た」

「半分な」

「俺は?」

「お前はまだ何も見つけてない」ルーサーは、意地悪く笑った。「何かやるんだろ。早くやれよ」

「うるさい」

マックは床に寝転がって天井を見た。

その夏彼はまだ、約束の続きを知らない。

ただ胸のどこかで何かが待っているような気がしていた。

それが八月のあの夜、空き地の電球の下で突然動き出すことになる。

そしてその夜ルーサーはそこにいなかった。


第三章 ブロックパーティー

「で結局お前はそこで何をしたんだ」

翌日の午後、ルーサーの部屋でマックは三回目の同じ質問を受けていた。

「だからマイクを持ってちょっとしゃべっただけだって」

「ちょっとってのはどのくらいだ」

「

……一分くらい」

「一分で百人が拍手したのか」

「そう聞いた。自分ではよく覚えてない」

ルーサーは返事をしなかった。ターンテーブルの前に座って使われていない針の先をじっと見つめて

いた。

昨夜ルーサーは母親の用事で教会の集まりに行っていた。約束の時間をすぎても帰してもらえなかっ

た。解放されたのは夜の十一時。慌てて通りに出たとき、空き地の騒ぎはもう終わりかけていた。

そして今朝、ベニーが興奮してアパートに駆け込んできたのだ。

「マックがマイク持ってラップしたんだぜ! みんな、ひっくり返ってた!」

ルーサーはそのとき、何も言わなかった。ただ目を伏せて眼鏡を指で押し上げた。

「

……怒ってるのか」マックが言った。

「怒ってない」

「怒ってるだろ」

「怒ってない」ルーサーはようやく顔を上げた。「悔しいだけだ」

意外な言葉だった。

「約束したのは俺のターンテーブルの前でやる、だった。昨日のは俺のじゃなかった」

「ルーサー、あれは偶然で」

「分かってる。だから悔しいんだ」

ルーサーは深く息を吐いた。それからいつもの几帳面な声に戻った。

「次のパーティーはいつだ」

「え?」

「連れて行け。俺も見たい」

マックは一瞬ぽかんとしたあとにやりと笑った。

「今夜だ。ベニーが言ってた」

その夜二人は別の通りの空き地にいた。

昨夜より人が多かった。二百人はいたかもしれない。街灯から電気を引いた機材が並び、スピーカー

が箱のように積み上げられている。誰かが運んできたらしいスピーカーは、一つ一つが家具のように

大きかった。

「あれがDJだ」

ベニーが指さした。

機材の前に背の高い男がいた。腕が長く、肩幅が広く、ひとつひとつの動きに余裕があった。まわり

の少年たちは彼を「ハーク」と呼んでいた。レコードを選び盤を載せ、針を下ろす。その動きに無駄

がなかった。

ルーサーは息を止めてその手元を見つめていた。

二台のターンテーブルには同じレコードが載っていた。一枚目があるところまで来るとDJの手がもう

一枚目に移る。そちらの針をぴたりと同じ位置に下ろす。するとさっきと同じ音がもう一度、鳴る。

その繰り返しだった。

「

……ブレイクだ」ルーサーが呟いた。

「何?」

「曲の途中で歌が消えてドラムとベースだけになる部分があるだろ。あそこを延ばしてるんだ。二枚

あれば終わらせずに続けられる」

「そんなに難しいのか」

「難しいなんてもんじゃない」ルーサーの声は、少し震えていた。「一枚の頭をもう一枚の終わりに

ぴったり合わせてる。ずれたら全部台無しだ。しかもそれを手だけでやってる」

ルーサーはマックの方を見た。眼鏡の奥の目が光っていた。

「一台だと曲が終わる」

マックはあの夜道の会話を思い出した。

「

……二台あれば終わらない」

「そうだ」

ルーサーは笑っていた。マックがこれまで見たことのない笑顔だった。

パーティーは音だけでは出来上がらない。

輪の中で少年たちが踊っていた。腕を折り、背中を床につけ、足を空に向けて体ごと回転する。回り

終わるとまた別の誰かが飛び込む。順番に技を競っている。審判はいない。ただ観客の歓声がそのま

ま採点だった。

「あれがビーボーイだ」ベニーが言った。「ブレイクで踊るやつ。だからブレイクボーイ」

「名前がそのまんまだな」

「そのまんまがいいんだよ」

壁際では数人の少年たちがスプレー缶を持ってレンガの壁に向かっていた。名前の文字が立体的に曲

線を描いて広がっていく。昼間は灰色の汚れた壁だった場所が夜になると色の洪水に変わった。

「俺の従兄だ」ベニーが誇らしげに言った。「名前を書くんだ。自分の名前を街の一番目立つところ

に」

「勝手に書いて怒られないのか」

「怒られるさ。でも消されてもまた書く」

マックはその少年の横顔を見た。彼は十七八に見えた。顔は真剣そのもので缶を振る手元に迷いがな

かった。この街で誰からも名前を呼ばれない少年が、壁に自分の存在を刻んでいる。

「

……かっこいいな」

マックが言うとベニーはふんと鼻を鳴らした。

「だろ」

別の場所ではマイクを持った少年が観客を煽っていた。

さあ集まれ 今夜の主役は誰だ

ブロンクスの空に ビートがぶっ刺さる

観客が手を挙げて応える。MCが名前を呼ぶ。「フロントの娘たち、もっと声出せ」。笑いが起き

る。誰かが叫び返す。言葉のやりとりそのものが音楽の一部になっていた。

マックは胸の奥が痒くなるような気がした。

あそこに立ちたい。

昨夜の記憶が蘇った。マイクの重み。観客の視線。口が勝手に動いた、あの感覚。あれは偶然だった

のか。それとも本当に自分の中に何かがあるのか。

その横でルーサーもまったく同じ顔をしていた。ただ彼の目はマイクではなく、ターンテーブルを見

ていた。

二人は同じ夜に別々の方向で同じ炎を見ていた。

街にはいくつものグループがあった。

縄張りを持った若者の集団。互いに睨み合い、時にはナイフを抜くこともあった。マックもそういう

連中の存在は知っていた。路地で目を合わせれば挑発と取られ、血を見ることさえあった。

その連中がこの空き地では同じ場所で同じ音に体を揺らしていた。

「見ろよ」ベニーが声を落として言った。「あっちの連中、先週まで殺し合う寸前だったんだぜ」

「それがここにいるのか」

「ここにいる間はケンカしないんだ。みんな見たいから」

マックはその光景をぼんやりと眺めた。拳より声で。ナイフよりリズムで。街の怒りや、退屈や行き

場のない力を別の形に変えている。

この音楽は街が自分で見つけた逃げ道なのだ、と思った。

ただそれを言葉にするにはまだ彼は幼すぎた。

「おい」

背後から声がした。

振り向くと昨夜の若い男が立っていた。マイクを持っていた、あのMCだった。

「白いの。今夜も来たのか」

「

……ああ」

「やるか」

マックの心臓が跳ねた。

「え」

「やるのかやらないのか」

マックはルーサーを見た。ルーサーは一度だけ、静かにうなずいた。

マイクが手に渡された。

昨夜よりさらに重かった。昨夜は何も知らなかったから口が動いた。今夜は知っている。この場所が

どれほど大切な場所なのか。ここに立つことがどういうことなのか。

観客の中から声が飛んだ。

「また白いのかよ!」

「昨日のはまぐれだろ!」

笑い声が起きた。悪意のある笑いも混じっていた。

マックの手が震えた。

そのとき、横から低い声が聞こえた。

「相手にするな」

ルーサーだった。

「俺が見ててやる」

それだけだった。それなのに震えが止まった。

ビートが始まった。

マックは目を閉じた。昨夜と同じ、地面から押し上げてくる、あの太鼓の音。

息を吸った。

まぐれだって? なら今夜も まぐれで頼むぜ

白いのが 笑われるのは 慣れっこだぜ

ガキの頃から 口で戦って 生きてきた

お前の言葉は ただの風 俺は ここで 息してる

最後の一行で観客がどっと沸いた。さっきヤジを飛ばした男が思わず笑いながら手を叩いていた。

マックはようやく、目を開けた。

視線の先でルーサーが静かに笑っていた。

夜が明ける頃、二人は並んで帰り道を歩いた。

空は薄い灰色から淡いオレンジに変わりかけていた。通りにはほとんど人がいない。遠くでパン屋の

シャッターが上がる音がした。

「あれはすごかった」ルーサーが言った。

「何が」

「全部だ」ルーサーは立ち止まった。「あの二枚のレコードの使い方。ブレイクを延ばす。それにお

前が言葉を乗せる。全部ひとつの音楽だ」

「ひとつの」

「そうだ。まだ名前もないけどこれは新しい音楽だ」

ルーサーの目は徹夜の疲れで赤くなっていた。それでも熱が宿っていた。

「俺はあれをやる」

「DJか」

「ああ。二台のターンテーブルでブレイクを延ばす」

「俺はあの上でしゃべる」

二人は顔を見合わせた。

「約束の続きだ」ルーサーが言った。

「半分から全部になったな」

「まだ全部じゃない」

「じゃあ、これからだ」

二人は拳を合わせた。今度は少し強く。

アパートの階段を足音を殺して上がった。

三階の扉の前に着いたとき、中から物音が聞こえた。マックは息を止めて扉をそっと開けた。

台所の電灯が点いていた。

祖母が椅子に座っていた。寝間着の上に古いショールを羽織り、腕を組んでじっとこちらを睨んでい

る。

「

……ただいま」

「何時だと思ってるんだい」

「朝の五時」

「分かってるじゃないか」祖母の声は、低く静かだった。「どこに行ってた」

「友達と」

「どの友達と」

「ルーサー」

「どこで」

マックは言葉に詰まった。本当のことを言えばまたあの棘のような言葉が飛んでくる。けれど嘘をつ

くのも嫌だった。

「

……パーティーに」

「パーティー?」

「街の空き地で。DJがレコードを回してみんなが踊って。それで俺もマイクを持って少ししゃべっ

た」

「マイクを」

「うん」

祖母はしばらく黙っていた。

「それであんたは何をしゃべったんだい」

「

……いろいろ」

「いろいろって何だい」

マックは迷った末に小さな声で言った。

「婆ちゃんの小言の話」

祖母の眉がぴくりと動いた。

「あたしの?」

「口の中でいつも言い返してた。その仕返しみたいなもんだ。みんな笑ってくれた」

祖母は立ち上がった。マックは拳骨が飛んでくると思って目を閉じた。

何も飛んでこなかった。

代わりに台所からじゅうと音がした。目を開けると祖母がフライパンに卵を割り入れていた。

「座りな」

「え」

「座れって言ってるんだ。腹が減ってるだろう。徹夜でバカ騒ぎして何も食べてないんだろう」

マックは恐る恐る、椅子に座った。目の前に卵とパンが置かれた。

祖母は背を向けたまま、言った。

「あたしの小言で人が笑ったのかい」

「

……うん」

「ふん」

祖母は鼻を鳴らした。それからぼそりとつぶやいた。

「そんなもんで笑える連中なら、まあ悪い連中でもないだろうさ」

マックは卵を頬張った。熱くて塩気が強くて少し焦げていた。

それが世界で一番うまい朝食だと思った。

「でも学校にはちゃんと行くんだよ」

「分かってる」

「遅刻したら承知しないからね」

「分かってるよ、婆ちゃん」

祖母はそれ以上何も言わなかった。ただ洗い物をする背中がいつもよりほんの少しだけ、やわらかく

見えた。

窓の外ではブロンクスの空がゆっくりと明るくなっていった。


第四章 マイクを握れ

最初の夜の拍手は続かなかった。

一週間後、マックは別の通りのパーティーではっきりと失敗した。

用意してきた言葉を頭の中で繰り返していた。昨夜一人で部屋に籠もって何時間もかけて書いた十六

行だった。ところがマイクを持った瞬間、最初の二行がすっぽりと消えた。

ビートは進む。観客の視線が刺さる。口が開いたまま、動かない。

「

……あー」

誰かがくすりと笑った。次に別の誰かが笑った。それが波のように広がっていった。

「どうした、白いの。ビビったか」

マックはなんとか言葉を絞り出した。けれど拍に合わなかった。韻も外れた。自分の声がまるで他人

のもののように空回りしていた。

ビートが終わったとき、拍手はなかった。

マイクを返して輪の外に出た。ルーサーが黙って肩に手を置いた。ベニーも何も言わなかった。それ

がかえって堪えた。

その夜マックは帰り道で一言も口をきかなかった。

「才能なんてなかったんだ」

翌日ルーサーの部屋でマックは床に寝転がって天井に向かって言った。

「最初の夜はたまたまだった。あんなもんはもう二度と出来ない」

「出来るさ」

「慰めはいらない」

「慰めじゃない。事実だ」ルーサーはノートを開いていた。几帳面な字でレコードの曲名とブレイク

の長さが、びっしりと書き込まれている。「お前昨日何を考えてた」

「何も。真っ白だった」

「その前は」

「その前は書いてきた言葉を忘れないようにって必死で」

「それだ」

ルーサーはペンの尻でノートを叩いた。

「最初の夜は何も用意してなかった。だから口が勝手に動いた。昨日は用意しすぎた。だから動かな

かった」

「

……なんだ、それ」

「お前は書いた言葉を読んでるんじゃなくて、その場の言葉を話すのが得意なんだ。だったら書き方

を変えるしかないだろ」

マックは体を起こした。

「どう変える」

「型だけ作る。言葉はその場で入れ替える」

ルーサーはノートの空白に四角形をいくつか描いた。そしてその中にビートの拍を点で書き込んだ。

「このひとつの四角が一小節。拍は四つ。四つ目の最後で韻を踏む」

「韻の位置を決めておく」

「そうだ。それなら、途中で何を言ってもいい。ただし四つ目に着く前に次の韻を探しておく」

マックはノートを覗き込んだ。それは彼がこれまで感覚だけでやっていたことを、初めて目に見える

形にしたものだった。

「

……お前、すげえな」

「俺はしゃべれない。だから考えるしかない」

ルーサーは少しだけ、笑った。

「お前はしゃべれる。俺が考えたことをお前が声にする。それでちょうどいいんだ」

そこから特訓が始まった。

放課後の屋上。洗濯物の陰。非常階段。二人はあらゆる場所で練習をした。

ルーサーがレコードの音を小さく鳴らす。マックがその上で韻を踏む。

「次『街』で始まって『夢』で終われ」

「街は眠り やがて目覚め 歩き出す 昨日と違う 明日の夢」

「長すぎる。拍に収まってない」

「そんなこと言ったって」

「もう一回」

「街は静か でも俺の胸は 夢でいっぱい」

「

……悪くない」

悪くない、がルーサーの最高の褒め言葉だった。

韻を踏む練習は地味で苦しかった。同じ音で終わる言葉を頭の中でひたすら探す。

「ブロンクス」と「ミンクス」。「ビート」と「シート」。「夜」と「世」。日本語であれ英語であ

れ、言葉の響きを重ねる遊びは単純で果てがなかった。

マックは教科書の余白を言葉で埋めた。授業中は前の席の背中を見つめながら頭の中でビートを鳴ら

した。

そしてある日気づいた。

韻とは言葉を縛る鎖ではなく、言葉が走るためのレールなのだ、と。

祖母はその頃マックの部屋から聞こえる声に気づいていた。

「うるさい」

「ごめん、婆ちゃん」

「ごめんで済むなら、警察はいらないよ。毎晩毎晩、ぶつぶつぶつぶつ」

「練習してるんだ」

「何の」

「

……しゃべる練習」

祖母は呆れたように天を仰いだ。

「しゃべる練習? あんたは生まれたときからしゃべりっぱなしじゃないか」

「違うんだよ。これは拍に合わせて」

「あたしには同じにしか聞こえないね」

マックは笑った。祖母は口をへの字にして台所に戻っていった。

その夜台所の隅で祖母がひとりごとを言っているのが聞こえた。

「ブロンクス。ミンクス。ブロンクス……」

マックは息を呑んだ。

祖母が彼の練習の言葉を小さな声で繰り返していた。

それ以来、マックは祖母の前で少しだけ、小さな声で練習するようになった。だが決してやめなかっ

た。

その秋マックは再びマイクを握った。

今度は書いてきた言葉を頭から消した。型だけを覚えてその場の空気を自分の中に入れた。

ビートが始まった。

観客の顔が見えた。去年の暮れにマックを笑った男もいた。昨日の夜に野次を飛ばした男もいた。

ビビってたのは あの夜の俺

笑われて 帰り道は ひとりっきり

でも今夜は ルーサーがいる ビートがある

俺の声が お前の記憶に 焼き付く

言葉が拍の上を滑っていった。

三つ目の小節で韻が完璧に決まった。観客がわっと沸いた。四つ目の小節で別の少年が声を上げた。

終わったとき、拍手が起きた。

今度の拍手はあの最初の夜とは少し違った。偶然ではなく、技術に対する拍手だった。

ルーサーはターンテーブルの向こうから親指を立てた。

マックは胸が熱くなった。

けれどその喜びは長くは続かなかった。

十一月のある夜、マックは街の角で三人の少年に囲まれた。

「白いの」

「ああ?」

「最近よくマイクを持ってるそうじゃないか」

背の高い少年が一歩前に出た。ジョーという名前だった。街では少し名の知れた、年上の連中のひと

りだった。

「何か用か」

「お前ここがどこだか分かってるのか」

「ブロンクスだ」

「そうじゃない」ジョーは笑った。「これは俺たちの音楽だ。俺たちの街の俺たちの音だ。お前みた

いなのが土足で入ってくる場所じゃない」

マックは言葉を失った。

それは悪意のある野次ではなかった。もっと静かでもっと重い、本気の言葉だった。

「……俺は」

「聞きたくない」ジョーは遮った。「ただ忘れるな。ここはお前の場所じゃない」

少年たちは去っていった。

マックはその場に長いこと立ち尽くしていた。

その夜屋上でルーサーにすべてを話した。

「ジョーの言ってることは間違ってない」

ルーサーが静かに言った。

「

……お前もそう思うのか」

「違う。聞け」ルーサーはマックの方を向いた。「この音楽は確かに俺たちの街で生まれた。それは

事実だ。黒人やプエルトリコの連中が場所も金も何もないところから作ったものだ」

「分かってる」

「でもこれは誰かのものじゃない。誰かが独り占めするためのものでもない。いや」ルーサーは少し

言葉を探した。「独り占めしちゃいけない、って俺は思う」

「それは俺がここにいていいってことか」

「いていい、じゃない」ルーサーは首を振った。「いるなら誠実でいろ、ってことだ。この音楽を

ちゃんと敬え。作った連中を忘れるな。それが出来るなら、お前がここにいることを俺は誰にも否定

させない」

マックは屋上の夜空を見上げた。

「

……簡単じゃないな」

「ああ。簡単じゃない」

「でもやる」

「やれ」

二人はしばらく、何も言わずに星のない空を見ていた。遠くでサイレンが鳴っていた。

その音もどこかリズムを持って聞こえた。

マックは小さく呟いた。

俺の肌の色は 変えられない

でも 俺の言葉は 変えられる

敬意を持って マイクを握る

それが 俺の 最初の 誓い

ルーサーは何も言わなかった。ただ静かにうなずいた。

マイクを握れ。

その言葉がマックの中で単なる誘いから一つの覚悟に変わった夜だった。


第五章 ラップバトル

一九七五年の春。マックは十七歳になっていた。

街の中での彼の扱いは少しずつ変わっていた。もう「白いの」と呼んで笑うだけの者は、減った。代

わりに「あの白い坊主」という呼び名が、あちこちで囁かれるようになった。

名前が知られるということは敵が増えるということでもある。

「やるって言ってる」

ある夕方、ベニーが息を切らして駆け込んできた。

「誰が」

「ジョーだ。次の土曜、コミュニティセンターで。みんなの前でお前とやるって」

ルーサーが手を止めて顔を上げた。

「バトルか」

「そうだ。向こうから指名してきた」

マックは飲んでいた水のコップをゆっくりと置いた。

「断れるのか」

「断れる。でも」ベニーは言いにくそうに続けた。「断ったら街中に笑われる」

「そうか」

マックは立ち上がって窓の外を見た。夕焼けが向かいの建物を赤く染めていた。

「やる」

「いいのか」

「いいも悪いもない。逃げるのは性に合わない」

ルーサーは無言でノートを引き寄せた。

「ジョーの癖を調べる。ベニー何か知ってるか」

ジョーは街で最も恐れられていたMCの一人だった。

体が大きく、声が太く、何より相手の弱点を容赦なく突く。家のこと体のこと過去の失敗。彼にから

かわれて泣いて去っていった少年の話はいくらでもあった。

「やつはリズムはそこそこだ」ベニーが言った。「でも悪口がえぐい」

「悪口か」

「相手が一番言われたくないことを、見つけてくる。そしてそこを徹底的に突く」

マックはふんと鼻で笑った。

「白人だ、ってところだろ」

「間違いなく、そこは来る」

「なら来させればいい」

ルーサーが顔を上げた。

「どういう意味だ」

「先に言う」

ルーサーは眼鏡を直して考え込んだ。

「

……つまり、相手が突く前に自分でそれを武器にしてしまう」

「そうだ。突かれて傷つくより先に笑い飛ばす」

「危険だぞ」

「分かってる」

ルーサーはしばらく、黙っていた。それからゆっくり、うなずいた。

「やってみろ。ただ一つだけ、約束しろ」

「何だ」

「ジョーの家族や、母親のことは絶対に言うな。それをやったら勝ってもお前は負けだ」

「

……分かった」

土曜日の夜。

コミュニティセンターの体育館は、人で溢れかえっていた。三百人。いやもっといたかもしれない。

壁際まで人が詰まり、窓の外にまで顔が並んでいた。

中央に小さな舞台が組まれていた。その後ろにターンテーブルが二台。担当はルーサーだった。

マックは舞台の袖で深呼吸をしていた。

「緊張してるか」

「してない」

「嘘だ。手が震えてる」

「

……少しな」

ルーサーはミキサーの前に立ち、ヘッドフォンを首にかけたまま、マックを見た。

「一つだけ、言っておく」

「何だ」

「俺はお前の後ろにいる。何があっても音は止めない」

「ああ」

「だからお前は前だけ見てろ」

マックは小さく笑った。

「うるせえな。らしくない」

「たまには言わせろ」

その瞬間、客席から大きな歓声が上がった。ジョーが舞台に上がってきたのだ。

バトルのルールは単純だった。

一人が四小節。交代で三ラウンド。観客の歓声の大きさが勝敗を決める。

ジョーが先攻だった。

ビートが鳴り始めた。ルーサーが選んだのは太く重いドラムの入ったブレイクだった。

ジョーはマイクを握り、にやりと笑った。

おいおい 見ろよ 真っ白な 小麦粉

このブロンクスに 迷い込んだ 小さな亡霊

肌は雪みたい 頭は空っぽ

帰れよ お前の 居場所じゃねえんだ

観客がどっと沸いた。笑いと一部の本気の拍手。

マックは息を吸った。

自分の番が来た。ビートが一周する。

小麦粉だって? いいね それなら 焼いてくれ

お前の腹を 満たせる パンになるさ

白いのは 認める 生まれつきの ことさ

でも 言葉の色は お前が 決めることじゃねえ

観客がざわついた。それから笑いが起きた。

マックは続けた。

俺はここで 育った 同じ 水を飲んで

同じ階段 同じ 焼けた 夏の街

肌の色なら 隠せねえ 認めるよ

だけど この口は 誰にも 隠せねえ

最後の一行で客席がぐらりと揺れた。

ジョーの笑みがわずかに固くなった。

二ラウンド目。

ジョーは作戦を変えてきた。マックの貧しさを突いてきた。

服は古着 靴は穴開き

婆ちゃんの スープで 生きてる 坊や

親父は逃げた 母親は どこだ

自分の 名前も 誇れねえ アイリッシュ

観客の一部がひゅっと息を呑んだ。

マックは胸の奥がずしりと冷えるのを感じた。父親のこと。母親のこと。それは誰にも言ったことの

ない場所だった。ジョーは調べてきたのだ。

怒りが喉までこみ上げた。

言い返したかった。ジョーの母親を家を過去を同じようにえぐってやりたかった。マックの頭の中に

はいくつもの言葉が浮かんでいた。それらは確実に相手を傷つけ、観客を沸かせる、鋭い言葉だっ

た。

けれどその瞬間、ルーサーの声が頭の中に響いた。

『家族のことは絶対に言うな』

マックは拳を握りしめた。そしてゆっくりと息を吐いた。

ビートが一周した。マックの番だった。

古着も 穴開きも 本当だ 認める

親父がいないのも 母親が 弱いのも

でもな 婆ちゃんの スープは 世界で一番

それで 育った 俺が 今 ここに立つ

会場がしんと静まり返った。

マックはマイクをぎゅっと握った。

お前は 俺の 痛みを 調べてきた

努力は 認める 大した もんだ

だけどな 痛みなら お互い 持ってる

持ち寄って ビートに 変えるのが この場所だろ

一拍。

それから割れるような、歓声が爆発した。

ジョーは口を半分開けたまま、動けなかった。

三ラウンド目。

ジョーはもはや攻める気力を失っていた。力任せにありきたりな悪口を並べたが観客の反応は薄かっ

た。

マックは最後の四小節を静かに始めた。

街は燃えて それでも 俺たちは 踊った

壁に 名前を 刻んだ ビーボーイ

二台の機械で 夜を 延ばした 友だち

この音楽を 作った 全員に 敬意を

ビートが止まった。

一秒の沈黙。

そして体育館が揺れた。

足を踏み鳴らす音。歓声。口笛。誰かが叫んだ。

「マック! マック! マック!」

最初は数人だった。やがて百人になり、三百人になった。体育館全体が彼の名前を呼んでいた。

マックは呆然とその光景を見つめていた。

舞台の向こうでルーサーがヘッドフォンを外して両手を挙げていた。眼鏡の奥の目が濡れていた。

舞台を降りる前にジョーが近づいてきた。

マックは身構えた。殴られるかもしれない、と思った。

ジョーは無言で右手を差し出した。

「

……え」

「握手だ」

「あああ」

手は大きくざらついていた。

「家族の話を持ち出したのは悪かった」

ジョーは低い声で言った。

「やり返さなかったな」

「

……俺には友達がいる。そいつに約束したんだ」

「友達か」

ジョーはターンテーブルの向こうのルーサーをちらりと見た。

「いい友達を持ってるな」

「ああ」

「俺はお前をまだ認めたわけじゃない」

「分かってる」

「だが今夜の言葉は本物だった」

ジョーはそれだけ言うと背を向けて人混みの中に消えていった。

帰り道。

街はすでに静まり返っていた。マックとルーサーは並んで歩いた。

「やったな」

「ああ」

「ジョーに握手された」

「ああ」

「祖母さんに報告するか」

マックは鼻で笑った。

「バトルのことなんか言えるか。『そんなことで何が食えるんだい』って言われるに決まってる」

「いや」ルーサーが少し考えた。「たぶん、言わなくてももう知ってる」

「え?」

「ミス・ロレッタがさっき体育館にいた」

マックは立ち止まった。

「

……あの窓辺の」

「ああ。ずっと後ろで手を叩いてた」

「なんで」

「お前のファンなんだとさ」

マックは思わず吹き出した。

家に着くと階段の途中で祖母の部屋の明かりがまだ点いているのが見えた。

扉を開けると祖母は台所のテーブルに座っていた。マックの顔を見ても何も言わない。ただ湯気の立

つお茶を一杯彼の前に置いた。

「

……聞いたよ」

「何を」

「ロレッタから」祖母はぶっきらぼうに言った。「体育館で何かやったそうじゃないか」

「

……うん」

「勝ったのかい」

「勝った」

「そうかい」

祖母はそれだけ、言った。

それからしばらく黙ってお茶を啜った。やがてぼそりと言った。

「スープが世界で一番、って言ったそうじゃないか」

マックは顔が熱くなった。

「ロレッタはそこまで話したのか」

「大きな声で教えてくれたよ。明日スープに肉を入れてやるから」

「え」

「うるさい。早く寝な」

マックはカップを持ったまま、何も言えなかった。

祖母が背を向けた台所の流しでほんのわずかに肩が震えているのが見えた。

けれどその震えが笑いだったのかそれとも別のものだったのかマックには最後まで分からなかった。


第六章 異端児

バトルの噂は街の壁を越えて広がっていった。

ブロンクスの外にもパーティーはあった。ハーレムブルックリン、クイーンズ。それぞれの街にそれ

ぞれのDJがいてMCがいて観客がいた。そしてどの街にも異なる音と異なる誇りがあった。

一九七七年の夏、マックは十九歳になっていた。

昼は近所の青果店で箱を運ぶ仕事をしていた。祖母がどうしてもと言うので始めた。

「音楽で食えない間はちゃんと働きな」

「食えない間はじゃなくて食えるようになる前はだろ」

「同じことさ」

朝六時に起きてトラックの荷台からりんごの箱を下ろす。腕の筋肉がつき、肩幅が広くなった。夜に

なると疲れた体を引きずってルーサーの部屋に向かう。それが日課になっていた。

その夏ニューヨークの街は一晩だけ、闇に沈んだ。

停電だった。七月のうだるように暑い夜。街中の灯りが一斉に消えた。信号も冷蔵庫も扇風機も止ま

り、ブロンクスは完全な暗闇に包まれた。

そして闇の中で街が荒れた。

店の窓が割られ、棚が空にされた。火の手があちこちで上がった。サイレンが鳴り止まなかった。

マックはアパートの窓からその光景を見ていた。祖母が隣で無言で十字を切っていた。

「見るんじゃないよ」

「でも」

「見るもんじゃない。あれは貧しさの成れの果てだ」

その言葉は重かった。彼女は飢えを知っている。貧しさが人をどこまで追い込むかを知っている。

翌朝街の姿は一変していた。焦げた匂いがあたりに満ちていた。

後から聞いた話ではその夜街中の電気店から大量の機材が消えたという。ターンテーブルミキサー、

アンプ。それらを手にした少年たちが街のあちこちに新しいDJを生み出していった。

ルーサーはその話を聞いて眉をひそめた。

「俺は盗んでない」

「分かってる」

「盗んだ機材で音楽を作るのは違う気がする」

「お前の言う通りだ」

けれどルーサーはその後少しだけ、焦っていた。街には新しいDJが次から次へと現れていたからだ。

「俺たちももっと上に行かなきゃ」

マックはその言葉の意味をまだ本当には理解していなかった。

異名はある夜突然現れた。

ハーレムのある広場でのパーティーだった。ブロンクスの外に呼ばれたのはそれが初めてだった。

マックとルーサーは地下鉄を乗り継いで見知らぬ街に足を踏み入れた。

広場は満員だった。観客はほとんどが黒人で白人はマックただ一人だった。

視線が突き刺さった。

「あれがブロンクスの白いのか」

「ほんとに来たのか」

「お手並み拝見だ」

その囁きがあちこちから聞こえた。

先に地元のMCが舞台に立った。彼は観客をあっという間に自分のものにした。声に張りがあり、言

葉に迫力があり何よりこの街の人間にしか出せない、地面の匂いがあった。

マックの番が来た。

マイクを握った瞬間、観客の一人が叫んだ。

「ホワイト・デビル!」

笑いが起きた。侮蔑の笑いだった。

「こっちの街に白い悪魔が来やがった!」

「ホワイト・デビル! ホワイト・デビル!」

観客の一部がその言葉を囃し立て始めた。それは挑発であり、嘲笑であり同時にほんの少しだけ、恐

れでもあった。

マックは一瞬固まった。

胸が冷たくなった。この言葉は侮辱だ。この街で白い肌の人間がどれだけの苦痛を黒い肌の人々に与

えてきたか。その歴史をマックは知っていた。「悪魔」という言葉にはその歴史の重さが込められて

いた。

けれど同時にマックは奇妙な冷静さを感じていた。

ルーサーが後ろから小さな声で言った。

「どうする」

「受ける」

「本気か」

「ああ」

マックはゆっくりとマイクを口元に近づけた。

観客が静まった。

悪魔だって? いいね その名前 貰っとく

白い悪魔 ここに参上 お待ちかね

俺の肌は 歴史を 背負っちゃいない

だけど 言葉の重さは 知ってるつもりだ

観客がざわついた。

マックは続けた。

悪魔が ここに来て やることは ひとつ

地面を揺らして この街に 敬意を

お前らが 作った このビートの 上で

悪魔は 踊る そして 恩を 返す

ビートが一周した。

会場の空気が変わった。さっきまで囃し立てていた声がいつの間にか別の響きを持っていた。

「ホワイト・デビル」。それはもう侮蔑だけではなかった。

観客の中から誰かが笑いながら叫んだ。

「やるじゃねえか悪魔!」

次に別の誰かが叫んだ。

「悪魔! もう一発、やれ!」

マックは自分でも驚いていた。名前を奪われることを恐れていたはずだった。けれどその名前を自分

で拾い上げた瞬間、それは彼のものになっていた。

その夜から「ホワイト・デビル」という名前は、街から街へ伝わっていった。

「ブロンクスの白い悪魔がハーレムを沸かせた」

「あの白い野郎、肌の色なんか関係ねえ。本物だ」

「まあ悪魔ってのは皮肉だがな」

最初は揶揄の込められた名前だった。それが次第に尊敬と恐れと親しみを混ぜ合わせた響きに変わっ

ていった。

しかしすべての人間がその名前を受け入れたわけではなかった。

「あんなもんを受け入れるのか」

ある日ミス・ロレッタの息子のウィリーが、マックにそう言った。ウィリーは二十五歳。大学に通い

ながら地元の若者たちの相談役のようなことをしていた。

「どういう意味だ」

「あの名前だ。『悪魔』ってのは白人がこの街をどう見てきたかを象徴してる。お前はそれを喜んで

受け取った」

「喜んでなんかいない」

「でも使ってる」

マックは言葉に詰まった。

「俺はお前を嫌いじゃない」ウィリーは静かに続けた。「ただお前がその名前で金を稼ぐようになっ

たとき、何が起きるか考えておけ」

「

……どういう意味だ」

「白人の坊主が黒人の街の言葉を使って有名になる。その構図を世の中がどう扱うか。俺はそれが少

し怖い」

マックはその言葉を胸の奥にしまった。意味は完全には分からなかった。けれど忘れることはなかっ

た。

もう一つ、小さな変化が起きていた。

パーティーの告知のビラにいつの間にか「ホワイト・デビル」の名前が一番大きく、印刷されるよう

になったのだ。

ルーサーの名前はその下に小さく添えられていた。

「ホワイト・デビル with DJ ルーサー」

ルーサーはそのビラを黙って見つめていた。

「気にするな」マックは言った。「次はちゃんとお前の名前を大きくするように言っておく」

「別に気にしてない」

「嘘だ」

「

……少しだけ、な」

ルーサーはビラを丁寧に折りたたんでポケットにしまった。

「お前の名前が広がるのはいいことだ。それは本当にそう思う」

「ああ」

「ただ」ルーサーは少し言葉を選んだ。「俺の音はお前の声の下にあるだけの存在じゃない」

「分かってる」

「ならいい」

それ以上、二人はその話をしなかった。

けれどその夜ルーサーは長い間ミキサーの前に座っていた。窓の外の街灯をじっと見つめながら。

マックはそれに気づいていた。気づいて何も言えなかった。

それは小さなほんの小さな、ひび割れだった。

一九七九年の秋。

街に衝撃が走った。

ニュージャージーのレコード会社が出自のよく分からない三人組にラップを吹き込ませてレコードを

発売したのだ。

その曲はラジオから流れ、街から街へ一気に広がった。

「聴いたか」

「聴いた」

「あれがラップのレコードか」

ブロンクスの若者たちはラジオの前で複雑な顔をした。

初めてラップがレコードになった。それは誇らしい出来事のはずだった。けれどそのレコードを作っ

たのはこの街でパーティーを重ねてきた人間ではなかった。

「俺たちの音が盗まれた」

「誰のものでもないだろ」

「でも俺たちの街のものだ」

議論は夜通し続いた。

ルーサーはそのレコードを何度も繰り返し、聴いた。ブレイクの使い方。リズムの運び方。そして最

後にぽつりと言った。

「悪くない。でもあそこに街の匂いはない」

マックは黙ってうなずいた。

けれど心の奥では別の声が聞こえていた。

レコードになる。

ラップが街のパーティーから外へ出ていく。それはもう止められない流れだった。

そして自分の名前もいつかその流れの中に飲み込まれていくのかもしれない。

マックは窓の外の夜空を見上げた。

予感は確かにあった。

けれどそれがどれほど大きな変化をもたらすのかを、彼はまだ知らなかった。


第七章 レコード契約

一九八一年の春、マックは二十二歳になっていた。

ラップのレコードはもう珍しいものではなくなっていた。次々と新しい盤が出てラジオからも流れ、

ミッドタウンのレコード会社の人間が、ブロンクスの空き地まで足を運ぶようになっていた。

その年の三月、一人の女性がマックの出る小さなクラブに現れた。

ヴェラ・ストーン。四十代の黒人女性でレコード会社「ブライトライン」の、制作担当だった。仕立

てのいいコートにきびきびした足取り。入口で客の数をざっと数えて一番後ろの壁際に立った。

マックはその夜いつもより少し力が入っていた。誰かに見られているような気がしたからだ。

終演後楽屋の扉がノックされた。

「いい夜だったわ」

ヴェラは挨拶もそこそこにそう言った。

「どうも」

「あなたの名前は前から聞いていた。ホワイト・デビル。最初はただの客寄せかと思った」

「違いますよ」

「ええ。違った」ヴェラは笑わなかった。「言葉が本物ね。リズムの外し方がいい。それと」彼女は

扉の陰に立っていたルーサーをちらりと見た。「後ろの彼のターンテーブルがもっといい」

ルーサーがわずかに目を見開いた。

「話を聞かせてもらえる?」

ブライトラインのオフィスはミッドタウンの高層ビルの十二階にあった。

ガラス張りの会議室からマンハッタンの街並みが一望できた。マックはブロンクスの窓から見える、

向かいの壁を思い出した。同じ街とは思えなかった。

社長の名前はクラインといった。五十代の白人男性で笑顔は丁寧だったが目は常に数字を計算してい

るように見えた。

「素晴らしい才能だ」

クラインはマックの手を両手で握った。

「我々は君に大きな可能性を見ている」

「ありがとうございます」

「ラップはこれから大きくなる。そしてそこに白人の才能あるMCがいれば」クラインは、そこで少

し言葉を切った。「市場はさらに広がる」

マックはその言い方に小さな棘を感じた。

「それはどういう意味ですか」

「いや悪い意味じゃないんだ。ただ全米のラジオ局はまだラップに慎重だ。だが君のような存在な

ら、より多くの人々に届く」

ヴェラが横から静かに言った。

「社長。彼は肌の色で売る人じゃありません」

「もちろんだよ、ヴェラ」クラインは笑った。「才能があってこそだ。それは間違いない」

マックはヴェラの横顔を見た。彼女の目が一瞬だけ、マックに向けられた。その目は「気をつけなさ

い」と言っていた。

契約書は分厚かった。

マックは条件をひとつずつ、読んだ。専門用語が多く、半分も理解できなかった。

「一つだけ、条件があります」

「何でも」

「DJはルーサー・ブッカーで。俺と一緒に作る」

クラインは一瞬ヴェラに視線を送った。

「もちろん。彼は優秀だ。ただし契約の形は君が主役で彼はサポートという形になる」

「サポート」

「そうだ。レコードには『ホワイト・デビル』の名前が大きく載る。DJの名前はクレジットに小さ

く」

マックは隣に座るルーサーを見た。

ルーサーは何も言わなかった。ただ膝の上の握りしめた拳をじっと見つめていた。

「

……少し、考えさせてください」

「もちろん。ただ他の会社も動いている。あまり時間はないよ」

その夜二人は屋上で向き合っていた。

「お前はサインしろ」

ルーサーが先に言った。

「でも」

「これはお前のチャンスだ」

「お前のチャンスでもある」

「俺のは違う」ルーサーは静かに言った。「俺はDJだ。レコードを回す人間だ。主役にはならない」

「そんなことない。お前の音がなければ俺の言葉は」

「マック」ルーサーは遮った。「俺は本気でそう思ってる。この世界では声が前に出る。それは仕方

がない。そういう、仕組みなんだ」

マックは言葉を失った。

ルーサーは眼鏡を外した。レンズをシャツの裾で拭った。

「約束を覚えてるか」

「二台のターンテーブルの前で」

「そうだ。お前はそこにいる。そのことが俺には一番大事だ」

「

……ルーサー」

「サインしろ。それでいい」

マックは長い間屋上の暗がりを見つめていた。

そして小さくうなずいた。

けれどその夜の約束が後にどれほど重いものになるのか。そのとき、二人はどちらも気づいていな

かった。

レコーディングは五月に始まった。

マンハッタンのスタジオはブロンクスの空き地とはまるで違った。防音の壁、ガラスの向こうの調整

室、並んだ機材。マックはヘッドフォンを装着してマイクの前に立った。

自分の声が耳の中で初めてきれいな形で聞こえた。

「いいわよ」ヴェラの声がスピーカーから聞こえた。「もう一回」

何度も何度も同じ小節を歌った。ルーサーのビートの上で言葉を乗せていく。

最初のシングルは「ホワイト・デビル」というタイトルだった。

呼ばれた名前は 侮蔑のかけら

拾い上げたら 俺のものになった

白い悪魔 ここに 参上

街の鼓動を 背負って 叫ぶ

録り終わったとき、ガラスの向こうでヴェラが小さく拍手をしていた。

「これは売れるわ」

「本当に」

「ええ。でも売れることが一番じゃない」ヴェラは少し真顔になった。「この曲はあなたの名前に意

味を与えた。それを忘れないで」

マックは小さくうなずいた。

最初のレコードができあがった日。

マックは完成したばかりの十二インチ盤を、抱えてアパートの階段を駆け上がった。

祖母は台所の椅子に座っていた。最近咳が増えていた。顔色もあまり良くなかった。

「婆ちゃん」

「なんだい、そんなに慌てて」

「できた。レコード」

マックは盤をテーブルの上に置いた。ジャケットには自分の顔が小さく印刷されている。

祖母はそれを手に取った。老眼鏡をかけてジャケットをじっと見つめた。

「

……これがあんたかい」

「うん」

「ずいぶん、こわい顔だね」

「仕方ないだろ、悪魔なんだから」

「悪魔」祖母は鼻を鳴らした。「あたしの孫を悪魔呼ばわりするとはいい度胸だ」

「それは俺が自分で選んだんだよ」

「余計悪い」

マックは笑った。祖母もほんの少しだけ、口元を緩めた。

電蓄はもう使われなくなっていた。マックは新しく買った小さなプレーヤーを、台所の隅に置いた。

盤を慎重に載せて針を落とした。

ビートが流れ始めた。

祖母は腕を組んで黙って聴いていた。マックはその横顔をずっと見つめていた。

曲が終わった。

「

……うるさいね」

「うん」

「でも」

祖母はゆっくりと言った。

「悪くない」

マックは息を止めた。

「悪くないって言った」

「聞こえただろ。二度は言わないよ」

「もう一回、言って」

「嫌だね」

祖母は立ち上がって台所の流しへ向かった。そして背を向けたまま、小さく付け加えた。

「あんたのばあさんのスープの話がちゃんと入ってた」

「

……入ってた?」

「あの世界で一番ってやつさ」

マックははっとした。あのバトルの夜に口にした言葉が、そのまま、新しい歌詞に織り込まれていた

のだ。

祖母は気づいていた。

マックは何も言えなかった。ただその小さな背中を見つめていた。

シングルはブロンクスで爆発的に売れた。

ラジオでも何度も流れた。街の少年たちが盤を擦り切れるほど、聴いた。かつてマックを笑った連中

が通りで彼の名前を叫んだ。

「ホワイト・デビル!」

その声にもう侮蔑の響きはなかった。

けれどその喜びの陰で祖母の咳が少しずつ、悪化していた。

十一月の寒い朝。祖母は台所で倒れた。

病院の白い廊下は消毒薬の匂いがした。

マックはベッドの脇の椅子に座っていた。祖母の手は驚くほど、小さく軽かった。点滴の管が細い腕

に繋がれていた。

「

……マック」

「ここにいるよ、婆ちゃん」

「うるさいね。そんなに大きな声で呼ばなくても聞こえてる」

「ごめん」

祖母は目を閉じたまま、小さく息を吐いた。

「あんたは本当にレコードを出したんだね」

「出した」

「ロレッタが新聞を持ってきた。あんたの名前が載ってた」

「そう」

「あたしはあんたが郵便局に行くと思ってたんだよ」

「ごめん」

「謝るんじゃない」祖母はゆっくり、目を開けた。「あたしが間違ってた。いや間違ってた、という

より」

言葉が途切れた。

「あたしは怖かったんだ。あんたが父さんみたいに夢に食われるのが。夢を見ていなくなるのが」

「俺はいなくならない」

「そうかい」

「ずっとここにいる」

祖母は小さく笑った。

「嘘つきだね」

マックはぐっと唇を噛んだ。

「いずれ、あんたは遠くに行く。それは仕方のないことさ。あんたはそういう、星の下に生まれたん

だ」

「婆ちゃん」

「いいかい、マック」祖母はマックの手を強く握った。「遠くに行っても足元は見るんだよ。あんた

がどこから来たのか。誰に育てられたのか」

「忘れない」

「それと」

「うん」

「友達を大事にしな。あの黒い眼鏡の子。あの子は本物だ」

マックは目頭が熱くなった。

「ルーサーのこと」

「そう。あの子があんたの隣にいる限り、あんたは大丈夫さ」

祖母はそう言って目を閉じた。

その夜静かに息を引き取った。

葬儀は小さな教会で行われた。

参列者は多くなかった。ミス・ロレッタ、ブッカー家の人々青果店の主人、階下のロドリゲス一家ベ

ニー。そして教会の後ろの隅に見慣れない、背の高い男が一人。

父親だった。

十五年ぶりに見る、父の顔は驚くほど、老けていた。髪は白くなり、肩は小さくなっていた。マック

と目が合った。

父は何か言いたそうに口を開きかけた。けれど結局何も言わずに視線を逸らした。

マックはその背中を追わなかった。

祭壇の脇ではミセス・ブッカーがピアノを弾いていた。穏やかな、静かな賛美歌だった。ルーサーが

隣でじっと立っていた。

マックは棺の前に立った。

小さな小さな祖母がそこに眠っていた。

何か言いたかった。けれど言葉が出てこなかった。口達者で負けず嫌いだったはずの自分から、すべ

ての言葉が消えていた。

その夜ミス・ロレッタが一つの古いブリキの箱を彼に手渡した。

「あなたの祖母さんから預かっていたの。自分が死んだら、あんたに渡してくれって」

蓋を開けると中には何十枚もの新聞の切り抜きがきちんと重ねてあった。

バトルの記事。地元のクラブのレビュー。小さなコラム。レコード会社の広告。

全部マックの名前が載っているものだった。

最後の一枚は先月の日付のラジオ番組表だった。マックの曲が流れる時間に赤鉛筆で丸が付けられて

いた。

マックはその場に崩れ落ちた。

「

……婆ちゃん」

声が喉の奥で割れた。

いつの間にこんなものを。どうして一言も言わなかったのか。

答えは分かっていた。祖母は愛情を素直に表せない人だった。だから全部黙って集めていたのだ。

マックはブリキの箱を胸に抱きしめた。

窓の外ではブロンクスの空に初雪が舞い始めていた。

成功は始まったばかりだった。

けれどそれを一番見せたかった人はもういなかった。


第八章 God

一九八二年。

最初のアルバムは『WHITE DEVIL』というタイトルで、その年の秋に発売された。

発売初週にブロンクスのレコード店の前に行列ができた。二週目にはブルックリンとハーレムの店で

在庫が尽きた。三週目にはラジオ局が昼夜を問わず、アルバムの曲を流し始めた。

数字は日ごとに跳ね上がった。

十万枚。五十万枚。百万枚。

マックは会議室の机の上に積まれた、売上の紙をぼんやりと眺めていた。ゼロの数が多すぎて現実の

数字に見えなかった。

「ゴールドディスクよ」ヴェラが、微笑んだ。「おめでとう、マック」

「ゴールド……」

「次はプラチナ。それも時間の問題でしょうね」

クラインは握手を求めてきた。笑顔がこれまで見たどの笑顔よりも輝いていた。

「素晴らしい。君は新しい時代を作ったんだ」

マックはその手を握った。

けれど胸のどこかに小さな空洞があった。この数字を誰よりも見せたかった人がいないのだ。

名声は静かにそして急激にやってきた。

雑誌の表紙。テレビの音楽番組。ラジオのインタビュー。サイン会に並ぶ長い列。街を歩けば誰かが

立ち止まって指をさした。

「ホワイト・デビルだ」

「本物だ」

最初のうち、マックはそれを素直に楽しんだ。初めて新品のスーツを仕立てた。初めてホテルのス

イートルームに泊まった。初めて飛行機の一等席に座った。

ブロンクスのあの小さなアパートで焦げたジャガイモの匂いの中で育った少年が、今世界の端でシャ

ンパンの泡を眺めている。

その落差に時々めまいがした。

その年の暮れ、マックはミス・ロレッタを小さなレストランに招待した。

「そんなにしてくれなくていいのよ」

「してもらったことの一割も返せてません」

ロレッタは笑って首を振った。

「あなたのお祖母さんはね、あなたの音楽を本当に誇りにしていたのよ」

「そうでしょうか」

「そうよ。あたしに毎日自慢していたもの。口では『うるさい』『やかましい』って、言いながら

ね」

マックは胸が熱くなった。

ロレッタは続けた。

「でもね、マック。一つだけ、言わせて」

「はい」

「あなたの周りの人たちを忘れないでね。成功すると人は周りが見えなくなるの」

「忘れません」

「そう言う人ほど、ね」

ロレッタは穏やかに微笑んだ。その笑顔は優しかったが同時に本物の警告でもあった。

ツアーは一九八三年の春に始まった。

全米二十五都市。バスで夜通し移動する。昼はホテルで眠る。夜は満員の会場でマイクを握る。

観客は年々増えていった。ニューヨーク、シカゴロサンゼルス、アトランタ。会場はクラブからホー

ルへホールからアリーナへと大きくなっていった。

ルーサーはそのすべての舞台で二台のターンテーブルの前に立っていた。

けれど舞台の上での二人の距離は少しずつ、広がっていった。

大きな会場では照明がマックだけを照らす。ルーサーは舞台の後方の暗がりに置かれる。観客の視線

は前に立つ、白い悪魔に集中する。

「ルーサー」

ある夜マックは楽屋で声をかけた。

「ん」

「今夜のブレイクの繋ぎ。あれ最高だった」

「ああ」

「客席から見えたか。みんな叫んでた」

ルーサーは少し黙った。

「

……俺には見えない」

「何が」

「客席が見えないんだ。照明が全部お前に向いてる」

マックは言葉に詰まった。

ルーサーは笑って首を振った。

「冗談だ。気にするな」

「冗談じゃ、ないだろ」

「本当にいいんだ」

ルーサーはヘッドフォンを首から外した。

「お前が前で輝く。俺が後ろで音を作る。それが俺たちの形だ。そう決めたじゃないか」

マックはうなずいた。けれどその言葉にわずかな疲れが滲んでいるのを感じていた。

一九八四年。ブライトラインは新しいプロデューサーを雇った。

ブレット・ハンコックという、白人のロック畑出身の男だった。機材に詳しく、最新のシンセサイ

ザーを駆使する。会議室で彼はデモテープを流した。

重く豪華で磨き上げられた音。ルーサーのビートがどこにもなかった。

「素晴らしいだろ」クラインが満足げに言った。「これが次のアルバムの方向性だ」

マックは不安な顔でルーサーを見た。ルーサーは何も言わなかった。表情が凍りついていた。

「ルーサーの音はどうなる」

「彼のターンテーブルはライブで使う。もちろん、レコーディングにも一部は残す」

「一部」

「ああ。スクラッチなどのアクセントとして」

ルーサーがゆっくりと立ち上がった。

「失礼する」

「ルーサー」

「少し頭を冷やしてくる」

ルーサーが部屋を出ていった。

マックは追いかけようとしてクラインに肩を掴まれた。

「彼はプロだ。分かってくれる」

「分かってもらうのが前提かよ」

「マック。これがビジネスだ」

マックはその手を振り払った。けれどその場で決定的な拒否はできなかった。契約書の言葉が頭をよ

ぎったのだ。新しいアルバムの制作方針はレーベルの決定に従う。

彼はサインしていた。あの屋上の夜の約束のとおりに。

一九八五年、マディソン・スクエア・ガーデン。

収容人数、二万人。ブロンクスの空き地で百人の前でマイクを握った少年が二万人の前に立ってい

た。

開演前の楽屋でマックは震えていた。

「怖いのか」

「

……ああ」

「今さら、何を」

「だって二万人だぞ。二万人だぞ、ルーサー」

ルーサーが静かに笑った。

「あの日の百人と同じだよ」

「そんなわけ、ないだろ」

「同じさ。マイクを持って口を開く。そうすれば勝手に言葉が出てくる」

マックはルーサーの顔を見た。

あの几帳面な少年は二十七歳の疲れた目をした男になっていた。それでも眼鏡の奥の瞳はあの頃と変

わらなかった。

「ルーサー」

「ん」

「ありがとう」

「何が」

「全部だ」

ルーサーは少し照れたように顔を背けた。

「早く行け」

幕が上がった。

闇の中にあの太鼓の音が響いた。

二万人が息を止めた。

次の瞬間、マックは光の中に飛び出していた。

ブロンクスの 壁の向こう

叫んだ声が ここまで 来た

白い悪魔と 呼ばれた 夜から

歌い続けた この 十二年

二万人の声が一斉に返ってきた。

地鳴りのような、轟音だった。足元の床が振動し胸骨が震えた。マックはマイクを高く掲げて叫ん

だ。

「ブロンクスから来たぞ!」

歓声が爆発した。

その夜の舞台は後にヒップホップの歴史の中で一つの伝説として語られることになる。

ルーサーは暗がりの中で二台のターンテーブルを操り続けた。その指の動きは完璧だった。けれどそ

の姿を誰も見てはいなかった。

ショーが終わった後、マックは楽屋で受話器を握っていた。

ダイヤルを回した。

プルルル、プルルル。

呼び出し音が虚しく鳴り続けた。

誰も出なかった。

そのアパートはもう他人が住んでいる。祖母の電話番号はとっくに解約されている。それでも彼は指

が覚えていた番号を回してしまった。

受話器を置いた。

楽屋の鏡に自分の顔が映っていた。汗にまみれた、疲れた二十七歳の男の顔。

ブリキの箱はホテルの鞄の中にいつも入っていた。蓋を開けた。古い新聞の紙の匂いがした。

「見たかい、婆ちゃん」

声が震えた。

「二万人だぜ。みんな俺の名前を叫んでた」

返事はなかった。

ドアがノックされた。ヴェラだった。

「素晴らしい夜だったわ」

「

……ええ」

「どうしたの」

「いや」マックは箱を閉じた。「何でもありません」

ヴェラはしばらく、彼を見つめていた。それから静かに言った。

「成功は孤独を連れてくる」

「え」

「昔誰かに言われたことがあるの。あなたはまだその入口にいる」

マックは何も言えなかった。

一九八六年、世界ツアーが始まった。

ロンドン。パリ。そして東京。

東京の空港に降り立ったとき、マックは驚いた。到着ロビーに数百人の若者が待ち構えていたのだ。

ブロンクスの空き地で生まれた音が、地球の反対側で鳴っている。

「ホワイト・デビル! ホワイト・デビル!」

聞き慣れない発音で彼らは名前を叫んだ。その響きがあまりにも遠い場所から聞こえてくるようで

マックは思わず笑ってしまった。

ルーサーは空港の窓の外をじっと見ていた。

「どうした」

「いや」ルーサーは少し間を置いた。「すごいな、と思って」

「何が」

「この音楽がここまで来た」

「ああ」

「俺たちが始めたものが」

その言葉の中の「俺たち」という響きがマックの胸に小さく残った。

その夜東京の小さなクラブで非公式のセッションが行われた。ルーサーは二台のターンテーブルを見

事に操り、地元の若いDJたちを驚かせた。ヒップホップの最初の形をそのまま、体現している人間が

そこにいたからだ。

若者たちはルーサーを取り囲んだ。技を教えてくれ、と頼んだ。ルーサーは少し困ったような顔をし

ながらいつもの几帳面な説明を始めた。

マックはその光景を壁際から眺めていた。

ルーサーがここで尊敬されている。それが嬉しかった。

同時に胸の奥にちくりと痛みが走った。

この光景はアリーナでは見られない。

成功は確かに喜びだった。

高価なスーツ。大きな家。ロングアイランドの広い庭のある邸宅。ミス・ロレッタにはブロンクスに

小さな家を買ってあげた。ベニーには地元のレコード店を開く資金を出した。

ブリキの箱は家の書斎の一番奥の棚に置かれた。

けれどその家は広すぎた。

夜になると廊下に自分の足音だけが響いた。窓の外には整えられた芝生が静かに広がっていた。サイ

レンの音も隣の部屋の声も焦げたジャガイモの匂いもそこにはなかった。

マックはブロンクスの夢をよく見るようになった。

夢の中で祖母が台所で背を向けて何かを煮込んでいる。マックが声をかけようとすると祖母は振り向

かずに言う。

「足元を見なさい」

目が覚めると天井は見知らぬ、高い天井だった。

成功は確かにそこにあった。

そして失われつつあるものも確かにそこにあった。


第九章 孤独

一九九〇年代に入るとヒップホップはもはや小さなパーティーの音楽ではなくなっていた。

ラジオのチャートの上位にラップが並んだ。テレビの音楽専門チャンネルでは、一日中ミュージック

ビデオが流れた。ファッション雑誌がストリートの服を特集した。企業がラッパーの名前を広告に使

い始めた。

あの延長コードを引っ張って電球を揺らしていた空き地の音が、巨大な産業になっていた。

そしてその産業の巨大な顔の一つにホワイト・デビルがいた。

マックは三十代になっていた。アルバムは六枚。世界中で数千万枚。彼の名前はもう一つのブランド

だった。

けれどその名前の重さは年を追うごとに変わっていった。

「あなたは何者なのですか」

ある夜テレビの討論番組にマックはゲストとして呼ばれた。

スタジオの向かいに座るのは若い黒人の評論家だった。落ち着いた声と鋭い目を持った、三十代の女

性だった。

「ホワイト・デビル。あなたは素晴らしい才能の持ち主です。それは疑いません」

「ありがとうございます」

「ただあなたはこの音楽を黒人の若者たちが貧困と差別の中から生み出した文化だと理解しています

か」

「もちろん」

「ではお聞きします」彼女は身を乗り出した。「あなたの成功はあなたの才能だけによるものでしょ

うか。それともあなたが白人であるから大きな市場に受け入れられたのでしょうか」

スタジオがしんと静まり返った。

マックはゆっくりと息を吸った。

何度もこの質問を受けてきた。何度も答えを用意してきた。けれど今夜は頭の中の用意した言葉がす

べて消えていた。

「両方だと思います」

彼女の眉がわずかに動いた。

「才能がなければここまで来られなかった。それは自分でも信じています。けれど同時に白人である

ことが扉を開いた場面も確かにありました。それを否定するのは嘘になる」

「続けてください」

「俺がブロンクスで最初にマイクを握ったとき、俺よりもうまいMCはたくさんいました。黒人もプ

エルトリコ系もたくさんの才能があの街にはいた。彼らの何人かは世に出られなかった。なぜか。俺

にはすべては説明できません。ただ」

マックは一度言葉を切った。

「その不公平を俺は見てきました。そしてその不公平の片側に座っている自分も知っています」

彼女はじっとマックを見つめていた。やがて小さくうなずいた。

「正直な答えですね」

「それしかできません」

その放送は翌日大きな反響を呼んだ。賞賛もあった。批判もあった。

「あれは偽善だ」

「結局利益を得ているのは本人じゃないか」

「あれほど率直に認めた白人は初めて見た」

評価は真っ二つに割れた。

マックはそのどちらにも答えなかった。ただ一つだけ、確かだったのは自分がもうこの文化の中で単

純な存在ではいられない、ということだった。

その年の秋、マックはブロンクスに帰った。

車で橋を渡り、懐かしい通りに入る。街は確かに変わっていた。焼け落ちた建物は新しい集合住宅に

建て替えられていた。落書きの壁は塗り替えられ、あの頃の絵はほとんど、消えていた。

あの空き地は駐車場になっていた。

マックは車を停めてしばらく、その場に立ち尽くした。

電球はもうなかった。延長コードも。熱気も。あの夜自分が立った場所に今は白い線が引かれて車が

整然と並んでいた。

「

……ここだったんだよな」

独り言が冷たい風に消えた。

後ろから足音が聞こえた。

「久しぶりだな」

振り向くと年を重ねた、ウィリーが立っていた。あの頃は二十五歳だった彼が今は四十を過ぎ、髪に

白いものが混じっていた。

「ウィリー」

「ずっと見てたよ。お前の活躍を」

「ありがとう」

二人は並んで駐車場を眺めた。

「あのとき、言ったな」ウィリーが言った。「金を稼ぐようになったとき、何が起きるか考えてお

けって」

「覚えてる」

「考えたか」

「毎日考えてる」

ウィリーは小さく笑った。

「テレビでお前を見た。正直に答えてた」

「あれしか言えなかった」

「いいんだ。あれでいい」ウィリーはマックの肩に手を置いた。「お前は盗んだわけじゃない。それ

は俺も分かってる。でもこの産業は盗むんだ。お前を通して」

「どういう意味だ」

「お前の名前と顔と声を使って売る。その金が誰の懐に入るか考えてみろ。ブロンクスのこの街にど

れだけ、戻ってきた」

マックは答えられなかった。

「

……俺はここに家を建てた。ロレッタの」

「ああ。それはありがたかった」ウィリーはうなずいた。「でも足りないんだ。一軒の家では街は救

えない」

「分かってる」

「いや分かってない」ウィリーは静かに言った。「お前一人が悪いわけじゃない。でもお前はこの文

化の顔になった。顔には責任がある」

その言葉は重くマックの肩にのしかかった。

一方でルーサーとの距離は決定的に離れていった。

一九九一年、ルーサーは自分のアルバムを作りたい、と言い出した。

「ソロ・プロジェクトだ。DJとしてではなく、プロデューサーとして」

「いいじゃないか」

「レーベルに掛け合ってほしい」

マックはその頼みをクラインに伝えた。クラインは微笑みながら首を横に振った。

「彼は優秀な技術者だ。だが商業的にはまだ名前が弱い」

「何年もステージに立ち続けてきたんだ」

「だが名前はあくまでもホワイト・デビルのDJとしてだ」

マックはその場で反論できなかった。数字を突きつけられたからだ。ルーサーのソロ・アルバムの予

想売上。市場調査。リスクの計算。

「検討しておく」

結局その言葉を持ち帰るのが精一杯だった。

ルーサーはその報告を静かに聞いた。

「

……そうか」

「もう一度、掛け合う」

「いや」ルーサーは手を挙げた。「もういい」

「ルーサー」

「分かってた。最初から」

その声は冷たくはなかった。ただ深い諦めが滲んでいた。

その数週間後、さらに決定的な出来事が起きた。

マックの新しいシングルがチャートの一位になった。

その曲の冒頭のビートを聴いたとき、ルーサーの顔色が変わった。

「これは」

「どうした」

「この四小節」ルーサーはヘッドフォンを押さえた。「俺のビートだ」

「え」

「三年前に作った。お前に聴かせたことがあるはずだ。オフの夜の遊びのデモだ」

マックは思い出した。確かに聴いたことがあった。ルーサーが自宅の機材で気まぐれに作った、短い

ループ。いい音だと思った。それで終わりだった。

「それがなんで」

「ハンコックが持っていったんだ」

ルーサーの声が震えていた。

「俺のビートを。俺に断りもなく」

マックはクレジットを確かめた。

『プロデュース:ブレット・ハンコック』

ルーサーの名前はなかった。

その夜ロングアイランドのマックの邸宅の広いリビングで二人は向き合っていた。

「知らなかったんだ」

「知らなかった、か」

「本当に。ハンコックが勝手に」

「勝手に使ったんだとしたらお前はどうする」

マックは言葉に詰まった。

「レーベルに抗議する」

「本当にするのか」

「する」

「契約の制作方針はレーベルの決定に従う。お前がサインした、あの条項は」

マックは息を止めた。

ルーサーはすべて知っていた。

「ずっと見てたんだ。お前がどれだけ、守ってくれようとしたか。そしてどれだけ、守りきれなかっ

たか」

「ルーサー」

「お前を責めてるわけじゃない。いや」ルーサーは少し笑った。「責めてるかもしれない。自分でも

分からない」

沈黙が広いリビングに落ちた。

「お前を責めたくない。でもずっと思ってた」ルーサーの声は低く静かだった。「どうして一度も

レーベルと本気で戦ってくれなかったんだ、って」

「戦ったさ」

「戦ってない」

「戦った!」マックは思わず声を荒げた。「お前の名前を大きくしろって何度も言った。ソロを出さ

せろって何度も掛け合った」

「何度も言った。でも契約を破る覚悟はなかった」

「それは」

「お前が築いたものを壊す覚悟は」

マックは何も言い返せなかった。それが事実だったからだ。

そして追い詰められた彼の口から取り返しのつかない言葉がこぼれた。

「お前はDJだ」

ルーサーの目が見開かれた。

「俺がここまで引っ張り上げたからお前の名前を知ってる人間がいるんじゃないか」

言った瞬間に後悔した。

けれどもう遅かった。

ルーサーはゆっくりと立ち上がった。眼鏡を外した。それから深く息を吸った。

「

……そうか」

「ルーサー、今のは」

「いやいい。本音だ」

「違う。取り消す」

「取り消さなくていい」ルーサーは静かに言った。「お前のその言葉は何年も前から聞こえてた。た

だ今夜まで口に出さなかっただけだ」

「ルーサー」

「俺はお前の親友だった」

ルーサーは過去形で言った。

「友達でいたかった。でもお前はもう遠いところにいる」

ルーサーは玄関に向かった。マックはその背中に手を伸ばしかけてそのまま、凍りついた。

扉が閉まる音がした。

あの日八歳の秋に父が出ていったときと同じ音だった。

マックはその場に立ち尽くした。

広い広いリビングに彼は一人残された。

それから数ヶ月二人は一言も口をきかなかった。

ルーサーはツアーから離れた。ホワイト・デビルのDJは別の若い男に替わった。技術は確かだったが

それはただの技術だった。

舞台の上でマックは背後のターンテーブルの音に違和感を覚え続けた。ひとつひとつのブレイクが正

確すぎて息がなかった。

「何かが足りない」

ヴェラにそう漏らしたことがある。

「何が足りないの」

「分からない。ただあの音じゃ、ない」

ヴェラは複雑な顔で彼を見た。

「あなたは答えを知っているはず」

「

……ああ」

「ならなぜ行かないの」

マックは何も答えなかった。

行けなかった。何を言えばいいのか分からなかった。あの言葉は取り返しがつかなかった。祖母の遺

言が頭を離れなかった。

『友達を大事にしな。あの子が隣にいる限り、あんたは大丈夫さ』

隣にいなかった。

夜マックは酒を飲むようになった。最初はグラス一杯。やがてボトル一本。邸宅の書斎でブリキの箱

を膝に抱えてひとりグラスを傾けた。

窓の外は闇だった。

名声は彼を取り囲んでいた。何千人ものファン。何百人もの関係者。何十人もの取り巻き。

けれど彼の名前を呼んで本当に叱ってくれる人間は一人もいなかった。

俺の名前を 叫ぶ声が 何万と

でも 誰も 俺を 見ちゃいない

壁の中の 静けさが 耳に 痛い

ビートの ない 夜が こんなに 長い

その夜に書いた歌詞は最後まで発表されなかった。

マックはそれをブリキの箱の底にそっと仕舞った。


第十章 最後のビート

一九九六年の秋。

マックは三十八歳になっていた。

ヒップホップは完全に別の時代に入っていた。新しい世代のMCたちが新しい言葉で新しい怒りと新

しい夢を歌っていた。音は重く硬く都会的になり、かつての空き地のパーティーのあの素朴な熱は遠

い記憶になっていた。

マックの最後のアルバムは四年前に出たきりだった。売上は以前ほどではなかった。若い世代は彼を

「伝説」と呼んだ。けれどそれは敬意というより過去の飾り棚に置くような響きだった。

邸宅の書斎でマックは医者の診断書を見つめていた。

心臓が悪いと言われた。長年の無理と酒と不規則な生活の代償だった。医者は静かに言った。

「ステージは控えなさい。少なくとも激しい運動は避けるべきです」

マックはうなずいた。それから診断書を引き出しにしまった。

誰にも言わなかった。ヴェラにも。ベニーにも。

その年の秋、彼は一枚の古い写真を見つけた。

ブリキの箱の一番下に挟まっていた。

十五歳のマックとルーサーが並んで写っている。ルーサーの部屋の窓際で二台の古いターンテーブル

を前にして。ルーサーは眼鏡を直して真剣な顔。マックはその肩に腕を回してにやけた顔。

撮ったのはミセス・ブッカーだったはずだ。裏に鉛筆で小さく書かれていた。

『約束の半分。一九七三年六月』

マックは写真を長いこと見つめていた。

それから受話器を取った。

ベニーの番号を回した。

「マック? 珍しいな」

「ルーサーの連絡先、知ってるか」

電話の向こうでベニーが息を呑んだ。

「

……知ってる」

「教えてくれ」

「いいのか」

「ああ」

「あいつはまだ怒ってるかもしれないぞ」

「怒ってて当然だ」

ベニーは少しの間、黙った。それから住所を告げた。

ブロンクスの小さなスタジオだった。

その建物はあの頃のアパートから歩いて十分の場所にあった。

赤茶色の古いビルの半地下。入口に小さな手書きの看板が掲げられていた。

『BOOKER SOUND』

マックはドアの前で長い間立っていた。手が重かった。何を言えばいいのか。もう何年も考えてい

た。それなのに言葉は何も見つからなかった。

ドアを開けた。

薄暗い部屋にレコードの匂いが満ちていた。壁一面に盤がきっちりと並んでいる。奥に二台のターン

テーブルと古いミキサー。その前に一人の男が背を向けて座っていた。

「いらっしゃい」

男は振り向かずに言った。

「悪いが今日は予約が一杯で」

「ルーサー」

男の背中がぴたりと止まった。

ゆっくりと振り向いた。

眼鏡の奥の瞳はあの頃と変わらなかった。髪に白いものが混じり目元に深い皺が刻まれていた。けれ

どそれはまぎれもなく、ルーサー・ブッカーだった。

「

……マック」

「久しぶり」

「ああ」

沈黙が落ちた。

マックは帽子を取った。両手で握りしめた。

「あのとき、言ったことを謝りたい」

「ああ」

「お前はDJだと言った。あれは間違ってた。いや間違ってたなんて言葉じゃ、足りない」

「マック」

「お前は俺の半分だった。いや半分じゃない。お前が俺の音だった」

マックの声が掠れた。

「俺はずっとお前を後ろに置いてきた。そして気づかない振りをしてた」

ルーサーはじっと聞いていた。

やがて静かに立ち上がった。

「座れよ」

「え」

「立ってると話しづらい」

ルーサーは部屋の隅の古い椅子を指さした。マックはぎこちなく、腰を下ろした。ルーサーは向かい

のスツールに座った。

「俺も悪かった」

「違うお前は」

「聞け」ルーサーは静かに遮った。「あのとき、お前がああ言ったのは俺がお前を追い詰めたから

だ。分かってた。それなのに俺は扉を閉めた」

「それは」

「何年も考えた。お前があの契約書にサインしたのは俺がサインしろと言ったからだ。あの夜の屋上

で」

「

……覚えてたのか」

「忘れるわけ、ないだろう」ルーサーは笑った。「だからお前を責める資格は本当はなかった。でも

責めたかったんだ。俺は弱かった」

「お前が弱い?」

「ああ。自分の夢をお前の夢の陰に隠してた。そのほうが楽だったからな」

マックは言葉を失った。

ルーサーは続けた。

「でもお前が去ってから気づいた。俺にもちゃんと自分の音があったんだ。この小さなスタジオで若

い連中のビートを作ってる。あの頃お前に言われてた通りだった。俺の音はお前の声の下にあるだけ

じゃ、なかった」

「ああ」

「だから今少しだけ、満足してる」

マックは深く息を吐いた。

肩の荷が少しだけ、軽くなった気がした。

それから数週間二人は毎日のように会った。

スタジオでレコードを聴き昔話をした。祖母のこと。ミス・ロレッタのこと。ミセス・ブッカーのピ

アノのこと。ミスター・ブッカーのあの夜勤の話。

ルーサーの母は数年前に亡くなっていた。父もその少し前に。マックは葬儀に顔を出せなかったこと

をひどく悔やんだ。

「仕方ないさ。あの頃は会ってなかった」

「それでも」

「いいんだ。お前はこうして来てくれた」

二人は笑い合った。

ある夜ルーサーが言った。

「ひとつ、頼みがある」

「何だ」

「あの空き地でもう一度、やらないか」

「空き地」

「駐車場になってるだろ。でも来月地元の連中があそこで小さなイベントをやるんだ。昔みたいに延

長コードを引っ張って」

マックは少し黙った。

「

……医者に止められてる」

「え」

ルーサーが眉をひそめた。

「心臓が悪いんだ」

「いつから」

「半年前。誰にも言ってない」

ルーサーは何も言わなかった。ただ長い間マックの顔を見つめていた。

「やめておくか」

マックは首を振った。

「いや。やりたい」

「でも」

「一曲だけだ。一曲だけ。あの場所で」

ルーサーはしばらく、考えた。それから静かにうなずいた。

「分かった。ただし無理はしない。約束だ」

「約束」

二人は拳を軽く合わせた。三十年近く前のあの夜道と同じ仕草だった。

十一月のある土曜日の夜。

ブロンクスの空き地は駐車場から一晩だけ、元の姿に戻った。

車はすべてどかされた。街灯から延長コードが引かれた。裸電球が一つ風に揺れていた。二台のス

ピーカーが地面に置かれた。

集まったのは二百人ほどだった。老いたかつての若者たち。その子供たち。近所の住民。ベニーは息

子を肩に乗せていた。ミス・ロレッタは車椅子で最前列に陣取っていた。ウィリーは少し離れて腕を

組んで立っていた。

ヴェラもいた。トレンチコートの襟を立てて後ろの壁際で静かに見守っていた。

マックはステージの袖で深呼吸をしていた。

胸の奥がずきんと痛んだ。けれどそれを押し込めた。

「大丈夫か」

ルーサーが小声で聞いた。

「ああ」

「嘘だろ」

「少しだけな」

「無理なら、やめろ」

「やめない」

マックは笑った。

「約束の残り半分だ」

ルーサーは小さくうなずいた。

二台のターンテーブルの前に彼は立った。あの頃と同じ几帳面な手つきで盤を選び、針を慎重に下ろ

す。

最初の一音が響いた。

あの割れた太鼓の音。地面の底から押し上げてくる、低い低い鼓動。

観客がどよめいた。

マックはマイクを握った。

三十年近く前のあの夜のマイクの重みを思い出した。掌の汗。百人の視線。そして押された足。

「みんな」

声が静かに空き地に響いた。

「今夜は短くやる。一曲だけだ」

観客が静まった。

「その前に少し話をさせてくれ」

マックは観客を見渡した。

「俺はここで始まった。一九七三年の八月。十五歳だった。友達に押されてマイクを持った」

ベニーが笑った。

「そのとき、百人の前で何をしゃべったか実はほとんど、覚えてない。ただこの場所で俺は初めて居

場所を見つけた」

息を吸った。胸が軋んだ。

「その後、いろんなことがあった。世界を回った。金も手に入れた。でもその間にいろんなものを落

としてきた。大切な人を傷つけた。大切な人に見せられなかった」

マックはミス・ロレッタを見た。老婆は目に涙を溜めてうなずいていた。

「そして今夜俺はここに戻ってきた」

ルーサーがターンテーブルの向こうから静かにマックを見ていた。

「ビートをくれ」

ルーサーが盤の上で指を動かした。

ブレイクが延びた。二台の機械が同じ音を交互に繋ぎ終わらせない。

マックは目を閉じた。

そして言葉が口から溢れ出した。

十五の夏に 押された背中

電球ひとつ 揺れた あの夜

俺の名前は マック アイリッシュ

悪魔と呼ばれて 拾った 名前だ

焦げたジャガイモ 婆ちゃんの小言

ブリキの箱に 眠る 切り抜き

友と交わした 二台の 約束

半分 果たして 半分 遅れた

観客の誰かが泣いていた。

世界を回った 金も手にした

それでも 足りなかった 一つのもの

隣で回る 黒い眼鏡の 男の音

あれがなけりゃ 俺は ただの声

街よ ありがとう ビートよ ありがとう

作った お前ら 全員に ありがとう

俺は 借りを 返せたかどうか 分からない

でも 今夜は ここで 息を している

最後の一行を言い終えた瞬間。

マックの胸の奥に激しい痛みが走った。

膝が折れた。

マイクが手から滑り落ちた。

ガタンと音がした。

観客が息を呑んだ。

「マック!」

ルーサーがターンテーブルを飛び越えて駆け寄った。

マックは地面に仰向けに倒れていた。夜空が見えた。ブロンクスの星のない、灰色の空。その真ん中

に電球がひとつ揺れていた。

「マック! マック!」

ルーサーの顔が視界に入ってきた。眼鏡がずれて涙で濡れていた。

「医者を! 誰か救急車を!」

ベニーが叫んでいた。ウィリーが走っていた。

マックはルーサーの手を掴んだ。

「

……ルーサー」

「喋るな」

「聞け」

「後でいい」

「いや今」

マックはかすかに笑った。

「ビート、止まってないか」

「え」

「止めるなよ」

ルーサーは目を見開いた。

「

……ああ」

「約束だろ」

「ああ約束だ」

ルーサーは涙を拭った。そして片手をターンテーブルに伸ばした。もう片方の手でマックの手を握っ

たまま。

針が再び盤に落ちた。

あの太鼓が。割れた低い地面から押し上げてくる、あの音が空き地に再び鳴り響いた。

マックはその音を聴いていた。

視界が少しずつ、狭くなっていった。電球の光が滲んだ。

遠くで誰かが声をかけている。祖母の声のようだった。台所の湯気の向こうで背を向けたまま、言っ

ている。

『足元を見るんだよ』

見てるよ、婆ちゃん。

足元にはブロンクスの地面がある。

そこからビートが立ち上がっている。

悪くない

誰かがそう言った気がした。

そして静かにすべての音が遠のいていった。

マック・アイリッシュは一九九六年十一月、ブロンクスの空き地で三十八年の生涯を閉じた。

その死は世界中で報じられた。

評論家たちは彼の功績と矛盾を論じた。彼がヒップホップを世界に広めた功績。彼の肌の色がこの文

化にもたらした、複雑な問いかけ。それらはその後も長く議論され続けた。

けれどあの夜空き地にいた人々は別のことを覚えていた。

一人の男がマイクを握ったまま、倒れた。

もう一人の男が彼の手を離さないまま、ビートを止めなかった。

そして二百人の観客が誰一人としてその場を立ち去らなかった。

数年後。

ブロンクスのあの空き地の跡に小さな記念碑が建てられた。

石の板に短い言葉だけが刻まれていた。

『ここで一つの音が始まった。』

その傍らに誰かが毎年一輪の花を手向ける。そして台座の足元には小さな古いブリキの箱が埋められ

ている。

その蓋には鉛筆でこう書かれていた。

『婆ちゃんへ。スープは世界で一番だった。 マック』

毎年八月になると空き地には延長コードが引かれる。

裸電球がひとつ風に揺れる。白髪の混じった一人のDJが二台のターンテーブルの前に立つ。その隣に

いつも空いたマイクが置かれている。

誰もそのマイクを握らない。


第十一章 少年

その夜俺はただ近道をしていただけだった。

ブロンクスに引っ越して来てから3か月が経った。十五歳の夏。塾の帰りで腹が減っていて早く家に帰りたかった。駐車場の脇の路地を抜けるつもりだった。

そのとき、音が聞こえた。

最初に腹に来た。低くて割れた太鼓の音。地面の底から押し上げてくるような音だった。足が勝手に止まった。

路地の先で裸電球がひとつ揺れていた。

二百人くらいが集まっていた。年寄りも子供もいた。その真ん中に白髪の男が二台の機械の前に立ってレコードを指先で押さえていた。曲のいちばん熱いところだけが何度も何度も繰り返された。終わらない。終わらせない。

どうしてか分からない。俺は人の間をすり抜けて前へ前へと進んでいた。

機械の横にマイクスタンドが一本立っていた。誰も触っていない。それなのにそこだけ、空気が違っていた。まるで誰かが帰ってくるのを待っているみたいに。

「気になるか」

隣で声がした。

車椅子のおばあさんだった。膝に小さな花をのせている。皺だらけの顔で俺をじっと見ていた。

「……あれは誰のマイクですか」

「さあね」おばあさんは笑った。「誰のでもない。昔は誰かのだったけどね」

「誰も使わないんですか」

「使ってもいいのよ。ただ誰も最初の一歩が出ないだけ」

背中をとんと押された。

振り向くとさっき花を持っていた、おばあさんの手がまだ俺の背中に触れていた。ずっと昔からそうやってきたかのような、慣れた手つきだった。

足が前に出た。

白髪の男が顔を上げた。眼鏡の奥の目が俺を見た。驚いたような、懐かしいものを見たような、不思議な目だった。

男は何も言わなかった。ただほんの少しだけ、笑ってマイクをスタンドから外して俺に差し出した。

手を伸ばした。

マイクは思ったより重かった。掌の汗で少し滑った。

百人の二百人の視線が肌に刺さった。頭の中は真っ白だった。何も用意していなかった。


「名前は」


白髪の男が低い声で聞いた。

喉がからからだった。本名を言いかけてやめた。そんなものはこの場所に似合わない気がした。けれど用意した名前など、あるはずもなかった。

頭の中が真っ白になった。その空白に昨日の夜、テレビで聞いた名前がぽんと浮かんだ。ソファに寝転がって何気なく眺めていた、お笑い番組。司会者が紹介した、コメディアンの名前。

俺はマイクを握りしめて答えた


エミネム。

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