婚約者に「お前はノイズだ」と言われて捨てられたので、別の人生を選びました
「すまないが、別れてほしい」
もうすぐ春を迎える穏やかな昼下がり。
王都でも評判のレストランで、食後の茶が運ばれてきた、まさにその時だった。
セドリックは、何の前触れもなくそう告げた。
——場違いな言葉だった。
つい先ほどまで、私は彼の輝かしい前途を祝っていたはずなのだ。
隣国である帝国の最難関、高等調停院の研修生に選ばれたと聞き、自分のことのように誇らしく思っていた。
だからこそ、言葉の意味が脳に届かない。
セドリックは、いつものように落ち着いた顔でこちらを見ていた。
冗談を言う時の空気ではない。
思わず、間の抜けた声が漏れる。
「なんで?」
問い返すと、彼は一拍だけ間を置いて淡々と言った。
「勉強に集中したい」
「帝国に行けば、今まで以上に余裕はなくなる。遠距離を維持する気はない」
「……それだけ?」
「それだけだ」
迷いなく言い切る。
少しだけ、胸の奥がざらついた。
「ついていってもいいよ」
「時期はずれても、私も向こうで学べるし——」
「やめた方がいい」
かぶせるように、セドリックは言った。
「そういう理由で進路を決めるべきじゃない」
「それに」
ほんのわずかに、言葉を選ぶような間。
「正直に言えば——君がいると集中できない」
「集中、できない……?」
「調停員は言論で闘う仕事だ。ただでさえ帝国語ネイティブでないハンデがある。これからは一分一秒を惜しんで邁進しなければならない。私にとって、王国のノイズを私生活に持ち込むのは致命傷になる」
迷いのない、静かな声だった。
王国のノイズ。彼は、私との時間をそう定義したのだ。
唖然としたまま、私は彼の端正な横顔を見つめる。
……ああ、そうだった。この人は、こういう人だ。
柔らかい物腰に隠されているが、その芯には、目的のためなら何を切り捨てても痛みを感じない「冷徹なエリート」が棲んでいる。
「……あなたって、本当に、そういうやつよね」
小さく呟いた私の言葉に、彼はわずかに眉を動かした。
その一瞬の反応さえ、今の私には酷く遠いものに感じられた。
*
私——リディアとセドリックは、王立学院の同級生だった。
周辺諸国の近代化を受け、王国がようやく身分や性別に関わらず門戸を開いた『平民向け特別コース』。私たちはその一期生だった。
数いる生徒の中でも、セドリックはひときわ目を引く存在だった。
背が高く、少年のようなあどけなさを残す甘い顔立ち。
いつも穏やかに微笑み、誰に対しても気さくな彼は、さながら「手の届くアイドル」のように崇められていた。
けれど、私は知っていた。
彼のその柔らかい微笑みが、誰にも深く踏み込ませないための精巧な壁であることを。
そして、彼が誰よりも傲慢に「頂点」だけを見据えていることを。
なぜなら——私もまた、同じ種類の傲慢さを抱えてここに来たからだ。
私は、王都から遠く離れた海辺の街で育った。
そこは「女は家を守り、若者は土地に残る」という停滞した価値観が支配する場所。
同じ年頃の子どもたちが浜辺で無邪気に遊んでいるのを横目に、私はいつも心のどこかで境界線を引いていた。
(私は、あそこには行かない)
(ここで終わる人間ではない)
実家の宿に泊まる帝国人から聞いた、能力さえあれば女でも国を動かせるという未知の世界。
知らない単語をひとつ覚えるたびに、私の世界は広がり、同時に故郷を出て行きたいという心は育っていった。
「やってみなさい」
父が差し出してくれた受験費用は、私の「傲慢」への投資だった。
私は、ただの「私」がどこまで通用するかを試したかった。
お菓子のように着飾って愛嬌を振りまく女の子たちとは違う。私は彼女たちが望むような「小さな幸せ」を冷笑し、その手で海を越えるための切符を掴み取ろうとしたのだ。
だからこそ、学院では誰とも群れず、図書館の片隅で紙の束と格闘した。
そんな私を見つけたのが、同じく図書館の主だったセドリックだった。
「君のペンだこ、すごいね。いい努力の跡だ」
そう言って、彼は初めて「壁」のない笑みを私に向けた。
多くの女の子が彼の顔や優しさに群がる中、彼は私の「可愛げのなさ」……その裏にある剥き出しの野心を見抜き、同類として認めたのだ。
彼と過ごした四年間は、今振り返れば、まるで淡い夢の中にいたような心地がする。
孤独なエリート同士、互いの野望をガソリンにして、私たちは高め合ってきたはずだった。
けれど。
いつの間にか、私は彼にとっての「同類」ではなく、ただの「足枷」に成り下がっていたらしい。
あるいは、私の方がいつの間にか、彼が切り捨てたはずの「人間らしい営み」……愛し愛されるというあたたかな未来を、彼に期待してしまっていたのだろうか。
海を越えたいと願ったあの頃の傲慢な私は、どこへ行ったのか。
冷え切った紅茶を見つめながら、私は自分の変節を突きつけられていた。
*
それからどうやって店を出て、どうやってセドリックと別れて、自分の部屋まで帰り着いたのか。正直、記憶が判然としない。
ただ、なけなしのプライドを振り絞って「今日はお祝いだから」と、二人分の会計を強引に済ませてきたことだけは覚えている。最後に彼の財布を開かせることさえ、今の私には耐え難い屈辱だった。
部屋に入ると、鏡の前に出しっぱなしになったメイク道具が目に入った。
今朝、彼とのデートを心待ちにして、少しでも綺麗に見えるようにと時間をかけた形跡。それらが無機質に並んでいるのが無性に腹立たしく、乱暴に引き出しへ押し込む。
ふと鏡を見れば、精一杯着飾った自分が立っていた。この日のために選んだシンプルなワンピース。彼は一瞥して「似合っているね」と言った。その言葉の薄っぺらさを思い出し、ワンピースを脱ぎ捨ててベッドへ投げつける。
髪飾りも、ネックレスも、今日という日を形作った「武装」をすべて力任せに引き剥がし、私はシャワー室へ駆け込んだ。
洗い立てのバスローブに身を包み、ようやく椅子に腰を下ろす。
何もしたくない。けれど、何もしなければ心のざわめきに飲み込まれてしまいそうで、棚に置いてあったワインに手を伸ばした。
……ああ、畜生。
このワインだって、あいつがワインに凝り始めて、二人でみつけたお気に入りのワインショップの銘柄だった。
ワインに罪はない。間違いなくおいしい。けれど、喉を通るたびに共有した時間が逆流してくる。
「私の学生生活は……一体、なんだったんだろう」
あんなに野心を持って王都へ出てきて、セドリックと共に切磋琢磨し、私たちは誰よりもキラキラしていたはずだった。昨日までは、間違いなくそう信じていた。
けれど、スッピンでバスローブ一枚になった今、それらはあまりに不確かな幻にしか思えない。
——ノイズ、か。
「俺に付いてくるという目的で、進路を決めるな」と言った彼の顔を思い出す。
なによ。何がダメなのよ。好きな人のそばにいたいと願うことが、そんなに浅はかで罪深いことなの?
彼と同じように、超難関の研修生に選ばれなければ、隣にいる資格さえないというの?
「他の理由で留学している人たちを、なんだと思っているのよ……!」
声に出すと、止めていたものが一気に溢れ出しそうになる。
調停員は言論で闘う仕事。王国のノイズ。
彼は、私が積み上げてきたこの四年間までもを「ただのノイズ」だと切り捨てたのだ。
私が自分の限界を認め始めていたこと。彼の背中に追いつけなくて、密かに息切れしていたこと。……そんな私の「弱さ」を、彼は見抜いていたのだ。
弱者は、彼の隣に居ることを許されない。
たとえ、その弱さが「彼への愛」から生まれたものだったとしても。
付き合い始めたのは、学院に入学して半年が過ぎた頃だった。
その頃のセドリックは、どこへ行っても女の子たちに追い回されていた。表面上はにこやかに対応していたけれど、その内実はかなり疲弊していたらしい。
私はといえば、時間さえあれば図書館にこもっていた。
貴族さえ通う王立学院の図書館。その恵まれた環境で、手当たり次第に新しい知識を脳に詰め込む作業に夢中だったのだ。だから、セドリックが図書館の最果ての席にいるのに気づいた時は、心底驚いた。
彼は、言い寄る女子たちを「勉強したいから、またね」と愁いを帯びた顔であしらい、ここへ逃げ込んできていたのだった。
数ヶ月も経つと、セドリックは私を「無害な、上を目指す同志」と認識したようだった。
やがて、彼はちょくちょく私の席へやってきては、何の勉強をしているのかと尋ね、その日の講義についての議論を求めるようになった。
「……みんな、何をしにここへ来たんだろうな」
ある日、彼は溜息混じりに本音を漏らした。
「せっかく我々のような平民が活躍できるコースができたというのに。男漁りかよ。もっと向上心を持てばいいのに」
「俺は、自分で目指せる限り一番の上を目指したいんだ」
優男の風貌に似合わぬ、ギラギラとした熱。
地元の停滞した空気に感じていた疎外感も、反骨心も、故郷を捨てることへの微かな罪悪感さえも焼き切ってくれるような、凄まじい情熱。
私はそのエネルギーに、ただただ惹かれ、憧れた。
そこからは、文字通り昼も夜も一緒にいた。
図書館が閉まれば彼の部屋へ場所を移し、休日さえも議論と勉学に捧げた。若かった私たちがベッドを共にするようになるまで、時間はかからなかった。
けれど、公私のすべてを彼と共有し、同じ夢を見ているつもりで——私は、気づいてしまったのだ。
「上の上」を目指し続けることと、人を愛し、温かな家庭を築くという営みは、決して両立し得ないということに。
何より、彼の隣にいることで、残酷なまでの「才能の差」を突きつけられたのが大きかった。
同じ時間を費やし、同じ熱量で机に向かっても、彼が得る成果と私のそれは、全く色が異なっていた。悔しくも、私は自分の限界をうすうす悟り始めていた。
だから、私は立ち止まってしまった。
「上」を目指すことよりも、彼と食事をし、家事を分担し、彼の世話をすることに幸せを感じる自分を、許してしまったのだ。
机の上に、空になったワイングラスを置く。
視線の先、壁に貼られた一枚のパンフレットに目をやった。帝国の高等調停院、研修生募集要項。
皮肉なことに、この募集を最初に見つけたのは私だった。
世界最高峰の場所へ行きたいと口にするようになった彼のために、「教えなきゃ」と真っ先に思ったのだ。
——その時、私はもう、自分自身がそこを目指そうとは思わなくなっていた。
私は、彼の隣で歩む「同志」であることを、自ら降りたのだ。
その代わりとして、彼とのささやかな未来……「女性としての幸せ」を、夢見てしまった。
彼は一歩も立ち止まらずに、私の差し出した切符を掴んで、そのまま光の中へ消えていった。
私が、彼のために用意したその切符で。
*
懐かしい人から手紙が届いた。
故郷の幼馴染で、隣の家に住んでいた3つ年上の男の子——マイケルからだった。
仕事の用事で王都へ来ているという彼と、評判の居酒屋で数年ぶりに再会することになった。
「久しぶり、マイケル。意外ね、王都に出てくるなんて。てっきり、おじさんの食堂を継ぐ準備で忙しいんだと思ってた」
「リディアこそ。どれだけ王都の絵に描いたような令嬢になってるかと思ったけど……。よかった。俺の知ってる、格好いいリディアのままだ」
「そうかな。……そうでもないのよ、今は」
私は少しだけ困ったように笑って、運ばれてきた酒に口をつけた。
海辺の街にいた頃には想像もしなかった、同郷の男友達と酒を酌み交わす夜。
昔話に花を咲かせ、やがて話題が近況に及ぶと——私の自制心は、酔いと共に決壊した。
「……ねえ、ひどくない!? 私がどれだけあいつに尽くしたと思っているのよ、この私が!」
気づけば、私はジョッキをテーブルに叩きつけながら、溜まりに溜まった毒を吐き出していた。
「帝国に行きたいって言い出した時なんて、あいつ、帝国語なんて全然ダメだったんだから! 私はほら、昔から実家の宿で仕込まれてたじゃない? 私があいつに発音から言い回しまで、一から叩き込んだのよ。家庭教師だって、私の伝手で紹介してあげたのに!」
「何が『王国のノイズ』よ! 偉そうに! ちょっとペラペラになったからって調子に乗っちゃって! 私が、どれだけ背伸びしてあいつの隣に立とうとしてたか、一ミリも気づいてないのよ!」
「女としての幸せを望んだ途端に捨てるなら、そっちこそ最初から『男』を見せないでよ。やることやっといて、最低じゃない!」
「……なによ、その顔。実家を飛び出して大口叩いた女が無様に振られた姿を見て、笑ってるんでしょ」
泣き上戸、挙句の果てにはうざ絡み。最低の酔っ払いだ。
けれど、大泣きしながら「私だって一生懸命だったのよ」と漏らした時、マイケルは困ったように、でも穏やかに笑った。
「……本当に、リディアは変わらないな」
「変わったわよ。あんなに『女』であることを否定してたくせに、色恋沙汰でこんなになって」
「いや、変わってない。何に対しても全力投球で、一生懸命だ」
マイケルはジョッキを置き、真っ直ぐに私を見た。
「リディアが街を出て行ってから、俺たちの価値観も少しずつ変わったんだ。閉ざされた世界でぬるま湯に浸かっていた俺たちにとって、あんなに小さかったお前が自分の力で世界を切り拓いていく姿は、本当に衝撃だった。お前は、行けるところまで行ったんだよ」
「でも、私は結局……」
「限界を感じたって悔しがってるけどさ。そこまで辿り着くために、どれだけ努力したんだよ。それは誰にでもできることじゃない。めちゃくちゃ格好いいよ」
マイケルの言葉が、酒で火照った胸に染み込んでいく。
「お前は結婚そのものが嫌だったんじゃないんだろ。周りから勝手に『女だから勉強するな』『結婚だけが仕事だ』って決めつけられるのが嫌だっただけだ。結婚したいと思うほど好きな男を見つけられたのは、いいことじゃないか」
「……マイケル」
「いろんな努力をしたからこそ、自分の手で『女としての幸せ』ってやつを掴み取ろうとしたんだろ。お前は何も間違ってない」
彼は少しだけ視線を落とし、それから確信に満ちた声で付け加えた。
「その男はまだ、家庭を持つ幸せを理解できないほど、未熟な場所にいるんだ。ただ、タイミングが悪かった。……そいつはきっと、十年後には後悔してるぞ。お前みたいな、最高に格好いい女を手放したことをさ」
「うん……うん。ありがとう、マイケル。……それと、ごめんね」
震える声で、私は白状した。
「私……正直に言うと、あの街のみんなのこと、どこか馬鹿にしてたの。私だけはあんな風にはならない、私は違うって。自分の野望に固執して、周りのことなんて何も見えてなかったんだわ」
そんな私の独白を、マイケルは否定もせず、ただ静かに聞いてくれた。
「リディア、話は変わるけどさ。親父の食堂、俺の妹が結婚して継ぐことになったんだ。お前が街を出て行ってから、俺も『自分にできること』を考え直してさ。料理を作るより、鍋や道具をいじっている方が好きだって気づいたんだ」
彼は自分の逞しい手を見つめて笑った。
「親父が『こんな道具があれば』って言うのを形にするのが楽しくて。隣町の工房に弟子入りして修行したら、今度、王都の店を任されることになったんだよ。……それだけじゃない。漁師のおじさんの所のリリーだってお洒落好きを突き詰めて、今じゃあの雑誌の専属コーディネーターだぜ。お前の姿に刺激されて、みんな必死に『自己実現』なんてブームに乗り始めたんだ」
「お前ほどじゃないけどさ。みんな、お前に憧れて頑張ってるんだよ」
かつて私が蔑んでいた、停滞したはずの故郷。
けれど、そこには確かに私の残した熱が伝播し、それぞれの場所で芽を吹いていた。私は一人きりで戦っていたつもりだったけれど、実は誰かの希望になっていたのだ。
「今は、悔しくて悲しくて、どうしようもないだろうけど。……もし、気持ちが落ち着いて、その気になったら、俺のところに来いよ」
不意に、マイケルが真剣な眼差しを私に向けた。
「お前はいい女だよ。あの街にいた時から、ずっと眩しかった。……なあ、考えてもみろよ。お前、仮に結婚したとしても、結局仕事は辞めないだろ? どこへ行ったって、また全力で働いちゃうだろ?」
「……それは」
「お前のことを理解してない男に、お前は扱いきれない。ましてや、前の男みたいなタイプは絶対にダメだ。お前が望む『あたたかな子育て』なんて、そいつには一生できないよ」
彼は、ぐい、と距離を詰めた。
「その点、俺はお前の性格を熟知してる。自分の信念を貫いて頑張るお前に惚れてるんだ。王都の店の仕事がどうなるかはこれからだけど、お前に家事を押し付けるような真似もしない。俺、面倒見いいだろ?」
鼻の奥がツンとして、涙がこぼれた。けれど、今度は独りで泣いていた時のような冷たい涙じゃなかった。
「……うわぁ、そのお誘い、すごい魅力的だね」
私は泣き笑いの顔で、彼に応えた。
「うん。まだ、気持ちを整理するには時間がかかるけど。とりあえず、またこうして飲んで、話を聞いてくれたら嬉しいな」
*
私は自力で職を探し、王都の弁護士事務所の門を叩いた。
平民の、しかも女性の弁護士などまだ数少ない時代。現場は、学院で学んだ華やかな理論とは程遠い、泥臭い人間模様の積み重ねだった。
けれど、それが良かった。
一つひとつの案件を実務としてこなし、成果を積み上げていくことで、私は少しずつ、剥き出しになっていた自分自身を取り戻していった。
ふとした瞬間に、今もセドリックのことを思い出す。けれど、その思いはもう鋭い刃ではない。
「彼は今も、あの眩しいエネルギーの塊のまま、帝国の頂点で戦っているのだろうか」
そう遠くから願えるくらいには、私の心は凪いでいた。
*
それから五年。私はマイケルと結婚した。
結婚を機に仕事を辞めようかと相談したとき、彼はいつものように穏やかに笑って言ってくれた。
「辞めたいと思っていないなら、決心がつくまで続ければいい。この先子供が生まれたとして、もし両立が難しそうならその時にまた考えよう。俺の店だって大きくなったから、お前が手伝ってくれるなら頼みたい仕事は山ほどあるしな。その時の環境で、二人で納得できる形にしていこうぜ」
社会に出て、多くの人に出会って、大人になった。
マイケルの愛に包まれる中で、私の中のトゲトゲとした熱いエネルギーは、少しずつ、暖かくてしなやかなものへと変化していった。
セドリックのように、冷徹なエリート社会で一生戦い続ける強さは、私にはなかった。
けれど、それを「負け」だとは思わない。私は私の人生における「最適解」を見つけたのだ。
今の自分に、私は心から満足している。
その日は、午前中で仕事を切り上げ、マイケルと待ち合わせをしていた。
「今日で仕事はひとまず休みだろ。お疲れ様、リディア」
待ち合わせ場所にいたマイケルは、私の姿を見つけるなり駆け寄り、すぐに荷物を受け取ってくれた。そして、もうすっかり大きくなった私のお腹を、心配そうに、けれど愛おしそうにさする。
幸いにも子宝に恵まれ、環境も価値観も目まぐるしく変わった。
かつて軽視していた「母になる」という営みが、これほどまでに心身を揺さぶり、尊いものであるか。身をもって体験して初めて、私は当時の自分の傲慢さを、今度こそ本当の意味で笑い飛ばすことができた。
「……それにしても、想像以上にきつそうね。仕事しながら子育てって」
「はは、お前が弱音を吐くなんて珍しいな。でも安心しろ、俺も全力でやるから」
まだ見ぬ我が子が、愛おしくて堪らない。
マイケルの腕に支えられながら歩き出す。
私たちの歩幅は、かつて私がセドリックの背中を追って無理に広げていたそれとは違う。
ゆっくりと、けれど確かな足取りで、私たちは未来へと踏み出した。
***
帝国高等調停院。
その長い歴史の中でも、他国出身者、しかも最年少での『帝国金獅子勲章』の授与は、異例中の異例だった。
かつて王国の特別コースで「太陽」と呼ばれたセドリックは、今や帝国の司法制度を揺るがす、真の「北極星」へと昇り詰めていた。
帝国内はもとより、母国である王国からも講演会や会合の依頼がひっきりなしに届く。
仕事面では、これ以上ないほど充実していた。富も、名声も、権威も。あの日、彼が「ノイズ」を切り捨ててまで欲したすべてが、今、その掌中にある。
けれど。
授賞式の喧騒を離れ、独りバルコニーで冷えた夜気に触れた時、彼はふと気づいてしまった。
「……もう、上がないのか」
がむしゃらに、誰よりも速く、高く。
それだけを考えてここまで来た。けれど、見上げればそこにはもう、自分が超えるべき対象も、目指すべき指標も存在しなかった。
帝国には自分よりキャリアの長い上席はいる。だが、彼らはもはや「競う相手」ではなく、彼に教えを乞う「聞き手」に過ぎない。
初めて、セドリックは立ち止まった。
帝国に来てから一度も、息をつきたいと思ったことなどなかった。
けれど今、猛烈に、深い呼吸をしたくなった。
脳裏に蘇るのは、かつて図書館の片隅で、共にペンだこを作った少女の横顔。
一番自分をさらけ出すことができた場所。
誰にも見せない冷徹さも、傲慢な野心も、彼女の前でだけは隠さずに済んだ。
——彼女といる時だけは、自分を「完璧な偶像」に仕立て上げずとも、呼吸ができたのだ。
本当は、分かっていたはずだった。
あの日、彼女にどれほど酷いことをしたか。
自分の夢を追うことで精一杯で、彼女が自分の夢を諦めてまで捧げてくれた献身を、自分は「ノイズ」と切り捨てて踏みにじった。彼女の未来に寄り添うことなど、一秒たりとも考えなかった。
今さら、こんなことを考えている時点で。
最高の栄誉を手にするまで、彼女を思い出さなかった時点で。
自分は、救いようのないほど自分勝手で、傲慢な人間だ。
視線を会場に戻せば、美しく着飾った女性たちがこちらを窺っている。
寄ってくるのは、彼の「地位」と「財産」に群がる者たちばかり。
かつて王立学院で女生徒に追いかけ回され、疲弊していたあの日々と同じ。いや、当時よりもずっと、周囲の笑顔は精巧で、そして空虚だった。
おそらく、この先、彼女以上に自分を理解し、安らぎをくれる女性は現れないだろう。
そして自分は、この最高の栄誉を抱き締めたまま、永遠に安らぎのない、空虚な日々を過ごしていくことになる。
——それが、誰よりも高く飛ぶことを選んだ男に課せられた、罰だ。
「セドリック先生、間もなく登壇のお時間です」
スタッフの呼び声に、彼は思考を遮断した。
鏡を見る。そこには、若くして成功を手にした、自信に満ちた完璧なエリートの顔がある。
セドリックは口角を上げ、いつものように穏やかで、誰にも深淵を悟らせない「太陽」の微笑みを浮かべた。
そして、孤独な光り輝く舞台へと、一歩を踏み出した。
(完)




