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花と霧吹き

 深夜、静まり返った事務所。

 作業灯の下で、ゼインはサマエルのうなじにある接続端子に精密ドライバーを差し込んでいた。


「……動くな。数ミリでもズレれば、お前の脳がショートするぞ」


「……すみません、ゼインさん。……手の震えがどうしても止まらなくて」


 巨躯を縮こまらせるサマエルに、ゼインは不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 だが、その目はいつになく鋭く、サマエルの神経系を走る「暴力的なノイズ」を解析していた。


「ゼインさん……。カイルさんは笑って許してくれました。ですが、もしあのドアの向こうに、子供がいたら。誰かの大切な宝物があったら。そう思うと、もう一歩も動けないんです」


 サマエルの声は、絶望の深淵から響く地鳴りのようだった。


「私はかつて、内戦が泥沼化していた惑星で、地下シェルターの制圧任務に就きました」


 当時のサマエルは、感情を抑制され、軍のプログラムに従って動く「自律型戦闘兵器」だった。


『脅威を検知。排除を開始する』


 脳内に流れる無機質な合成音声に従い、サマエルはシェルターの重厚な防壁を紙細工のように引き裂き、突入した。

 暗闇の中、熱源を感知。プログラムはそれを「待ち伏せている敵兵」と判定した。


 サマエルは一瞬の躊躇もなく、その熱源に向かって全力の拳を叩き込んだ。


 ――パリン。


 響いたのは、肉が潰れる音ではなく、硬質な硝子が砕け散る音だった。

 照明弾が焚かれ、視界が確保された時、サマエルの目の前にあったのは……。


 泥だらけの顔で震える、数人の子供たち。そして、彼らが大切に守っていた、壊れた強化ガラスのケースだった。

 その中には、灰色の地下空間で唯一の色彩を放つ、一輪の青い花が植えられていた。


「……あ……」


 子供たちは泣かなかった。

 ただ、砕け散った硝子の破片と、サマエルの巨大な拳に押し潰され、無残に散った花の残骸を、絶望の目で見つめていた。

 その花は、太陽の見えない地下で、子供たちが「いつか地上に出られる」と信じるための、たった一つの希望だったのだ。


 サマエルの計算機のような脳が、その時初めてフリーズした。

 自分がこの拳で粉砕したのは、敵ではない。「彼らが明日を生きる理由」そのものだった。

 その瞬間、脳内のプログラムが、計測不能な自己嫌悪によって焼き切れた。


 薄暗い事務所で、サマエルは震える自分の拳をじっと見つめていた。


「……この手は、触れるもの全てを絶望に変える。そんな私に、平和を語る資格なんてない」


 カイルは、入り口でその話を聞きながら、黙って煙草を揉み消した。

 サマエルの恐怖を「わかる」なんて口が裂けても言えない。

 それは、一歩間違えれば殺人鬼になる運命を背負わされた者にしかわからない孤独だ。


「……甘ったれるな、サマエル」


 静寂を破ったのは、ゼインの冷徹な声だった。


「お前の脳が『撫でろ』と命令しても、このクソッタレなチップが勝手に信号を『叩き潰せ』と増幅している。これはハードウェアの欠陥だ」


 ゼインは、サマエルの膝の上に、小さな金属の光沢を放つ物体を放り投げた。


「……俺が余興で作った試作品だ。お前の無駄にデカい指の圧力に合わせて、噴射量をナノ単位で制御できるようにしてある」


 それは、軍事用の精密部品のように重厚で、手に驚くほどよく馴染む「特製の霧吹き」だった。


「花を潰したのは、お前のせいじゃない。お前を作った設計者が無能だっただけだ。……俺がそのバグを上書きしてやった。だから、もうそれ以上、過去に囚われるな」


 ゼインは背を向け、去り際にぶっきらぼうに付け加えた。


「……もしまた何かを壊したなら、その時は俺を設計ミスで訴えるがいい」


「ありがとうございます、ゼインさん」


 サマエルは、霧吹きを、壊れ物を扱うように大切に抱きしめた。

 ゼインがくれたのは、ただの便利な道具ではない。「もしも」という地獄から、彼を引きずり戻すための、温かい「約束」だった。

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