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鋼と硝子

 ゼインのような「攻撃的な天才」がいれば、その対極に位置する「優しすぎる怪物」もいる。

 カイルの頭を悩ませる次なる問題児は、警護部門のサマエルだ。


 事務所の窓際。逆光の中に、身長2メートルを超える巨躯が縮こまっている。

 彼は、指先ほどの小さな植物に向かって、震える手で霧吹きを向けていた。

 ――シュッ。……シュッ。


「……よし。今の圧力は3ニュートン。プラスチックのトリガーを破壊せず、かつ水滴をミスト状に保てる限界値だ……」


 サマエルは、元軍事用強化人間だ。

 重力加速度を無視した反応速度と、素手で強化装甲を粉砕する握力。それは文字通り、戦うためにデザインされた究極の「兵器」だった。

 彼が植物に水をやるのは、ガーデニングが趣味だからではない。


 この安物の霧吹きは、少しでも力が強すぎれば即座に粉砕されてしまう。

 彼にとって毎朝の水やりは、自身の指先がまだ「何かを壊さずにいられるか」を確認し、狂いやすい指先の感覚を研ぎ澄ますための、恐ろしく繊細な「調整」なのだ。


 サマエルはかつて、自分の振るった暴力が救うべき人々まで傷つけた経験から、二度と誰にも拳を振るわないという誓いを立てていた。


「カイルさん、暴力は連鎖します。私はその鎖の一部になりたくはないんです」


 彼に護衛の依頼を出しても、暴漢に襲われたクライアントの前に立ちはだかり、無抵抗で殴られ続けるだけ。

 結果としてクライアントは守れるが、サマエル自身はボロボロになり、その巨体が血を流しながら無表情で耐える姿を見て、クライアントの方が恐怖でパニックに陥る。

 そんな本末転倒な事態が続いていた。


 ある日、悪名高い犯罪組織「スカル・ヴェノム」が、ギルドが管理する医療物資の貯蔵庫を襲撃するという情報が入り、カイルはサマエルを呼び出した。


「サマエル、貯蔵庫の守備を頼む。だが お前に人は殴らせない」


「……それなら受けられますが、どうやって止めるのですか?」


 カイルが彼に渡したのは武器ではなく、「高密度・多層構造の超電導シールド」と、倉庫で埃をかぶっていた「大型の拡声機」だった。


 襲撃当日。重武装の略奪者たちを前に、サマエルが一人で立ちはだかった。

 銃弾が降り注ぐが、彼は一歩も引かない。

 盾を構え、最小限の動きで弾道を逸らし、「ただの動かない壁」と化した。


「皆さん、止まってください。ここは病気で苦しむ人たちのための場所です。これ以上進むなら私は……」


 略奪者たちが痺れを切らし、高周波ブレードで切りかかった瞬間だった。

 サマエルは反射的に相手の腕を掴み――そして、まるで赤子をあやすように優しく抱きしめて勢いを殺し、そっと地面に転がした。


 骨を折ることも、傷つけることもない。

 毎朝、壊れやすい霧吹きで訓練した「壊さないための出力制御」が、極限状態でも完全に機能していた。


 背後からは、カイルが手配したゼイン特製の高周波ノイズ発生装置が、拡声器を通して爆音を鳴らし、敵の通信と三半規管を麻痺させる。


「サマエル! そのまま押し出せ! 傷つける必要はない。ただ『そこに居場所がない』と思い知らせてやれ!」


 サマエルは気づいた。相手を倒すことだけが技術ではない。

 圧倒的な力の差を見せつけ、相手にこの壁は越えられないと絶望……いや、「諦め」という名の「納得」を与えることも一種の救済なのだと。


 事件後、サマエルは傷ついた盾を愛おしそうに撫でていた。


「カイルさん。私、初めて自分の手が汚れていないと感じました」


 ――だが、その安堵は、ひどく脆いものだった。


 翌日の夜。サマエルは下層街の酒場でのトラブル仲裁に向かっていた。


(大丈夫だ。昨日と同じように、優しく、傷つけないように……)


 暴れる酔っ払いが、店主に向かって空き瓶を振り上げた。

 サマエルはそれを止めるため、ほんの少し、男を邪魔にならない場所へどけようとした。

 まずは男の退路を確保しようと、酒場の分厚い鉄扉に指先を触れる。


 だが、その瞬間。

 サマエルの脳内で、制御プログラムがわずかに「空転」した。


 バキッ、という嫌な音がして、ドアノブはひしゃげ、蝶番は壁ごと引きちぎられた。


「ひっ……! ば、化け物が出たぁっ!」


 酔っ払いは腰を抜かし、悲鳴を上げながら夜の街へ逃げ出していった。

 あとに残されたのは、根元からへし折られ、無残にひしゃげた重厚な鉄扉と、静まり返った酒場。


 サマエルは、自分の巨大な手と、足元の鉄屑を交互に見つめた。

 もし、掴んだのがドアではなく、あの男の腕だったら。

 もし、指先が数センチずれて、男の頭に触れていたら。

 今、この床を汚しているのは錆びた鉄屑ではなく、混じり気のない「死」そのものだったはずだ。


 血の気が引くような戦慄が、サマエルの巨体を内側から凍り付かせる。


「……やめてくれ。……来ないでくれ」


 酒場の隅で、サマエルは巨大な体を丸め、両手で顔を覆って震えていた。

 足元には、鉄製の重厚な扉が、まるで腐った果実のように握り潰されて転がっている。


「サマエル……大丈夫よ、怪我人はいないわ」


 同行していたミアが駆け寄るが、その声すら今の彼には届かない。


 サマエルにとって、この暴走は「うっかり」ではない。

 例えるなら、いつも通り安全運転をしていたはずなのに、気づけばベビーカーを轢き潰していたという、あの血の気が引くような戦慄。

 それが、寝ても覚めても、まばたきをするたびに自分を襲ってくるのだ。


(私は、また殺しかけた。私は、誰かの『明日』を粉砕するために存在している――)


 サマエルはその場に膝をつき、自分の巨大な手を見つめて激しく嘔吐した。

 昨日、あれほど細心の注意で略奪者たちから人を助けられたのは、ただの偶然だったのだ。


 自分という「欠陥品」は、気を抜けば、ただドアを開けようとするだけで誰かの日常を破壊する。

 もし、このドアの向こうにミアが立っていたら。もし、カイルがドアを開けようとしていたら。

 自分は今頃、仲間の人生を肉片に変えていたかもしれない。


「ミアさん……カイルさんに伝えてください。私は、今日限りでここを去ります。……いえ、この星の誰もいない荒野へ行きます。二度と、誰の隣にも立ってはいけないんだ」


 サマエルが巨大な拳を自身の頭に叩きつけようとした、その時だ。


「――うるさいぞ、デカブツ。深夜に呼び出しやがって。計算が狂うだろうが」


 ミアからの緊急通信を受け、カイルと共に酒場へ駆けつけてきたゼインが、不機嫌そうに足元に転がったドアの残骸を蹴った。


「ゼインさん……カイルさんも……申し訳ない。私は、やはりバケモノでした。どれほど心を入れ替えても、この手が、誰かを殺そうと勝手に動くんです」


「バカか。お前がバケモノなのは、今に始まったことじゃない」


 ゼインは冷酷に言い放つと、自身の携帯端末の画面をサマエルの目の前に突きつけた。


「昨日から、お前の生体チップに遠隔監視プログラムを仕込んでおいた。スカル・ヴェノムと戦っている時の、お前の神経伝達速度は通常の3倍。……だが、今さっきドアを開けようとした瞬間の受信ログを見ると、速度は通常の3割まで落ちている。……それが、バグの正体だ」


「……バグ?」


「お前の脳にある生体チップは、戦時中の『過剰な緊張』を前提に設計されている。だから、気が緩んだ瞬間に信号が不安定になり、フィードバックが暴走するんだ。……いいか。お前の『優しさ』が、ハードウェアにとっては致命的なエラーなんだよ」


 ゼインはサマエルの首筋にある端子に、自作の解析スキャナを荒っぽく叩き込んだ。


「立て。事務所へ戻るぞ。……俺が、その腐ったチップを書き換えてやる」

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