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墓標と履歴書

 ボレアスの下層スラム。酸性雨に削られた鉄屑が積み上がる「墓場」の片隅に、その店はあった。

 看板すらない違法修理店の奥で、ゼインは冷え切った計算機を叩いていた。


 (……もう、いいだろう)


 視界の端で、分解された大型エンジンが静かに横たわっている。かつては豪華客船の心臓だった代物も、今や煤にまみれた鉄の死体だ。

 ゼインはその死体に、自分自身を重ねていた。


 ゼインはかつて、辺境の小惑星にある「環境維持プラント」の主任技師の息子だった。

 そこは、わずかな計算ミスが居住者全員の死に直結する、遊びのない閉鎖空間だった。


 彼が12歳のある日、プラントの換気システムに致命的な不具合が生じた。

 父はシステムの不備を理論的に指摘し、即座の避難を主張した。

 しかし、当時の管理者たちは現場の勘と根性論を優先し、父を笑い飛ばした。


『気にするな。現場には遊びが必要なんだ。最後は気合で回せばプラントは応えてくれる』


 数字を無視した空気が支配する中、ゼインは父の端末を盗み見て、絶望的な計算結果に気づいてしまった。


「……親父、これ、計算が合わないよ。排熱効率が足りない。このままだと……」


 震える声で訴える息子に、父は穏やかに答えた。


「ああ、わかっている。父さんが何とかするから大丈夫だ」


 だが、もはや無能な管理者たちを説得する時間は残されていなかった。

 父の必死の延命措置も虚しく、数日後、父が計算した通りの時刻にプラントは悲鳴を上げた。


 救助が間に合わないと確信したとき、父は酸素が最後まで残る一筋の可能性に賭け、ゼインを換気システムのダクトへと押し込んだ。


「親父、行かないでくれ! 計算だと、あと3分で酸素が――」


「ゼイン……お前は正しく生きろ。数字を、論理を裏切るな。それだけが、この狂った世界で唯一の盾になる」


 父は泣き叫ぶ息子を押し込むと、轟音と警報が渦巻くプラントの深部へと戻っていった。救助隊に唯一の生存者の居場所を送信するために。

 それが最後だった。


 ゼインは助かったが、父を含む他の居住者は全員、計算通りの時間に窒息死した。

 父を殺したのは故障ではなく、論理を軽視した人間たちの「無知という名の罪」だった。


 それからのゼインは、世界を「猿の群れ」と定義した。

 独学で銀河最高峰の工学技術を身につけ、数々の大企業を渡り歩き、数えきれないほどのシステムを救ってきた。


 だが、そのたびに彼は「正しすぎる」という理由で、組織という免疫機能によって排除されてきた。

 上司の不正を暴き、同僚の怠慢を論理的に糾弾する彼は、組織にとって「劇薬」だったのだ。


『ゼイン君、君の言うことは正しい。だが、正論は人を動かさないんだよ』


 最後にクビを宣告した上司の、あの憐れむような目が脳裏に焼き付いている。


「猿どもめ……」


 吐き捨てた言葉は、虚空に消えた。

 どんなに正しい数式を導き出しても、それを実行する人間が「ノイズ」である限り、この世界は崩壊へ向かう。

 父を殺したあのプラントと同じように。


 (親父のところへ、行こう)


 ゼインの指先が、作業台に置かれた高圧電流のバイパス端子に伸びる。これを繋げば、コンマ数秒で心臓が止まる。

 計算は完璧だ。苦痛すら感じる暇はない。

 「正しい答え」を求めて彷徨い、ようやく辿り着いたのが「自分の消去」という皮肉だった。


 その時、閉め切ったシャッターが蹴破られた。


「おい、死に損ないの天才がいるって聞いたんだが、ここか?」


 暴力的なまでの熱気と共に踏み込んできたのは、コートの裾に泥をつけた一人の男――カイルだった。

 ゼインはバイパス端子を握ったまま、死神を睨むような目で男を見た。


「……帰れ。猿に教える数式は、もう持ち合わせていない」


 カイルはゼインの刺々しい視線を、まるで春の陽光のような図々しさで受け流すと、手にした数枚の紙を机に叩きつけた。

 それは、ゼインがこれまで解雇されてきた企業から、カイルが独自のルートでかき集めた「不採用通知」と「履歴書」の束だった。


「壮観だな。これまでの全職歴、クビの理由が全部『正論による組織秩序の破壊』だ。お前、世界中の馬鹿を論理で殴り倒してきたんだろ?」


「それがどうした。……俺を笑いに来たのか」


「逆だ。感動してるんだよ。お前の履歴書は、ただの記録じゃない。この狂った世界で、たった一人で『正しさ』を守り抜こうとした戦いの記録だ。……だが、お前の数式には一つだけ致命的な欠陥がある」


 ゼインは冷笑した。


「俺の計算にミスはない。欠陥があるのは、数字を理解できない人間の方だ」


「ああ、そうだな。だが、お前の計算式には『自分を助けるための変数』が入っていない。お前は自分を殺すための式ばかり立てて、自分を生かすための解を求めていないんだ。……それじゃ、せっかくの正論も死に体だぜ」


 カイルは、油にまみれた重たい金属パーツをゼインの前に置いた。


「これ、直せるか? 2日後に動かなきゃ、この街のガキ共の暖房が止まる。計算上は『修理不能』な代物だが……俺はこいつが動く方に、全財産と俺のギルドの未来を賭けてるんだ」


 ゼインは絶句した。

 カイルの瞳に宿る、理屈を超えた無謀な輝き。


 それは、自分が死ぬと分かっていながら、生存確率数パーセントのダクトに息子の命を託した、あの日の父の眼差しと痛いほど重なった。


「……馬鹿か。計算もできないのか、お前は」


「ああ、計算は得意じゃない。だから、俺の代わりに『正しい答え』を出してくれる相棒を、死ぬ気で探してたんだ」


 カイルが差し出した手は、熱を持っていた。

 死を待つだけだったゼインの冷え切った指先を、その熱が無理やり現実へと引き戻す。


「お前がクビになったのは、お前が正しいからだ。だが、正しさだけじゃ腹は膨れないし、誰も救えない。俺のところへ来いよ、ゼイン。お前の『正しさ』を、世界を救うための武器に変えてやる」


 ゼインは鼻で笑い、握っていたバイパス端子を投げ捨てた。


「……フン。これほど非論理的な誘いも珍しいな。……その賭け、俺が書き換えてやる」


 それ以来、彼の履歴書に「解雇」の文字が増えることはなかった。


 ……あれから数年。

 「正論」という刃を振り回しては孤立していた男にとって、アステリズム・ワークスは単なる職場ではなく、自身の「正しさ」を、初めて意味のある結果へと変換できるシステムへと変わっていた。


「カイル、一つ聞かせろ」


 第4区画で任務を終えた日の夜。

 ゼインは不機嫌そうに、しかしどこか答えを求めるような声で切り出した。


「あのアホ面で計算ドリルを解いている女……ミアのことだ。なぜあんな『不確定要素の塊』を俺につけた?」


 カイルは珈琲を啜り、ニヤリと笑った。


「前にも言っただろ。お前の数式には、致命的な欠陥があったからな」


「欠陥だと? 俺の計算は常に完璧だ」


「ああ、数字の上ではな。だが、お前の式には『バルブを回す人間の肉体的な限界』や、『死への恐怖が引き起こす精神的な摩擦』という変数が組み込まれていなかった。ミアはな、ゼイン。お前が『ゴミ』として切り捨てたその変数を拾い上げ、現場の熱量に変換して、奇跡を起こす専門家なんだ」


 カイルは、濁った窓ガラスの向こうを見つめながら言葉を継いだ。


「お前がハードウェアを司る孤高の天才なら、彼女は『人間』というバグだらけのシステムを乗りこなすプログラマーだ。お前ひとりじゃ回せない現実を、あいつが繋いでるんだよ」


 ゼインは反論しようとしたが、喉の奥で言葉が止まった。

 脳裏を過ったのは、第4区画の赤い警報の中、ミアの隣でいつの間にか必死に作業を進めていた作業員たちの姿だった。


 自分一人の正論では、彼らの手は動かなかった。

 自分の数式には確かに、自分以外の人間という要素が欠落していたのだ。


「……フン。あんなバグだらけのシステム、俺なら即座に書き換えるがな」


 そう言って背を向けたゼインの耳には、ミアが鼻歌混じりにペンを走らせる音が、いつもより少しだけ、心地よく響いていた。

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