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ゼニス再興記

 一年中、止まない雨が降る街。辺境の惑星ボレアスの外縁に建設された古いドーム都市は、いつしかそう呼ばれるようになっていた。


 本来であれば、人工太陽の光と厳格に管理された気候によって、外の過酷な環境から住民を守るはずの楽園。しかし、今その場所は、灰色の空から絶え間なく冷たい水滴が滴り落ちる、陰鬱な檻と化していた。


 銀河の至る所にロゴを刻む超巨大企業、ゼニス・ソリューションズ。その本社ビル、雲を突き抜けるような高層階に位置する第28戦略会議室の空気は、ドーム都市の雨よりも冷え切っていた。


 無機質なホログラムモニターの青白い光が、黒塗りの巨大な円卓と、そこに座る者たちの強張った顔を照らし出している。


 保守管理部門の部長であるノーマンは、手元の端末に並ぶ赤字の羅列を見つめながら、ひっそりと息を吐いた。五十代を迎えた彼の瞳には、深い疲労と、かつての時代への拭い去れない郷愁が沈んでいる。


 パウロ会長がまだ若く、数人の仲間たちと共に小さな機械修理店を立ち上げた頃。ゼニスには「活気」と「喧騒」があった。


 オイルの匂いにまみれ、壊れた機械を前に朝まで怒鳴り合いながらも、最後には必ず直すという「燃え滾る熱」が確かに存在した。

 若き日のノーマンもまた、伝説のエンジニアであったロレッタから「あんた、機械の声が聞けるじゃない」と背中を叩かれた凄腕の一人だった。


 だが、今のゼニスにその熱はない。「効率」と「統制」という名の下に、ノイズとして切り捨てられてしまったのだ。

 広大な会議室でエリートたちが睨みつけるのは、人々の暮らしではなく、予算と採算の数字だけ。今のノーマンには、もう機械の声は聞こえない。


「――以上が、ドーム都市における大気循環システムの異常に関する現状報告です」


 静まり返った会議室に、若く張りのある声が響いた。声の主は、最近新しく主任に抜擢されたばかりのルカだ。


 二十代後半の彼は、不遇な保守管理部門にあって、唯一と言っていいほど真っ直ぐな瞳をしていた。頼りない上司や士気の低い同僚たちを泥臭く鼓舞し、沈みかけていたいくつもの不採算事業を次々と立て直してきた男だ。


「雨は5年ほど前から降り始めました。ちょうど、旧式の大気循環システムから、我がゼニス製の最新システムへと更新された時期と完全に一致しています。現在、ドーム内のエアフローは著しく乱れ、エネルギー効率は想定より3割も低下。居住者の流出に歯止めがかからず、コロニーの存続自体が危ぶまれています」


 ルカの淀みない報告に、円卓の向かいに座る女が冷ややかに鼻を鳴らした。安全管理部門から派遣されてきた問題児、シルヴィアである。


 三十代の彼女は、かつてゼニスに在籍していた伝説的な精密安全管理士・アイリスに強烈な憧れを抱いており、その潔癖さゆえに社内でも浮いている存在だった。


「設計上のミスはあり得ないわ。最新システムは、ミリ単位の誤差も許さない完璧な精度で構築されているのよ。問題があるとすれば、あなたたち保守管理部門の怠慢か、初期不良のどちらかでしょ。それに、5年間も異常があったのなら、なぜ本社が今まで気づかなかったの? クレームが殺到して然るべき事態よ」


「待ってください、シルヴィア主任。保守記録は全て確認しましたが、マニュアルで定められた規定通りのメンテナンスは完璧に実施されています。ただの怠慢ではありません」


 ルカは苦々しく眉をひそめ、手元の端末を操作して会議室のメインモニターにファイルを展開した。


「私が主任に着任してデータをサルベージした結果、現地からは常に『異常多湿・原因不明の水漏れ』という報告が上がっていました。ですが、前任の保守責任者たちは『センサーの誤作動』や『スラム街の排水管破裂』といった、もっともらしい理由をつけて処理していました。5年間、この異常な数字に誰も向き合おうとしなかったんです」


 ルカがそう言い切ると、会議室のスピーカーから、快活な少年の声が響き渡った。


『僕の計算だと、初期不良の確率も、0.002パーセント以下だよ。コンソールの異常ログもなーし! ……あっ、ちょっと待って、別の方向から見てみようか』


 空席のモニターに映し出されているのは、可愛らしい男の子のデフォルメキャラクターだ。社内で唯一、在宅勤務を許可されている情報システム部門の天才分析官、ニコである。


 誰も素顔を見たことがなく、極度の人見知りゆえにボイスチェンジャー越しでしか会話をしない。銀河最高の学術機関「魔女の末裔」を次席で卒業したエリートだが、口調はどこか人懐っこい。


『ドーム内は本来、厳格に管理された人工降雨だから、今回の異常な降水量のデータはないけど、代わりに僕が都市の下水排水量を解析してみたよー! 朝の6時から8時、それと夜の19時から22時にかけて、急激なスパイクが発生してる。この時間に、ドーム内で局地的な大雨が降ってるってことだね!』


 ニコの報告を聞きながら、ノーマンは重い腰を上げた。


 もしゼニス肝いりの最新システムが、5年もの間「雨」という名の不具合を垂れ流していたとなれば、経済的損失も、企業としての信用失墜も計り知れない。


「推測だけで議論しても答えは出ん。ルカ、シルヴィア。お前たちは現地へ飛べ。私とニコは本社からデータを洗い直す。……ゼニスの名にかけて、この冷たい雨を止めるぞ」


 ノーマンの号令に、ルカは力強く頷いた。その瞳の奥に燃える炎に、ノーマンはかつてゼニスを去った一人の男――粗暴だが誰よりも機械を愛した、ボルグの面影を重ねていた。


 現地に降り立ったルカの頬を、ひんやりとした水滴が打った。ドーム都市の内部だというのに、灰色の天井からは絶え間なく小雨がパラついている。


 道行く人々は皆、陰鬱な顔で傘を差し、足早に通り過ぎていく。


「ひどい有様ね。最新のシステムが導入されているのに、どうしてこんな原始的な環境悪化が起きているの」


 防水コートの襟を立てながら、シルヴィアが顔をしかめた。二人は今、ドームの最外周にあたる古い外壁部を調査している。

 旧式の大気循環システム使用時には問題がなかったことに着目し、現場の状況を直接確認しに来たのだ。


「シルヴィアさん、ここを見てください」


 ルカはドーム外壁の接合部に手を当てた。微かに、ヒューッという甲高い笛鳴りのような音が聞こえる。


「……隙間風? でも、環境センサーは気圧の異常を検知していないわ」


「ええ。ですが、この惑星は昼夜の寒暖差と気圧変化が極めて激しい。ドーム建設から数十年、経年劣化によって外壁のフレーム全体が目視できないレベルで歪んでいるんです。最新システムは、この歪みを認識できていないんじゃないでしょうか」


 ルカの報告を受けたノーマンからは、すぐさま通信が入った。


『ルカの言う通りだ。旧式のシステム時代から、外壁の歪みは現場の悩みの種だったはずだ。だが、それがどうして雨に繋がる?』


 その時だった。三人の共有通信回線に、不意にノイズが走った。

 いつもなら合成音声で割り込んでくるはずのニコの回線から、直接、肉声が飛び込んできたのだ。


『あー、もうやだ! お風呂場の結露がひどくて、鏡が全然見えないじゃない! 換気扇ちゃんと仕事してよぉ……きゃっ!?』


 可愛らしい、二十代前半の若い女性の声だった。

 直後、ガタガタと何かが崩れる音と共に、ニコが慌ててマイクをミュートにする音が響いた。


 ルカとシルヴィアは、通信機を持ったまま完全に硬直した。


「……今のは、誰だ?」


 ルカが恐る恐る尋ねると、少しの沈黙の後、カチリと硬質なスイッチの音が響き、スピーカーからはいつもの聞き慣れた、少し低めの、少年の名残を留めたような声が戻ってきた。


『……あ、あう。……ニコです。今の、聞こえました?』


「ニコ……。あなた、女性だったの?」


 シルヴィアの問いかけは、驚きよりも、今まで積み上げてきた「ニコ」という像が砂のように崩れていく戸惑いに支配されていた。


『……あ、はい。……別に隠してたわけじゃないんですけど、この業界、女だと分かると舐められたりすることもあるから、護身用にチェンジャーを使ってて……。慌ててお風呂から上がったから、起動をミスしました。……最悪だ……』


 消え入るような独白。それは、最先端の学術機関を卒業したエリートの顔ではなく、冷徹な巨大組織の隙間で必死に自分を守ろうとする、一人の若者の剥き出しの素顔だった。


 ルカとシルヴィアが、その痛切な響きに言葉を失っていると不意に、ノーマンの呆れたようなため息が聞こえてきた。


『お前たち、知らなかったのか? 人事資料の性別欄にちゃんと記載されているだろう。マニュアルは完璧に読み込むくせに、仲間のプロフィールは読み飛ばしていたようだな』


 いつも「僕」という一人称を使い、誰もが男だと思い込んでいた天才情報分析官の素顔に、シルヴィアでさえ「……嘘でしょ」と絶句していた。


 だが、ルカの脳内では、ニコが放ったある一言が、パズルの最後のピースとして激しくフラッシュしていた。


「……結露だ」


「えっ?」


『ルカさん?』


「ニコ、さっき君が言った『結露』だよ! 下水の排水量が跳ね上がるのは、朝の6時から8時と、夜の19時から22時だと言ったね。それは、居住者たちが起きて食事を作り、夜にシャワーを浴びる時間帯だ!」


 ルカの声が熱を帯びる。


「最新のシステムは、このドームが『新築の完璧な状態』であることを前提に設計されている。だが実際には外壁が歪んでいて、惑星の冷たい外気が常にドームの天井部をキンキンに冷やしているんだ。そこに、何万人もの居住者が一斉に生活活動を行い、膨大な『湿気』が発生したらどうなる?」


 シルヴィアがハッと息を呑んだ。


「……不十分なエアフローに乗って上層に滞留した湿気が、冷え切った天井に触れて、ドーム全体で大規模な結露を起こす。それが、『止まない雨』の正体……!」


「その通りです! 旧システムの時代に雨が降っていなかったのは、歴代の技術者たちが、この『都市の呼吸』とも言える湿度の上昇と外壁の歪みを計算し、手動でエアフローを調整していたからだ!」


 原因は掴んだ。だが、最新のシステムに「現場の歪み」を認識させるためには、5年前までこの都市を支えていたアナログな調整値のデータが必要だった。


 ルカはドーム内の管理棟跡地で、技術者たちが残した膨大な紙の記録や手書きのメモが詰め込まれた、山積みのダンボール箱を発見した。


 ルカとシルヴィアが総力を挙げてスキャナーで取り込み、ニコがデータを分析する。だが、肝心な「なぜその数値を入力したのか」という根拠が抜け落ちている。

 ルカは雨の中、ドームの下層区画へと足を運んだ。そこは引退した老技術者たちがひっそりと暮らす居住区だ。


 一軒の古びたアパートの扉を叩くと、白髪混じりの無愛想な老人が顔を出した。


「ゼニスの人間だと? 帰れ帰れ。お前さんたちエリートは、俺たち現場の人間が長年かけて作った『調整』を、非論理的だの非効率だのと馬鹿にして全て切り捨てたじゃないか。最新の機械にでも泣きつけ!」


 扉を閉められそうになった瞬間、ルカは濡れたブーツの先を隙間にねじ込み、真っ直ぐに老人を見据えた。


「……切り捨てたのは僕たちです。ゼニスが効率を追い求めるあまり、あなたたちがドームの住人を守るために重ねてきた『経験』を軽んじた。そのツケが、この雨です」


 ルカは深く頭を下げた。泥水が跳ね、彼のズボンを汚したが、気にする素振りも見せなかった。


「教えてください。第4セクターのエアフローを、あえて3割落としていた理由を。あなたたちの『現場の勘』が、今のゼニスには必要なんです。……どうかお願いします」


 老人は鼻で笑った。


「綺麗事を並べるな、若造。数字しか信じねえゼニスの背広組が、泥水すすって頭を下げるとはな。……お前、名前は?」


「ルカです。ルカ・ヴァンダル」


 そのファミリーネームを聞いた瞬間、老人の顔色が変わった。


「……ヴァンダル、だと? おい、まさかお前、あの鉄パイプを素手で曲げてた大馬鹿野郎、ボルグの孫か!?」


 ルカは少し照れくさそうに、しかし誇りを持って頷いた。


「はい。祖父はよく、ゼニスがただの修理屋だった頃の話をしてくれました。計算通りにいかなくても、繋がれば動くんだと」


「……ハッ! あっはっはっは!」


 老人は腹を抱えて大笑いした。


「そうかよ! あの不器用な熊の血が、まだゼニスのお偉いさんの中に残ってたとはな! いいだろう、上がれ。ゼニスのシステムじゃ解析できねえ『癖』ってもんを、一から十まで叩き込んでやる!」


 それからの数日間、ルカとシルヴィアは老技術者たちの家を一軒一軒回り、外壁の歪んでいる場所や記録に残っていないフレームの補修履歴、季節ごとの気圧変化に合わせたマニュアル外の調整値を丁寧に聞き取っていった。


「シルヴィアさん、ここの数値、アイリス管理士の安全基準から見るとどうですか?」


「……ギリギリね。でも、机上の空論よりずっと生きた数字だわ。私がこの泥臭い数値を、最新システムに完璧にアジャストさせてみせる」


 かつて潔癖すぎると言われたシルヴィアの顔には、現場の不規則性を受け入れ、それをねじ伏せようとする技術者としての執念が宿っていた。


 ニコは徹夜でプログラムを書き換え、ノーマンは本来なら開発設計部門や品質保証委員会の長期審査が必要なシステム中枢への介入を、方々への緻密な根回しによって特例として通し、システムのコアに「遊び」を持たせるパッチを正式に承認させた。


 かつてゼニスが巨大化の過程で切り捨ててしまった「現場の勘」と「利用者の目線」。

 それらを、若き歯車たちが一つずつ丁寧に拾い上げ、巨大なシステムへと溶接していく。彼らの間に流れる熱は、間違いなく、あの小さな修理店にあったものと同じだった。


 ドーム都市の空から、ついに雨が消えた。


 5年ぶりに乾燥した風が吹き抜け、錆びついた街並みに、人工太陽の暖かな光が降り注いでいる。街の広場では、傘を捨てた人々が空を見上げ、歓声を上げていた。


「――乾杯!」


 雨の止んだドーム都市の片隅にある大衆酒場。ジョッキがぶつかり合う小気味よい音が響いた。


 テーブルの中央にはルカが座り、満面の笑みで合成ビールを煽っている。その隣では、シルヴィアが「ジョッキの洗浄が甘いわ」と文句を言いながらも、どこか晴れやかな顔でグラスを傾けていた。


 そしてテーブルの端には、タブレット端末の画面越しに、素顔を晒してジュースを飲むニコの姿がある。


『もう、ルカさんったら飲みすぎですよー。明日も本社の報告会議があるんだからね!』


「いいんだよニコ、今日くらい! ドームの湿度は完璧な40パーセントを維持してる。俺たちの勝ちだ!」


 若者たちの騒々しい笑い声を、ノーマンは少し離れたカウンター席から眺めている。

 彼は手元のグラスに入った琥珀色の液体を揺らしながら、深く息を吐いた。


 今回のプロジェクトで、彼らは見事にシステムを最適化させた。だがそれ以上にノーマンの胸を打ったのは、ルカたちが泥だらけになって現場を走り回り、老技術者たちと対話し、システムに血を通わせていく姿だった。


 (……パウロ会長。あなたの懸念は、杞憂だったかもしれませんよ)


 ゼニス・ソリューションズは巨大になりすぎた。誰もが交換可能な歯車となり、効率という名の冷たい機械の一部になってしまったと、ノーマン自身も絶望していた。


 だが、違ったのだ。

 冷え切った巨大な機械の中にも、まだ熱を帯びた歯車は確実に存在していた。


 ボルグの血を引くルカの情熱、アイリスに憧れながらも現場の泥を受け入れたシルヴィアの矜持、そして画面の向こうで笑うニコの人間らしさ。

 彼らが互いに噛み合い、摩擦を起こし、火花を散らすことで、冷たかった組織に再び「熱」が生まれている。


「ノーマン部長! 何一人で黄昏てるんですか、こっち来て一緒に飲みましょうよ!」


「おい、よせルカ。私は静かにグラスを傾けたいタチでな……」


「今日は特別です! 俺たち、最高の仕事をしましたからね! ほら、部長もデカいジョッキで!」


 強引にテーブルへと引きずり込まれ、安物の合成ビールがなみなみと注がれたジョッキを押し付けられる。シルヴィアが呆れたように笑い、ニコが画面越しに手を叩いて喜んでいる。


 ノーマンは渋々といった体でジョッキを掲げ、しかしその口元には、何年ぶりか分からないほど自然な笑みが浮かんでいた。


「……ああ、そうだな。お前たちは、本当に最高の仕事をした」


 酒場に響く活気と喧騒。それはまさに、かつてパウロやロレッタ、ボルグたちが小さな修理店で響かせていた、明日を創るための「音」そのものだった。


 雨は上がり、雲は晴れた。


 巨大な精密時計であるゼニスの未来は、この騒がしくも温かい若者たちの手に委ねられている。ノーマンは喉の奥に熱い酒を流し込みながら、再び力強く回り始めた歯車の鼓動を、確かに感じていた。

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