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魔女と教授

「ふふ……あはは! 見て、ヴィクター、内海さん! 私の血管が、今、銀河の公転周期と同じリズムで脈動してるわ。……ああ、この色が『真理』の輝きなのね!」


 医療室の冷たい床で、「魔女」――メリッサは、自らの腕に突き刺さったままの空の注射器を眺めて恍惚と笑っていた。


 彼女が「魔女の末裔」を主席で卒業した際、その知識は既に既存の教科書を数世紀分追い越していた。

 しかし、彼女には確信があった。「紙に書かれた数式は、血肉を通さなければただの死骸である」と。


 彼女が最初に自分を被検体にしたのは、まだ学術機関の学生だった頃だ。


 当時、彼女は「致死量」という医学的定義を、怠慢な平均値に過ぎないと切り捨てていた。

 自ら開発した特殊な強心剤を首筋に打ち込み、心停止のコンマ数秒前、意識が死の淵まで拡張される極限状態でしか得られないデータを収集し続けたのだ。


 喉が腫れ上がり、視界が火花を散らす暗闇の中で、彼女は震える手でタブレットに数式を刻んだ。

 意識が途切れる寸前、自ら喉に針を突き立てて気道を確保するその姿は、周囲には狂気的な自傷行為としか映らなかっただろう。


 だが、彼女にとってそれは、運命という名の不条理を書き換えるために必要なプロセスに過ぎなかった。


「……1、2……3……。……あ、今、死神と目が合った気がする」


 心臓が止まり、脳に酸素が行き届かなくなる刹那。彼女が見たのは、数式が音色を奏で、細胞が宇宙の星々と対話する光景だった。

 それ以来、彼女にとって「正気」とは、真実を隠すための退屈なフィルターに過ぎなくなった。


「魔女、お前の今の血中濃度は、通常の人間なら3回は爆発している数値だ……。脳内のドーパミンが、さっきから不協和音を立てているぞ」


 壁際で内海が、重い眼差しで彼女のバイタルを「予言」する。


「いいじゃない、内海さん! 爆発する直前が、一番エネルギーに満ち溢れているのよ。ヴィクター、あなたもそう思うでしょう? ほら、私の腹部を切開して、今この瞬間、肝臓がどんな風に毒を『解釈』しているか見てみてよ!」


「……断る! 今の君の腹を裂けば、気化した薬物が充満してこの部屋の全員がラリってしまうからな。執刀医が震えていては、精密なパズルは完成しない!」


 ヴィクターはそう言って、ギラつくメスを弄びながら冷たく笑った。


 この「生と死」の部屋において、魔女は常に太陽のように、あるいは超新星爆発のように危うい光を放っている。

 彼女の存在は、内海の無機質な数値に「生命の跳躍」というノイズを加え、ヴィクターの冷徹な解剖学に「変異の美学」を突きつけるのだ。


 「魔女」という称号。

 それは、銀河最高の知性が認めた『ことわりを書き換える権利』。

 彼女にとって、アステリズム・ワークスの医療室は、その権利を思う存分に行使できる、銀河で唯一の聖域だった。


「ねぇ、カイルさん……。次は、サマエルの筋肉を液体化して、再凝固させる薬を試してみたいんだけど……。そうすれば、彼はもうドアノブを壊さずに済むと思わない?」


「……却下だ。あいつにまでお前の『真理』を見せる必要はない。大人しく、セシリアのカブを食べて、少しはまともな栄養を摂れ」


 カイルの声がモニターから響く。

 魔女は「ちぇー、つまんないの」と唇を尖らせると、空になった注射器を放り出し、ヴィクターのメスでカットされたばかりのカブを一口、幸せそうに頬張った。


 銀河系で最も権威ある学術機関「魔女の末裔」の中央講堂。

 高い天井まで届く本棚と、歴代の賢者たちの肖像画が並ぶその場所で、一人の若い女性教授が教壇に立っていた。

 長く美しい金髪を揺らし、彼女が講義の小休止を告げたとき、一人の学生が勢いよく挙手した。


「教授、質問してもいいですか?」


 教授は優しく、けれど知的好奇心を煽るような微笑を浮かべた。


「いいわ。好奇心は、あらゆる『真理』への第一歩ですから。……何を知りたいのかしら?」


 学生は講堂の壁の一角を指差した。

 歴代の首席卒業者の肖像画が誇らしげに並ぶ中、不自然に一枠だけ、額縁もかかっていない空白のスペースがあった。


「どうしてそこだけ空白なんですか? 欠番になるような事件でもあったんですか?」


 周囲の学生たちも、長年の疑問を解く鍵を求めて教授に視線を注ぐ。

 毎年、首席卒業者にのみ与えられる『魔女』の称号。それは銀河中の富と名声を約束する「成功への鍵」だ。

 授与式を前に首席が急逝しても、その権利は次席へと受け継がれるのがこの学園の鉄則である。


「その年はね――」


 金髪の教授は、懐かしむような、それでいて少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべて答えた。


「首席卒業者がいなかったのよ。……ただの一人もね」


 講堂内が一斉にどよめいた。「全員が辞退した?」「そんな馬鹿な」「あの名誉と莫大な報奨金を捨てたというのか?」

 学生たちが勝手な仮説を立て、互いに否定し合う喧騒を、教授は愉快そうに眺めていた。

 彼女の瞳には、かつて同じ寮の部屋で、新作のコスメカタログを広げていた「お洒落好きのルームメイト」の姿が浮かんでいた。


 13年前。3学年になったメリッサと親友の二人は、人類の悲願とされる「心臓病特効薬」の開発プロジェクトに研修生として参加していた。


「見て、このリップグロスの新作! ラメの入り方が最高じゃない?」


 寮のベッドの上で、メリッサは最新のコスメカタログに夢中だった。

 一方、親友は山積みになった治験データと格闘し、眉間に皺を寄せていた。


「メリッサ、ちょっと黙ってて……。ねぇ、これを見て」


「何よ、真面目ちゃん。もうすぐプロジェクトはフェーズ2に移行するのよ? 記念すべき歴史的瞬間に、ボサボサの頭で出席する気?」


 親友はメリッサの言葉を無視して、動物試験のグラフを指差した。


「きれいすぎるのよ、この数値。まるで理想の曲線を引いてから、後付けで数字を埋めたみたいに。……それに、フェーズ1の被験者が漏らした『指先が冷える』という呟き。モニターには一瞬、急激な血圧変化のスパイクが出ていた。でも、提出された報告書にはその記録がどこにもないわ」


「考えすぎよ。私たちみたいなひよっこ学生が気づくミスを、教授たちが揃いも揃って見落とすと思う?」


 メリッサは突き放すように言ったが、親友の胸に宿った違和感は消えなかった。

 フェーズ2では新薬が実際の患者に投与される。

 もし副作用が隠蔽されているなら、それは取り返しのつかない悲劇を招くことになる。


 その夜、親友は深夜の研究所に忍び込んだ。

 そして、厳重に管理されたサーバーから「改竄前」の生データを入手した。


 そこにあったのは、凄惨な事実だった。

 新薬投与の直後に急死した無数のラット。体調不良を訴え、治験から途中離脱した人々の無残なカルテ。


「……再灌流障害、カルシウムパラドックス。細胞の壊死……。これは薬じゃない。神経をズタズタに引き裂く毒だわ」


 寮に戻り、盗み出した資料を広げる彼女の手は震えていた。

 戻ってきたメリッサが、その資料を覗き込み、一瞬で顔をこわばらせた。


「これ……どうしたのよ。ヤバいじゃない。バレたら退学どころじゃ済まないわよ」


「これでいいの。明日、責任者に中止を訴えるわ」


 親友の瞳には、かつてないほどの決死の覚悟が宿っていた。


 翌日、親友は治験責任者の部屋へと乗り込んだ。

 机に叩きつけられた資料のコピーを、責任者はゆっくりと眺め、深い溜息をついた。


「どこでこれを手に入れたかは問うまい。……だが、君はまだ若すぎる」


「説明してください! 副作用を隠してフェーズ2を強行するなんて、人殺しと同じです!」


 責任者は椅子に深くもたれかかり、疲れたような目で彼女を見た。


「このプロジェクトには、銀河有数の財閥ハミルトン家から天文学的な投資がなされている。彼らの令嬢、セシリア様がこの病に侵されているからだ。『魔女の末裔』の威信、そして人類の夢……。それらの前では、些細な副作用など単なる『誤差』に過ぎないのだよ」


「人類の夢!? ふざけないで! 人命を軽視して何が『魔女』よ!」


 親友の激昂に対し、責任者は薄笑いすら浮かべた。


「公表したければするがいい。だが、一学生の妄言を誰が取り合う? 証拠のオリジナルは既に破棄した。……君の未来を、こんな紙切れ一枚で台無しにすることはないぞ」


 冷たい沈黙が部屋を満たす。正義が権力という名の壁に跳ね返された瞬間だった。


 あの日、学園の時計塔が鳴らした鐘の音は、かつてないほど不吉な響きを帯びていた。

 「新時代の幕開け」を謳うフェーズ2の治験。講堂内は銀河中のマスコミが放つフラッシュの光と、期待に満ちた熱気に包まれていた。


 親友は、震える足で壇上へと向かった。

 その手に握られていたのは、盗み出した資料でも告発状でもない。

 ただ一瞬の隙を突き、保管庫から奪い取った死を運ぶ琥珀色の液体――。


「……やめろ!!」


 誰かの叫びが響いた時には、すべてが遅すぎた。

 彼女は躊躇なく、自らの細い腕の静脈に針を突き立て、プランジャーを深々と押し込んだ。


 メリッサは、その後の光景を断片的にしか記憶していない。

 劇薬が血流に乗った瞬間、親友の顔から急速に血の気が失せ、糸の切れた人形のように崩れ落ちたこと。

 騒然となる会場。怒号。そして、群がるマスコミ。


「……Ca拮抗薬を……再灌流……障害…が……」


 泡を吹き、痙攣する親友の唇は、最期まで薬学者として「正しい処置」を訴えていた。

 だが、その声は現場の混乱と、スクープを逃すまいと焚かれ続けるカメラの閃光にかき消されていった。


 集中治療室の無機質なアラーム音が鳴り響く中、メリッサは親友の傍らに立ち尽くしていた。

 一命は取り留めた。だが、代償はあまりに大きすぎた。

 急激な血管収縮の後に訪れた血流の再開――再灌流障害。堰き止められていたカルシウムが奔流となって脊髄細胞へ流れ込み、彼女の神経を内側から焼き切ったのだ。


「……メリッサ」


 数日後、意識を取り戻した親友が最初に口にしたのは、自らの体への絶望ではなかった。


「止まった……? 治験は、中止に……なった?」


「……ええ。大騒ぎよ。ハミルトン家は即座に資金を引き揚げたわ。責任者たちは、今頃保身のために必死で証拠を隠滅してる。……バカね。あんなことしなくても、他にやり方があったでしょうに」


 メリッサは精一杯の強がりを口にした。

 だが、車椅子に固定された親友の動かない足を見て、視界が滲むのを堪えきれなかった。


 親友は、自らの命と未来を賭けて、まだ見ぬ数万人の患者の命を救った。

 それは「魔女の末裔」が掲げる理想の、最も純粋で、最も残酷な体現であった。


「これで……いいのよ、メリッサ。私は、『魔女』に……なれたかな」


 白く乾いた微笑みを浮かべる親友の横で、メリッサは拳を血が滲むほど握りしめていた。


 (……正しい人が、どうしてこんな目に遭わなきゃいけないの? 正論を貫くことが自分を壊すことだなんて、そんなの、私は認めない)


 お洒落な服も、新作のコスメも、この日を境にメリッサの心から消え去った。

 彼女の中に芽生えたのは、学園が説く「清らかな医学」への底知れぬ軽蔑。

 そして、毒さえも手懐けて運命をねじ伏せる、真の意味での「魔女」への渇望であった。


「――ッ、……あ、あ……っ!!」


 深夜の研究所に、押し殺した悲鳴が響く。

 メリッサは自らの首筋に、青白く光る開発コード「Re-V09」を躊躇なく流し込んだ。


 直後、喉の奥が異様に膨れ上がり、呼吸が完全に停止する。

 気道粘膜が瞬時に水疱で埋め尽くされ、空気が一滴も入ってこない。

 視界が急速に狭まり、火花が散るような激痛が走る中で、彼女は震える手で記録用タブレットに文字を刻み続けた。


 『……粘膜腫脹……浸透圧調整ミス。……次は、……基底膜への……透過性を……抑制、しろ……』


 意識が途切れる寸前、自ら喉に太い針を突き立てて気道を確保する。凄惨な自傷行為。

 だが彼女にとって、これは親友の脊髄を焼き切ったあの「毒」を「薬」へと反転させるための、冷徹な計算プロセスに過ぎなかった。


 翌朝。顔を青白く腫らしたまま、彼女は親友の病室に現れた。


「おはよ。……ほら、今日のお花。綺麗でしょ?」


「メリッサ……。あなた、その腕……」


 親友の視線の先、メリッサの袖口から覗く腕は、無数の注射痕と壊死しかけて変色した皮膚で埋め尽くされていた。

 もはや、かつてネイルを楽しんでいた乙女の腕ではない。


 親友は動かない足を必死に叩き、涙を流して叫んだ。


「私のことは、もういいの! お願いだからやめて! あなたまで壊れたら、私は何のためにあの日、自分に針を刺したの!? 死んじゃうよ、メリッサ。このままじゃ、本当に死んじゃう!」


 メリッサは、麻痺で感覚の失せた指先で、親友の涙をそっと拭った。

 その表情は、かつてのどの笑顔よりも穏やかで、同時に救いようがないほど歪んでいた。


「大丈夫よ。死なないわ。……私、気づいちゃったの。教科書に書いてある『致死量』なんて、ただの平均値に過ぎないって。私の体はね、もう毒と友達になったのよ。……私が何とかする。死にかけの心臓を呼び起こす『レシピ』は、もうすぐそこにあるんだから」


 彼女はそう言い残し、足をもつれさせながら、薬品の匂いに満ちた研究室へ戻ろうとした、その時だった。


「……もう見ていられないわ。あなたたち二人だけで、世界を救うつもり?」


 静まり返った病室に、場にそぐわない凛とした声が響いた。

 扉を開けて入ってきたのは、経済学部の至宝と呼ばれ、在学中にして数々の投資案件を成功させている少女だった。

 その後ろには、大学のネットワークを掌握する情報学部の寵児、そして精密機械をまるで手足のように操る工学部の設計主任が続いている。


 彼らは皆、メリッサや親友と競い合い、時には共に笑い合った、この学園が誇る「魔女」の卵であった。


「みんな……どうして」


「メリッサ、君のやり方は非効率の極みだ」


 情報学部の青年が、病室の壁一面にホログラム・ディスプレイを展開する。


「君の実験記録をすべて解析した。君が突き止めた心筋細胞の再生アルゴリズム、その欠落を補完するシミュレーションはもう終わっている。これを使え。薬剤投与時の心拍動シミュレーションは、僕が完璧に予測してみせる」


「機材は私に任せて」


 工学部の少女が、学園の倉庫から徴収してきた旧式の分析機を、最新のナノマシン製造機へとその場で組み替えていく。


「ミリ単位の誤差で喉を詰まらせるのはもう終わり。これからは分子レベルで心筋に浸透する完璧なレシピを形にしてあげる」


 そして、経済学部の少女は不敵に微笑み、一通の親展通信を提示した。


「ハミルトン家を含む主要な投資家たちに、今のプロジェクトの『実態』と、私たちの進めている『真の新薬』のデータを送っておいたわ。彼らは激怒している。自分たちの純粋な想いが、学園の保身とデータ改竄に利用されていたことにね」


 ハミルトン家は即座に学園への資金を凍結。全額をこの「非公式プロジェクト」へ付け替えることを宣言した。

 彼らはただ、愛娘を救うための「誠実な結果」を求めていたに過ぎない。


 病室は、一瞬にして銀河で最も正当な支援を受ける、世界で最も熱い研究所へと変貌した。


「手伝わせて、メリッサ」


 薬学部の同級生たちが、彼女のボロボロになった腕を優しく包む。


「実験台なら、私たちがシミュレーターを作るわ。あなたは指示を出して。私たちは、あなたの『頭脳』になりたいの」


 メリッサの目から、初めて大粒の涙が溢れた。

 お洒落も、新作のコスメも捨てて、たった一人で地獄を這ってきた彼女の前に、かつての仲間たちが、それぞれの分野の「怪物」となって立ちはだかっていた。


「……バカね、みんな。……本当に、バカなんだから」


 メリッサは鼻をすすり、震える手で眼鏡を直した。そこにはもう、くすぶっていた女の子はいない。

 銀河中の才能を束ね、毒を薬へと反転させる一団のリーダー、「魔女」がいた。


「いいわ。作戦を変更する。これからは、一秒も無駄にしない!」


 メリッサの声が、鋭く病室に響く。


「工学部、心筋細胞への定着率を再計算。情報部、心不全回避のシミュレーションを第4段階へ。経済部、ハミルトン家への進捗報告を30分おきに更新! ……さあ、あのおじいちゃんたちに、本物の『知性』の使い方を教えてあげましょう!」


「「「了解!!」」」


 病室に響いたその声は、かつて治験責任者が「誤差」と切り捨てた命たちが、運命の歯車を力ずくで逆回転させ始めた轟音でもあった。


 ついに新薬が完成した。

 自らの体に投与した最後の一滴は、かつてのような粘膜の腫れも、内臓の悲鳴も引き起こさなかった。

 メリッサは、血の滲んだ組成表と、仲間たちが整えてくれた膨大な実験データを交互に眺める。

 そのすべてが、この液体こそが「不治の病の特効薬」であることを、一分の隙もなく証明していた。


 あの事件をきっかけに、銀河の公的機関による認定基準は、かつてないほど厳格化されていた。

 だが、彼女たちが積み上げたデータは、その高い壁を容易く乗り越えた。

 通常の治験であれば数十年を要するプロセスを数倍もの密度で凝縮し、わずか3年で駆け抜けたのだ。

 疑いようのない「狂気の証明」を前にして、新薬は正式に承認される。


 あの日、親友が自らの命を賭して繋ぎ止めた患者たちの未来を、メリッサは見事に救ってみせたのだ。


 報告のために病室を訪れると、親友はメリッサの落ち窪んだ目の下のクマを、震える指先で優しくさすった。


「……やったのね、メリッサ」


 親友は、まるで自分のことのように、声を上げて喜んでくれた。


 不治の病の克服。その偉業は瞬く間に銀河中を駆け巡り、数多の大企業が卒業前の彼女を奪い合おうと列をなした。

 だが、メリッサはそのすべての誘いを一蹴する。

 彼女は新薬の特許を売却して得た天文学的な大金を手に、ある場所を訪ねた。


 そこは、銀河の辺境で「生と死」と称される伝説の医療チームが待つ場所だった。


 病室のベッドに横たわる親友を一瞥した瞬間、内科医・内海の右目にあるデバイスが、臨界点に近い速度で情報の奔流を処理し始めた。


「……脊髄第4から第7節にかけての神経伝達物質の異常枯渇。カルシウムパラドックスによる細胞の『凍結』……いや、一部はすでに完全に壊死し、信号の断絶は不可逆の領域に達しているな。既存の薬剤では、浸透圧をどう調整しようと回路の再接続は不可能だ」


 内海は瞬き一つせず、虚空に浮かぶバイタルデータを指先で弾き飛ばしながら、冷徹なトーンで告げた。


「……だが、神経系を丸ごと『置き換える』なら話は別だ。ヴィクター、執刀箇所は頸椎から下肢全域に及ぶ。脊髄を含む全人工神経移植を断行する。俺がその全過程において、宿主の受容体レベルで免疫応答を完全に隠蔽し、生体と人工組織の同期誤差を0.002以下に封じ込める。……俺がこのデバイスで生体電位を司る以上、拒絶反応は発生させない」


 その言葉は、診断ではなく、確定した未来の「予言」であった。


 一方、ヴィクターはホログラム化されたCT画像を食い入るように見つめ、手の中でメスを踊らせた。


「素晴らしい……! こんな珍しい症例は初めてだ! 全く、美しい地獄じゃないか。さあ、今すぐ切らせてくれ。そのささくれ立った神経を拝み、私のメスでパズルを完成させてやる!」


「前金はすでに受け取っている。……任せたぞ」


 カイルは短くそう言い残すと、病室を後にした。

 一緒に廊下に出たメリッサは、その常軌を逸したやり取りに呆然としながら問いかける。


「……ねぇ、噂には聞いていたけれど。本当に、あの二人を信じて大丈夫なの?」


 カイルは足を止め、確信に満ちた表情で断言した。


「ああ。内海が『死なない』と言えば必ず助かるし、ヴィクターが『切りたい』と言えば必ず直す。……あいつらは、君たちと同じくらいぶっ飛んでいて、最高に優秀なドクターだからな」


 メリッサは、病室から聞こえてくるヴィクターの奇声と内海の淡々とした分析を聞きながら、初めて、自分の肩の荷がふっと軽くなるのを感じた。


「……そう。なら、信じるしかないわね」


 メリッサは、閉まった病室の扉を背に、深く、長く息を吐き出した。

 自らの体に毒を打ち込み続けた日々、指先の感覚が失われていく恐怖、親友の涙……。

 それらすべてを飲み込んで、ようやく辿り着いたのがこの「生と死」の境界線だった。


「カイルさん。……私、もう一つ頼みがあるの」


 彼女は、新作のリップを塗り直したばかりの唇を、わずかに歪めて笑った。


「その『最高にぶっ飛んだ』連中に、最高に刺激的な劇薬を供給するパートナーが必要じゃないかしら? 私、今回の特許売却で一生遊んで暮らせるお金を手に入れたけど……。あそこにいる二人を見てたら、平凡な引退生活なんて退屈すぎて死んじゃいそうよ」


 カイルは一瞬、意外そうに眉を上げたが、すぐに口角を吊り上げた。


「……いいだろう。ちょうど、内海が計算できない『奇跡』と、ヴィクターが切り刻めない『毒』を扱う専門家を探していたところだ。アステリズム・ワークスへようこそ、――『魔女』」


「ふふ、いい呼び名ね。気に入ったわ!」


 こうして、銀河最高の学術機関を震撼させた天才は、その本名を封印した。

 彼女が次に袖を通したのは、汚れなき純白の白衣ではない。

 毒と薬、そして生と死が複雑に交差する、カオスなギルドの「医療室」という名の戦場だった。


 手術が成功してから半年。

 春の柔らかな光が降り注ぐ病院の庭園を、二人の女性がゆっくりと歩いていた。


 一人は、かつての麻痺が嘘のように、土の感触を確かめるように一歩ずつ踏みしめて歩く親友。

 そしてもう一人は、実験の副作用が完全には抜けきらず、時折ふらつきながらも、新作のサングラスを気取ってかけたメリッサである。


「……信じられない。私、本当に自分の足で歩いてるのね」


「当たり前でしょ。あの二人がメスを握って、私が薬を調合したんだから。治らないはずがないわ」


 メリッサは誇らしげに胸を張るが、その足取りは相変わらず危なっかしい。

 親友はそんな彼女の腕を、今度は自分が支えるようにして笑った。


「それで、メリッサ。卒業後の進路は決めたの?」


「ええ。カイルさんのところ……アステリズム・ワークスにお世話になろうかなって。内海さんやヴィクターからも、熱烈なスカウトを受けてるしね。あんなに『毒』と『解剖』に理解がある職場、銀河中探しても他にないもの」


 親友は深く頷き、太鼓判を押した。


「変わった人たちだけど、腕は間違いなく超一流。あそこにいれば、あなたのその有り余る知性と狂気も、きっと正しく使い切れるわ」


「最高の褒め言葉ね。……で、あなたはどうするの? 財閥や政府機関から、それこそ星が買えるようなオファーが来ているんでしょ?」


 親友は少し照れくさそうに、けれど迷いのない瞳で遠くの時計塔を見上げた。


「私、教師になりたいの。多分、学園ここが好きなんだと思う。……入院中に送ることができなかった普通の学園生活を、今度は教える側として取り戻したいのよ。あの日、私たちが失いかけた『知性の誠実さ』を、次の世代に伝えたくて」


「真面目ねぇ。でも、あなたらしいわ」


 メリッサは笑い、ふと思い出したように悪戯っぽく身を乗り出した。


「そういえば、入院中しょっちゅうお見舞いに来てくれてた、あの検査技師の彼とはどうなの?」


 親友の頬が、春の陽光よりも赤く染まった。


「……順調だよ。退院したらアパートを借りて、今度、同棲することになったの」


「あら! 仕事も恋も絶好調じゃない!」


「もう、からかわないで。……でもね、この前、院内の上映会で一緒に映画を見たんだけど、彼、どうやら金髪の女性がタイプみたいで」


 親友は、自分のサラサラとした長い黒髪に指を絡ませながら、困ったように、けれど幸せそうに笑った。


「私……ずっと真面目だけが取り柄だったけど。少しだけ、冒険してみようかなって」


 メリッサはサングラスをずらし、親友の顔を覗き込んで満面の笑みを浮かべた。


「いいじゃない! 染めちゃいなよ。あなたなら、きっと最高に輝く金髪が似合うわ。私が保証する。……だって、あなたは私の一番の親友で、世界で一番美しい『魔女』なんだから」


 二人の笑い声が、庭園の花々に溶けていく。

 一人は銀河の裏側で薬を操る「魔女」へ。

 一人は学び舎で真理を説く「金髪の教授」へ。


 それぞれの未来が、今、明るい光の中に真っ直ぐに伸びていた。


 その頃、大学の権威を象徴する大講堂では、教授陣による激しい議論が紛糾していた。

 議題は、今年の「首席」を誰にするか――。


 不治の病を克服する新薬開発という、人類史に刻まれるべき偉業。その中心人物であるメリッサが相応しいという意見が大半を占めていた。

 しかし、当の本人はその申し出を冷淡に切り捨てた。


「辞退します。その称号に相応しいのは私じゃない。命を懸けて希望を繋いだ親友こそが、真の首席よ」


 断固として首を縦に振らないメリッサに対し、親友もまた、病床から静かに、けれど強い意志を込めて告げた。


「彼女が首席じゃないなら、私がその名誉を奪うわけにはいかないわ。私の命を救ったのは、彼女の執念なのだから」


 二人の天才が互いを譲らない異常事態に、次席以下の成績優秀者たちも続いた。

 彼らは自らの誇りに懸けて、この二人を差し置いて「魔女」の称号を受け取ることはできないと、一斉に辞退を申し出たのである。


 結局、議論は平行線のまま終わりを迎え、その年の卒業生に「首席卒業者は該当なし」という前代未聞の決着が下された。


 本来ならば「魔女」に贈られるはずだった莫大な報奨金。

 それは関係者全員の合意のもと、一つの基金としてプールされることになった。

 薬害に苦しむ患者を救い、そしてかつての彼女たちのように、逆境の中で新薬開発に挑む若き才能を支援し、激励するための基金。


 「魔女」の本名を冠したその基金は、10年が経った今もなお、銀河の片隅で日夜戦い続ける人々の背中を、静かに、けれど力強く支えている。


 星間バイクにまたがった運び屋、ルディが、今日も滑り込むような音を立てて医療室の前に現れた。


「よう、魔女。今日もあんた宛ての『命の重み』が届いてるぜ」


 ルディが投げ渡した数通の手紙。

 それは、かつてメリッサが開発した新薬によって絶望の淵から生還した人々や、彼女の名を冠した基金によって夢を繋ぎ止めた若き研究者たちからの、魂の記録である。


 メリッサはネイルが施された指先で、丁寧に封を切る。

 彼女の精神状態がどんなにハイな時であっても、あるいは実験の副作用で動悸が止まらないローな時であっても、彼女はこの手紙を読む時間だけは、一切の薬を必要としない。


 一字一字を噛みしめるように、静かに、そしてゆっくりと目を通す。

 読み終えた手紙は、引き出しの奥に大切に仕舞われる。

 そこには、彼女が「魔女」として生きるための、唯一無二の対価が積み重なっていた。


 彼女が手紙を読んでいる間、医療室には不思議な沈黙が流れる。


 普段は絶え間なく脳内の情報をアウトプットしている内海は、ふいと独り言を止めて自身のコンソールを見つめ、無機質な静寂を保つ。

 そして、人体の色彩と解剖の美学にしか興味を示さないヴィクターでさえ、この時ばかりは「少し血の匂いを消してくる」と席を外し、扉の向こうへと姿を消す。


 それが、この不器用な男たちなりの、彼女に対する精一杯の気遣いだった。

 銀河最高の栄誉を捨て、自らの肉体を実験台にしてまで真理を追い求めた「魔女」への、最大限の敬意の表れなのだ。


 引き出しを閉める、カチリという小さな音が部屋に響く。

 メリッサは目元を少しだけ緩め、静かになった室内を見渡した。


「……もう、みんなバカね。変なところで律儀なんだから」


 そう呟く彼女の声は、少しだけ照れくさそうで、それでいて隠しきれない幸福感に満ちていた。

 かつて親友と笑い合ったあの庭園の陽光が、今もこの無機質な医療室に差し込んでいるかのように。


 彼女はふっと鼻を鳴らし、いつもの不敵な「魔女」の顔に戻って声を張り上げる。


「さあ、内海さん、独り言の続きをどうぞ! ヴィクターも、隠れてないで戻ってきなさい! 退屈な時間はもうおしまいよ、次の『真理』を見せてもらうわからね!」

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