土と心臓
窓の外からは、いつも楽しげな子供たちの声が聞こえていた。
銀河有数の財閥、ハミルトン家の令嬢セシリアにとって、その声は遠い星の瞬きよりも届かない、別世界の音だった。
先天性の心臓疾患。白いシーツ、消毒液の匂い、そして胸の奥で今にも止まりそうに刻まれる、弱々しい鼓動。それが彼女の世界のすべてだった。
だが、奇跡は起きた。
『生と死』と称される狂気の医療チームによる移植手術。
新たな心臓が彼女の胸に収まった瞬間、セシリアの人生は爆発した。
「くぅ〜……! いま、私、最っ高に生きてるって感じ!!」
銀河の最果て、未開拓惑星『デメテル・プライム』。
テラフォーミングの重機すら磁気嵐で沈黙するこの過酷な大地で、泥だらけの顔をして叫ぶ女性がいた。
かつての青白い令嬢の面影はない。
陽に焼けた肌、逞しく引き締まった腕、そして片手には使い込まれたクワと、大樹をもなぎ倒す重斧。
彼女が移植後に没頭したのは、テニスでも乗馬でも、ましてや社交界のダンスでもなかった。
最初は屋敷の庭師の手伝いだった。指先に触れた湿った土の冷たさ、芽吹く命の力強さ。それに触れた時、彼女は気づいたのだ。
「私の新しい心臓は、泥と汗の中で一番激しく動くんだわ!」
彼女が未開拓の星へ飛び出すと言い出した時、周囲は絶叫した。だが、彼女に付き従う執事やメイドたちは違った。
「お嬢様が土を耕すというのなら、我々は銀河最高の農耕集団になるまでです」
今や彼女のチームは、ただの使用人ではない。
フリルを脱ぎ捨て、防護服に身を包んだメイドたちは植物病理学と害虫駆除のスペシャリスト。
燕尾服を脱ぎ、土壌分析器を掲げる執事長は、微生物学と地質学の権威。
彼らはセシリアという「開拓者精神」の旗印のもと、機械が立ち入れない極限環境に生身で突き進む、銀河最強の農耕エリート集団へと変貌していた。
「お嬢様、あちらの岩陰に……また『見たこともない知的生命体』がこちらを覗いています。挨拶してまいりますか?」
「後回しよ! それよりこの苗を見て! この過酷な環境で、新しい芽が出たのよ!」
彼女は知らない。
自分が踏破した未踏の地が、後に銀河連邦の公式記録となることを。
自分が野菜を育てるために接触した異星人たちが、歴史的な「ファーストコンタクト」として教科書に載ることを。
彼女にとっては、新種の発見も銀河記録も、目の前の土から得られる「生の充足感」に比べれば些細な副産物に過ぎなかった。
数週間後。
ボレアスの凍てつく空気の中に、一台の星間バイクが滑り込んできた。
運び屋ルディが置いていったコンテナの中には、まだ湿った泥のついた新鮮な野菜と果物、そして一通のアナログな手紙が入っていた。
ギルドのキッチンで、ロレッタが丁寧にリンゴの皮を剥いている。
「見て、カイル。今回のセシリアのリンゴ、去年よりずっと甘いわ。あの子、また土の配合を変えたのかしら」
カイルはその横で、封を切られたばかりの手紙を眺めている。
筆圧で紙が少し波打った、セシリアの癖のある文字。
『カイルさん、今回のカブは会心の出来よ。みんなで食べて。生きてる味がするわよ!』
「……ルディの奴、途中で海賊の艦隊を三つも蹴散らしてまで、このカブを届けに来やがった。『鮮度が落ちたらお嬢様に殺される』だとさ」
「ふふ、いいじゃない。おかげで今日の夕飯は、銀河で一番贅沢なシチューよ」
超空間跳躍が当たり前の時代に、わざわざ誰かが命懸けで運んでくる、泥のついた産物。
数式に追われるゼインも、過去を背負うサマエルも、ロレッタが作ったシチューを口にする時だけは、自分たちが血の通った「人間」であることを思い出す。
カイルは苦笑しながら、ボレアスの冷えた空気の中でそのカブを齧る。
それは確かに、宇宙のどんなものよりも、力強く「生」の味がした。




