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燃え滾る熱

「――火を消すな! パウロ、右のスロットルを固定しろ! 圧が逃げるぞ!」


 若き日のロレッタの鋭い声が、煤けたガレージの天井に跳ね返った。

 そこは、後の大企業「ゼニス・ソリューションズ」の胎動の地。当時のゼニスは、場末の惑星の裏通りにある、看板すら傾いた小さな機械修理店に過ぎなかった。


「言われんでも分かっとるわ! だがこのボルト、ネジ山が馬鹿になっとるぞ。ロレッタ、予備を……」


「予備なんてあるわけないでしょ! 隣のスクラップ山から拾ってきなさい!」


 二十代のパウロは、今では想像もつかないほど泥臭い作業着に身を包み、顔中をオイルで黒く汚しながら、唸りを上げるエンジンの横腹に張り付いていた。

 彼の横では、創業メンバーの一人である巨漢のボルグが、素手で熱せられた鉄パイプを強引に曲げながら咆哮している。


「計算なんて知るか! 繋がれば動くんだよ、繋がればな!」


「ボルグ、お前のその雑な仕事のせいで、さっきから私の演算結果が狂いっぱなしよ!」


 端末を片手に叫ぶのは、若き日のアイリス……を彷彿とさせるような、神経質で毒舌な天才プログラマー、カレンだ。


 怒号、金属音、火花。そして、安物の合成ビールをあおりながら、あーでもないこーでもないと、朝まで続く泥臭い議論。

 当時の彼らには、権威も予算も、整った会議室もなかった。あるのはただ、目の前の壊れた機械を「絶対に直す」という狂気にも似た情熱だけだった。


「……あの頃は、誰も『数字』なんて見ていなかったわね」


 ロレッタは、アステリズムの地下工房で、若き日の自分を思い出すように、古いハンダごてを置いた。

 ゼニスが巨大化するにつれ、ボルグは「安全基準の壁」に阻まれて現場を去り、カレンは「効率化」の波に飲み込まれて数字の奴隷となった。パウロは立派な顎ひげを蓄え、30万人の生活を背負う「会長」という名の孤独な頂に登り詰めた。


 活気は洗練に代わり、喧騒は統制に代わった。

 かつての仲間たちは、いつしか「完璧な歯車」として振る舞うことを求められるようになり、笑い声の代わりに、冷たい会議室の空調の音だけが響くようになった。


 そんなある日、ロレッタがゼニスの最新鋭ラボで、魂の抜けたような若手エンジニアたちに囲まれて溜息をついていた時のことだ。


「……ずいぶんと、冷え切った場所ですね。ここは」


 不意に声をかけてきたのは、場違いなほどリラックスした足取りで歩いてくる、安物のコートを羽織った男、カイルだった。

 彼は、最新鋭のセキュリティをどう潜り抜けたのか、まるで近所の喫茶店にでも入るような顔をして、ロレッタの前に立った。


「……驚いたわね。銀河連邦の監獄より厳しいと言われるゼニスのセキュリティを抜けて、私の前に現れる人間がいるなんて」


 新進気鋭の人材派遣ギルド「アステリズム・ワークス」の若き責任者。パウロ会長が、近頃「面白い男がいる」と、苦々しくも楽しげに語っていた人物だ。


「どうやってここへ? 警備ロボットのセンサーは、アリ一匹逃さないはずだけど」


「うちには優秀な『運び屋』がいるんです」


 カイルは不敵に笑い、窓の外の虚空を指差した。


「彼の手にかかれば、『人一人』を『厳重なセキュリティに守られた大企業のラボ』へ配達するなんて、造作もありません。……まあ、彼は今頃、屋上で追っ手を撒くのに忙しいでしょうが」


 ロレッタは、その言葉の裏にある「運び屋」の、非常識なまでの腕前を察した。

 そして、それを手足として使いこなす目の前の男の不遜さも。


「パウロから話は聞いているわ。……それで、若きギルドの長が、私に何の用? 見学なら他を当たりなさい。ここは今、世界で一番『正しい』答えを出す場所なんだから」


「『正しい』かもしれませんが、『生きた』答えには見えませんよ。ロレッタさん」


 カイルはそう言って、ポケットから使い古された、オイルの染みた小さなボルトを一つ、彼女の作業台に転がした。


「うちの事務所の換気扇が、どうしても変な音を立てるんです。ゼインって生意気なガキが計算しても、ルディって運び屋が蹴っ飛ばしても直らない。……たぶん、あいつらに足りないのは、機械の『寝息』を聞く耳なんです」


 ロレッタはそのボルトを手に取った。安物だが、丁寧に磨かれ、愛着を持って使い込まれた跡があった。

 カイルの瞳の奥には、かつてパウロが持っていた、そして今のゼニスが忘れてしまった「燃え滾る熱」が宿っていた。


「……私の給料は高いわよ。ゼニスなら、一生遊んで暮らせる年金が出るわ」


「うちは安月給ですよ。おまけに、毎日誰かが喧嘩して、誰かがトラブルを起こす。お茶を飲む暇もないくらい、騒がしくて最悪な場所です」


 カイルは不敵に笑い、右手を差し出した。


「でも、あそこにはまだ『遊び』があります。機械も、人間も、完璧じゃないからこそ面白い。……あなたも、久しぶりに『熱い珈琲』が飲みたくなったんじゃないですか?」


 ロレッタは一瞬、背後の冷たく静まり返った広大なオフィスを見やり、それから目の前の、未来の厄介ごとを楽しみにしているような男の顔を見た。


「……分かったわ。カイル、一つ条件があるの」


「何でしょう?」


「全員分のティーカップを用意してちょうだい。それと、アップルパイを焼くためのオーブンもね。……どうせあなたのところにも、油にまみれて食事も忘れるような、しようのないバカが揃っているんでしょう? 誰かが餌をやって、手綱を引いてあげないとね」


 ロレッタがカイルの手を握った瞬間、失われていたはずの情熱が伝わってきた。

 それは、かつて小さな修理店でパウロと誓い合った、あの日の熱そのものだった。


 数日後、パウロに「人の温もりがある場所へ行く」とだけ告げ、彼女は帝国の玉座を捨てた。

 アステリズム・ワークスの、錆びついた扉を叩くために。


 ゼニス本社ビルの屋上。迎えに来たルディの星間バイクに跨り、ロレッタはボレアスの錆びついた空へと飛び立った。


「ねえ、あなたのバイク、少しだけ点火タイミングがズレているわ。……後で直してあげるから、最高に飛ばしなさい!」


「……やれやれ、最高のエンジニアってのは、挨拶より先に説教をするのが決まりらしい」


 ルディは苦笑しながらスロットルを回した。

 アステリズム・ワークスの騒がしい日常に、新たな「音」が加わった瞬間だった。

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