皇帝と歯車
銀河の至る所にそのロゴが刻まれている。軌道エレベーターのメインシャフトから、辺境を走るテラフォーミング重機のボルト一つに至るまで。
従業員30万人を擁する超巨大企業「ゼニス・ソリューションズ」は、もはや単なる会社ではなく、人類の生存圏を支える巨大な精密機械そのものだった。
その頂点に立つ男、パウロ会長は、立派な白髭を蓄えた恰幅のいい老紳士だ。
彼は時折、その巨大な帝国の重圧から逃れるように、錆びついたボレアスの街角にある小さな事務所を訪れる。
「……ふむ。やはりここの珈琲は、温度設定がデタラメだな」
「文句を言うなら、おたくの全自動サーバーでも使いなよ、パウロさん」
カイルは苦笑しながら、手淹れの珈琲をパウロの前に置いた。
パウロはそれを嬉しそうに啜り、使い古されたソファに深く身を沈める。
そこは、ゼニス・ソリューションズの役員会議室にある、どの高価な革椅子よりも彼を安らがせた。
かつてパウロが20代の頃、ゼニスは数人の仲間たちと始めた小さな機械修理店に過ぎなかった。
オイルの匂いと、夜通し続く怒鳴り合い。無秩序だが、そこには明日を創るという確かな「熱量」があった。
しかし、一代で築き上げた帝国は、成長と共に変質していった。
今のゼニスを動かしているのは、血の通った人間ではなく、一片の欠けもない「歯車」たちだ。
広大な会議室で、眉間に皺を寄せた幹部たちが睨みつけるのは、人々の暮らしではなく、無機質なモニターに踊る予算と採算の数字だけ。
意見せず、逆らわず、均一に統制されたエリートたちが、かつてのゼニスが持っていた「騒々しい活気」を、効率という名の下に削り落としてしまった。
ロレッタがゼニスを去ったのも、その冷たさに耐えられなかったからだ。
彼女がアステリズムへ移る際、パウロに告げた言葉は、今も彼の胸に棘のように刺さっている。
『パウロ、アステリズムにはね、ゼニスが失くしてしまった「人の温もり」があるのよ』
パウロは「いい人」だ。それは間違いない。
だが、彼は自分でも気づかぬうちに、組織という名の巨大な怪物の手綱を握り損ね、その熱が失われていくのを止められなかった。
「……カイルよ。やはり、わしの後継者になってはくれんかの? お前さんなら、この広がりすぎたゼニスに、もう一度火を灯せるかもしれん」
パウロは冗談めかして、しかし瞳の奥に切実な光を宿して問いかけた。
彼は、アステリズム・ワークスの中に、かつての自分たちが持っていた「燃え滾る熱」を見ていた。
騒々しく、無秩序で、けれど誰一人として交換可能な歯車などではない、生き生きとした人間の鼓動。
「パウロ会長こそ、うちに来ませんか? 歓迎しますよ。名誉顧問の椅子くらいなら、ロレッタの隣に用意できる」
カイルの軽やかな返しに、パウロは困ったように、白髭を撫でた。
「30万の従業員たちを放り出すわけにはいかんのじゃ。不器用で、自分たちが機械の一部だと思い込まされているあの子たちも、わしにとっては家族に等しい『宝』なんじゃよ」
パウロがそう答えるのを、カイルは分かっていた。
「僕もですよ、会長。ここにいる連中は、僕の『宝』なんです」
パウロははっとして、それから豪快に笑い声を上げた。
「……ほっほっほ! こりゃあ、一本取られたわい。全く、お前さんはいつもわしの喉元に一番鋭い正論を突きつけてくる」
事務所の隅では、元ゼニス社員のアイリスが、パウロの持ち込んだ最新の機密設計図を熱心に読み解いていた。
彼女がゼニスの潔癖すぎる組織の中で孤立し、心を病みかけていた時、そっとカイルに紹介状を書いたのはパウロ自身だった。
「アイリス、ゼニスの次世代型重機に不具合が出ていると聞いた。お前のその『正しすぎる目』で、連中の鼻を明かしてやってくれんか?」
「……会長、今の私はアステリズムの社員です。ゼニスの予算会議に付き合うつもりはありませんが、設計のミスを見逃すほど、落ちぶれてもいません」
アイリスの冷淡だが誇り高い言葉に、パウロは満足げに頷く。
ゼニス・ソリューションズという巨大なシステムが、その重みで「熱」を失っていくのは、組織の宿命かもしれない。
だが、パウロがこうして時折、小さな事務所で珈琲を啜り、毒づくゼインや忙しなく動くミアの姿を眺めることで、彼は自分の原点を辛うじて繋ぎ止めていた。
「さて、そろそろ戻るとしよう。秘書たちが今頃、予算未達の報告書を持って泡を食っているはずじゃ」
立ち上がった老巨人は、再び「会長」の仮面を被る。
だが、その足取りは来た時よりも幾分か軽い。
アステリズム・ワークスの手に余る大きな仕事があればパウロが裏で手を回し、ゼニスが失った「現場の勘」が必要な時はカイルたちが動く。
巨大な精密時計と、不揃いなガラクタの山。
その奇妙で良好な関係は、銀河の片隅で、今日も静かに、そして熱く続いていた。




