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欠片と地図

 星屑が漂う辺境の惑星ボレアス。

 錆びついたドーム都市の空は、今日も分厚い鉛色の雲に閉ざされている。

 その一角、古びた真鍮の看板を掲げた人材派遣ギルド「アステリズム・ワークス」の事務所には、安物の珈琲の香りと、胃の腑を冷やすような沈黙が満ちていた。


「――これで今月、三人目よ。カイル」


 副責任者のリンが、ホログラムディスプレイを乱暴に叩いて消した。

 光の粒子が霧散し、事務所に重苦しい静寂が戻る。

 だが、彼女の脳裏には、先ほど泣きながら辞表を叩きつけていった新人エンジニアの、歪んだ顔が消えずに張り付いていた。


「ゼインの技術は確かに銀河一よ。でもね、彼が周囲に撒き散らす『正論』という毒のせいで、まともな人材が次々と潰れていく。ギルド全体の士気も最悪だわ。組織として見れば、彼は完全に赤字なの。……いい加減に切り捨てるべきよ」


 責任者のカイルは、使い込まれたマグカップを両手で包み込んだまま、静かにリンの言葉を受け止めていた。


「リン。お前が数字と規律で組織を守ろうとするのは正しい。俺たちは慈善事業じゃないからな」


 カイルはゆっくりと顔を上げ、濁った窓の向こうを見つめた。


「だが、ここはまともな社会からこぼれ落ちた規格外の連中が、最後に行き着く掃き溜めだ。どんなに扱いづらくても、あいつの根底にある『正しさ』を切り捨てちまったら、俺たちがここに看板を掲げている意味がなくなる。……あいつは今でも、薄氷の上を歩いているんだ」


「それはあなたの個人的な感傷よ、カイル! 私たちはみんなの居場所を守らなきゃいけないの!」


 リンが身を乗り出したその時、事務所の空気を切り裂くように、けたたましい緊急警報が鳴り響いた。

 ホログラムが真っ赤に染まり、第4区画の異常を告げる。


 大気循環システムが暴走し、ドーム内の酸素濃度が急速に低下し始めているのだ。

 数万人の命が、窒息というタイムリミットに晒されている。


「ゼインを呼べ」


 カイルは即座に立ち上がった。


「現場監督として派遣する」


 地下工房から姿を現したゼインは、警報の赤光を浴びながらも、氷のように冷たい笑みを浮かべていた。


「フン、当然の判断だ。猿どもにシステムの心臓を触らせるわけにはいかないからな」


「ただし、条件がある」


 カイルは、事務所の隅で計算ドリルと格闘し、パニックを起こしている事務員を指差した。


「ミアを連れて行け。お前の監視とサポートだ」


「……は? 経理の端数すら合わせられないあの無能をか?」


 ゼインの侮蔑の視線を、カイルは強い眼差しで真っ向から受け止めた。


「そうだ。これは決定事項だ。行ってこい」


 第4区画の心臓部は、文字通りの地獄だった。

 ひしゃげた配管から高温の蒸気が噴き出し、視界は最悪。


 酸素欠乏により意識が朦朧とする中、現場の技術者たちは、自らの身体を重りにするようにして、巨大な手動バルブを回し、必死に内圧を逃がそうとしていた。


 ドームの下にいる家族を、愛する者たちを死なせるわけにはいかない。

 恐怖と疲労で足はガクガクと震えていたが、彼らはその震える足を自らの拳で殴りつけ、必死に破滅を食い止めていた。


 そこへ、ゼインが到着した。

 彼は現場の惨状を一瞥するなり、携帯端末で瞬時に数式を弾き出し、張り裂けんばかりの声で叫んだ。


「全員、直ちにバルブから手を離せ! その順序で排熱を続ければ、冷却管内でエネルギーの逆流が起きるぞ!」


 張り詰めていた現場の空気が凍りつく。


「なんだと……? だが、圧力を逃がさなきゃメインタンクが保たない!」


「お前たちの『勘』に頼った手動操作では、各バルブの開放タイミングにズレが生じている。そのままでは3分後に圧力のフィードバック・ループが発生し、ドームごと吹き飛ぶ! 全員そこをどけ、俺が最適化した手順の通りに動け!」


 それは、工学的には一分の隙もない、数万人の命を救うための「完璧な正論」だった。

 ゼインはすぐさまメインコンソールに飛びつき、凄まじい速度でタイピングをしながら指示を飛ばした。


「第3バルブを15度開放! 2.5秒後に第4バルブを全開、同時に第1バイパスを閉じろ! 早くしろ!」


 作業員たちは必死に食らいつこうとした。

 しかし、極限の疲労と酸欠状態にある人間の肉体は、ゼインが要求する「機械のような精度」には到底追いつけなかった。


「くそっ、バルブが重い……! 2.5秒なんて無理だ!」


「第1バイパス、固着して――」


 警告音がさらに甲高く鳴り響く。

 ゼインの要求する「コンマ数秒、数度の誤差も許さない」非人道的なまでの精密さは、命がけで戦っていた男たちに、自らの肉体の限界という残酷な現実を突きつけた。


「……駄目だ」


 ひとりの老技術者が、力尽きたように膝をつき、血のにじんだ手からレンチを取り落とした。


「俺たちの腕じゃ、あんたの指示にはついていけない。……もう、終わりだ」


 それは怒りによる職務放棄ではなく、己の限界を悟った者の、深すぎる絶望だった。

 一人、また一人と、作業員たちの心が折れ、動きが止まっていく。


「なぜ止まる! 諦めるな、俺の計算通りに動けば助かるんだ!」


 ゼインの叫びが空しく響く。

 彼はコンソールを叩きながら、さらに指示のハードルを下げようと必死で再計算を繰り返した。

 しかし、被害をゼロに抑えるための数式は、どうしても人間の限界を超えてしまう。


 (……俺が導き出した正解は、誰にも届かないのか。どれほど正しくあろうとしても、結局は親父と同じところへ行き着くのか)


 コンソールを叩くゼインの指先が、微かに震え始めていた。

 画面には「生存率0%」の予測が無慈悲に点滅している。


 その時。

 暴走するシステムと絶望の狭間で、ふわりと、温かい手がゼインの震える指先を包み込んだ。

 ミアだった。


「……ゼインさん。もう、大丈夫ですよ」


「邪魔をするな! 計算を急がないと全員死ぬ!」


「あなたの指先、とても震えています。同じ計算式を、さっきから三回も入力し直している」


 ミアは、ゼインの瞳の奥を真っ直ぐに覗き込んだ。


「……誰も死なせたくないから、怖いんですよね」


 ゼインは息を呑んだ。

 彼女は、彼の傲慢な態度の裏に隠された、ひたむきな「恐怖」を、その震える指先から正確に読み取っていた。


「ゼインさんの完璧な設計図は、彼らの腕の限界を超えています。人間の手は、デジタルなアクチュエーターじゃないわ。……だから、私に『翻訳』させてください」


 ミアはゼインから離れ、絶望に沈む作業員たちの前に進み出た。


「皆さん、顔を上げてください! この人は、怒っているんじゃありません。皆さんを確実に生かして帰すための安全な道筋が見えているのに、それを伝える言葉を知らないだけなんです」


 ミアは、老技術者の油にまみれた手を両手でしっかりと握りしめた。


「彼の完璧なプランを、皆さんのその誇りある手で現実にしてください。私が合図を出します」


 そして、ミアはゼインに向き直った。


「ゼインさん。『2.5秒』や『15度』という数字じゃ人間は動けません。目で見える『合図』を私に教えて」


 ゼインは一瞬の逡巡の後、歯を食いしばって数式を「人間の言葉」に変換した。


「……圧力計の針が、黄色のラインに触れた瞬間だ。そこで第4バルブを全開にしろ」


「分かりました!」


 ミアが現場全体に響く声で叫ぶ。


「第3バルブの皆さん、今です! 第4バルブの皆さん、圧力計を見て……3、2、1、回して!」


 ゼインが瞬時に正解を導き出す計算機なら、ミアは「人間関係」という、この世で最も複雑でバグだらけのシステムを動かす特殊なプログラマーだ。


 ゼインの完璧なロジックが、ミアの熱を帯びた声に乗り、作業員たちの決死の力によって現実のシステムへと反映されていく。

 孤高の「正しさ」と現場の「覚悟」が、ひとつの巨大な歯車として見事に噛み合ったのだ。


 数十分後。エネルギーの逆流は完全に収束し、狂っていた大気循環システムは静かな唸りを取り戻した。

 ドームの天井には、人工的だがどこまでも透き通った「青い空」が広がっていた。


 数日後。アステリズム・ワークスの事務所。

 カイルは、ゼインの前に一枚の契約書を滑らせた。


「今日からお前は、『環境維持技術特化顧問』だ」


 ゼインが訝しげに眉をひそめると、カイルはリンの方を見やってウインクをした。


「このポストに就く者は、組織の指揮系統から外れ、部下を持たない単独の遊撃要員となる。お前のその『正しすぎる指導』で新人が辞めることもなくなる。リンの懸念もこれで解決というわけだ。予算は自由。ただし、現場の人間を動かす必要がある時は、必ずミアを指名しろ」


 リンは腕を組みながら、「……まあ、これ以上現場を引っ掻き回されないなら、妥協するわ」とため息をついた。


 ゼインは契約書を奪い取るように引き寄せた。


「……フン、最初からそうしろ。他人の限界に合わせるなど、俺の仕事ではないからな」


 口ではそう言いながらも、彼が契約書にサインする手つきには、迷いがなかった。

 その横では、またしても騒動が起きている。


「ミア! 予備のネジを百個頼むつもりが、どうして一桁多く発注してるのよ! 倉庫がパンパンじゃない!」


 リンの怒声に、ミアが頭を抱えて縮こまっている。


「えぇっ、ごめんなさい! でも、ほら、たくさんあった方がゼインさんも安心かなって思って……」


 相変わらずの日常。

 ゼインは無言で自身の端末を開いた。

 画面には、第4区画の報告書が表示されている。


 被害状況の欄に並ぶ、全員の生存率『100%』という無機質な数字。

 かつて彼が、一人ではどうしても辿り着けなかった答え。

 ゼインは画面を閉じ、誰に聞こえるでもなく、小さく呟いた。


「……今回の計算結果は、悪くなかった」


 少し離れた席で、カイルは淹れたての珈琲を啜りながら、その様子を静かに見守っていた。


 完璧な人間なんていない。誰もが欠陥を抱えて生きている。

 だが、欠けたピースを組み合わせれば、宇宙を救う地図が描ける。

 ミアがいれば、ゼインの正しさは現実を変える力になる。


「さて、リン。文句は後だ」


 カイルは未解決の依頼リストをホログラムに映し出した。


「次のトラブルだ。どの問題児を送り出そうか?」


 窓の外のボレアスの空は、今日も分厚い雲に覆われている。

 しかし、この小さな事務所の中だけは、確かな熱が脈打っていた。

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