第9話 それぞれの決断
街へ続く古道を下りながら、
リリアは何度も、後ろを振り返りたい衝動に駆られた。
霧はすっかり晴れ、
ほこらはもう見えない。
それでも、
あの小さな石造りの建物が、
今もそこに静かに佇んでいることだけは分かった。
——逃げるんじゃなくて、選ぶ。
昨夜交わした約束が、
足元を支えている。
隣を歩くエリアスは、
フードの影に表情を隠していた。
けれど歩調は、
リリアの速度にきちんと合わせられている。
街の輪郭が見え始めたところで、
エリアスが口を開いた。
「……ここから先は、
少し考えながら進まないといけないな」
「考えながら?」
「追跡は、まだ終わっていないはずだ。
婚活庁の連中も、
真実を隠し続けたい側だからな」
リリアは胸元を押さえた。
マギボードは沈黙している。
けれど、
そこにある事実だけは、
もう誰にも否定できない気がしていた。
「エリアスさんは……
これから、どうするつもりですか?」
問いかける声には、
期待と不安が半分ずつ混ざっていた。
エリアスは少しだけ歩みを緩め、
前方の街並みを見つめる。
「文書院の記録と、
さっきの古い文献を合わせると——」
淡々とした口調だった。
「婚活庁の中枢に、
“真の相性”の情報を知っている人間がいるはずだ。
文書の封印を決めたやつがいる」
「中枢……」
「そこに近づかない限り、
俺たちが“間違っていなかった”と
誰にも証明できない」
理屈は分かる。
リリアも、その必要性は理解していた。
理解してはいる。
けれど——
「……危なく、ないですか?」
「危ない」
エリアスは、あっさりとうなずいた。
「危ないからこそ、
君を連れていくわけにはいかないと思っている」
リリアの足が、
そこで止まりかけた。
自分でも分かるくらい、
胸の奥に小さな棘が刺さる。
「……わたしは、
一緒に選ぶって決めました」
言葉に出した瞬間、
少しだけ声が震えた。
「エリアスさんだけが危ないところに行って、
わたしだけどこか安全なところに隠れてるなんて……
そんなの、嫌です」
エリアスは、
しばらく何も言わなかった。
街の外壁を巡回する兵士たちの姿が見える。
遠くで鐘の音が鳴り、
いつもの一日が始まろうとしていた。
「……君の家族は」
エリアスが、
少しだけ声を落として尋ねた。
「心配しているだろうな」
リリアは胸の奥が
ぎくりと揺れるのを感じた。
家を出るとき、
父も母も
「光に従っていれば大丈夫だ」と
何度も言っていた。
妹は、
婚活庁の宣伝冊子をおもしろがって読んでいた。
——あの人たちは、
今、何を思っているだろう。
「……正直に言うと、
気になってます」
リリアは目を伏せた。
「わたしが“記録外の光”を持ったって知れたら、
家族はどう扱われるんだろうって。
……怖いです」
エリアスの視線が、
横からそっとリリアを捉える。
彼女が、
自分のことだけじゃなく
周囲の人間のことも背負い込もうとしているのが分かった。
「だからこそ、
俺は君を危ない場所に連れていきたくない」
エリアスは静かに続けた。
「制度の中枢に近づくほど、
“記録外の光”は、
ただの数字ではなく“罪”として扱われる。
君まで巻き込んで、
全部を失わせるわけにはいかない」
「……全部って、なんですか」
リリアは顔を上げた。
さっきまで霧に包まれていた瞳が、
まっすぐな光を宿している。
「家族も、
友だちも、
仕事も、
普通の生活も。
……そういうもの全部だ」
エリアスの声は、
淡々としているのに、
その奥にかすかな痛みがあった。
「俺は、
もともと独りで生きるつもりだった。
失うものは少ない。
でも君は、違う」
「わたしだって——」
言い返そうとして、
リリアは言葉を飲み込む。
全部ないふりをして生きてきたわけじゃない。
家族との食卓も、
職場で交わす何気ない会話も、
決して嫌いではなかった。
それでも今は、
胸のどこかで
別のものが大きく息づいているのを感じる。
——エリアスさんと逃げて、
ほこらで過ごしたあの夜の時間。
あの温度を知ってしまった以上、
何もなかったふりをして
元の生活に戻ることの方が
ずっと苦しい。
「エリアスさんは」
リリアは、
少しだけ声を柔らかくした。
「“選ぶ”って、仰いましたよね」
「ああ」
「だったら、
わたしにも選ばせてください」
その言い方は、
責めるでもなく、
お願いするでもなく。
ただ、自分の足で
自分の重心を支えようとしている人の声だった。
エリアスは、
わずかに目を細める。
「君は、どうしたい?」
問われて、
リリアは一瞬だけ迷った。
すべてを投げ捨てて、
エリアスの後を追いたくなる衝動は確かにある。
でも同時に——
家族が今どんな顔で一日を迎えているのか、
知らないままで進むことも、やはり怖かった。
「……家の近くまで、行きたいです」
やっとの思いで言葉を絞り出す。
「直接会うのは危ないかもしれないけど、
様子だけでも、知りたい。
わたしがいなくなって、
何か起きていないか」
それは、
恋だけを選ぶのではなく、
自分の人生を丸ごと抱え込もうとする選択だった。
エリアスは短く息を吐いた。
「なるほど」
拒むことも、
簡単に肯定することもできない答えだった。
しばらくの沈黙の後、
彼はようやく口を開いた。
「……分かった。
君がそうしたいなら、止めない」
リリアの胸に、
一瞬だけ安堵が広がる。
だが続く言葉が、
その安堵を別のかたちに変えた。
「その代わり、
俺も俺の行きたい場所へ行く」
「エリアスさんの……行きたい場所?」
「婚活庁の中枢だ」
短く、はっきりとした言葉だった。
「“真の相性”を
ただの古い言い伝えとして葬った連中がいる。
そこに、
俺たちが追われている本当の理由がある」
リリアの指先が、
わずかに震えた。
「危険なのは分かってる。
多分、正面から会おうとすれば、
俺は“問題のある職員”として処理されるだろう。
でも——」
エリアスは小さく笑った。
「今さらだな」
その笑いは、
開き直りではなく、
どこか肩の力が抜けたような色をしていた。
「君と出会って、
ほこらで夜を過ごして、
真実の一部を知って。
……もう、
ただ書類の端っこに感想を書き留めているだけの人生には戻れない」
リリアは、
胸が痛くなるのを感じた。
エリアスの言っていることは、
理解できる。
そして、その気持ちも分かってしまう。
だからこそ——
自分だけが安全なところにいることが
一層耐え難く感じられた。
「一緒に行けませんか」
気づけば、
言葉が口から出ていた。
「危ないかもしれないけど……
でも、
エリアスさんだけが傷つくところを見る方が、
もっと怖いです」
エリアスは、
リリアの瞳をじっと見つめた。
そこには、
昨夜ほこらで見た
決意の光が残っている。
それでも——
「……だめだ」
静かに、
しかし揺らぎなく言った。
「俺は、自分で選んで危険な場所に行く。
でも君に、それを強いることはできない」
「強いられてなんか——」
「たとえ君が“行きたい”と言ってもだ」
エリアスは言葉を重ねた。
「俺は、
君がこの先、
何を失ったとしても、
“あのとき一緒に行ったからだ”と
自分を責めるような未来を、見たくない」
リリアは、
それ以上何も言えなくなった。
エリアスの言葉は、
矛盾しているようで、
残酷なほど優しかった。
——守りたいから、遠ざける。
そんなやり方があるなんて、
ずるい。
ずるいと思うのに、
その気持ちも分かってしまう自分が
もっとずるい。
「……わたしたち」
しばらくの沈黙のあと、
リリアがぽつりと呟いた。
「一緒に選ぶって、
約束したと思ったのに」
エリアスは、
ほんの一瞬だけ目を閉じた。
「ああ。
その約束は、
今も変わっていないつもりだ」
「だったら——」
「だからこそ、
“それぞれで選ぶ”必要がある」
リリアは、
その意味をすぐには理解できなかった。
「一緒にいるときにだけ、
勇気を出せるような選び方じゃ、
すぐに折られてしまう」
エリアスは、
自分に言い聞かせるように続ける。
「俺は俺で、
君は君で。
別々に、自分の足で立って選ぶ。
そのうえで——
もう一度会えたなら」
そこで、
彼は言葉を切った。
続きは、
喉の奥に押し戻される。
リリアは、
目の奥が熱くなるのを感じながら
問いかけた。
「……もう一度、会えると思いますか」
「会いに行く」
エリアスは、
即答した。
「生きている限り、
何度だって」
リリアの視界が
にじみそうになる。
それを悟られたくなくて、
慌てて顔を背けた。
***
街の入り口近くの三叉路で、
二人は足を止めた。
右に行けば、
リリアの家がある住宅区へ。
左に進めば、
婚活庁と行政の庁舎が並ぶ中央区だ。
真ん中の道は、
市場と広場へ続いている。
エリアスは、
リリアの方へ向き直った。
「……ここで、一度別れよう」
その言葉が、
現実になった瞬間だった。
リリアは、
胸のどこかがぽっかりと空く感覚を覚える。
「……はい」
返事は、小さな声だった。
「わたし、
家の近くまで行ってみます。
ちゃんと、
自分で決めたこととして」
エリアスはうなずいた。
「無理はするな。
危険だと思ったら、すぐ離れてくれ」
「エリアスさんこそ」
リリアは、
思わず言い返した。
「危険なところに行くのなら……
絶対、戻ってきてください」
その言葉は、
ほとんど祈りに近かった。
エリアスは、
柔らかく笑う。
「約束しよう」
そう言って、
手を差し出した。
握手なのか、
それとも別の何かなのか。
形は分からない。
けれどリリアは、
その手に自分の手を重ねた。
ぬくもりが伝わる。
マギボードとは関係のない、
生身の人間の温度。
それだけで、
涙がこぼれそうになる。
「次に会うときは」
エリアスが言う。
「俺たちそれぞれが、
自分で選んだ答えを持ち寄ろう」
「……はい」
リリアは、
かろうじて笑顔を作ってみせた。
「わたし、
逃げてるだけの自分には戻りませんから」
エリアスは、
その笑顔をしっかりと目に焼き付ける。
「それでいい」
手を離す。
指先の温度だけが、
しつこく名残を主張した。
***
リリアは右の道へ、
エリアスは左の道へ。
二人の背中は、
ゆっくりと離れていった。
振り返れば、
すぐにそこにいる距離。
それでも、
互いに振り返ることはしなかった。
足を止めた瞬間、
決意まで揺らいでしまいそうで怖かった。
——次に会うときまで。
自分で選んだ道を、
自分の足で歩いて行けるように。
リリアは、
胸元の板にそっと触れた。
(エリアスさん……)
名前を呼ぶ声は、
自分の胸の内側だけに響いた。
返事はない。
光もない。
それでも、
ぬくもりの記憶だけが
確かな地図になっていた。
エリアスもまた、
歩きながら掌を握りしめる。
マギボードは沈黙したまま。
けれど、自分の中で何かが
もう元には戻らない形になっているのを感じていた。
(制度に挑むなんて大げさな話じゃなくていい。
それでも——)
自分の目で見て、
自分の言葉で問いただしたい。
“真の相性”を恐れた者たちに。
“記録外の光”を消した者たちに。
どうしてそんなに、
人の選択を怖がるのか、と。
エリアスは顔を上げた。
婚活庁がある中央区の塔が、
陽の光の中で白くそびえている。
そこへ向かって歩き出す背中を、
誰かが遠くから見ていた。
黒いローブをまとった監視官がひとり、
人混みの影に紛れて
静かにエリアスの後を追う。
一方、
住宅区へと向かう道の方角でも、
別の視線がリリアの背中を追っていた。
ふたりはまだ知らない。
自分たちが“選ぶために離れた”その一歩が、
制度との本当の衝突への
序章になりつつあることを。
第十話へつづく。




