第7話 ほこらの一夜
しばらくのあいだ、
世界には自分たちの呼吸音しかないのではないか——
そんな錯覚さえした。
ほこらの入口から差し込む光はわずかで、
外の霧と土の匂いが、かすかに中へ入り込んでくる。
エリアスとリリアは、向かい合ったまま、
まだ手をつないでいた。
つないでいるというより、
互いに「離し方が分からない」でいるような、
ぎこちない握り方だった。
先に指をほどいたのはリリアだった。
「あ……ご、ごめんなさい。わたし……」
ぱっと手を引こうとした瞬間、
エリアスの指が、反射的に彼女をつなぎ止めた。
「あ……」
今度は、エリアスの方が気まずそうに目をそらす。
「……すまない。
その……誰かの手をこんなふうに握るのが、
久しぶりで」
言いながら、ようやく指を離した。
掌に残った温度だけが、現実だったことを証明している。
リリアは、胸の前でそっと両手を組んだ。
顔が熱くなる。
夜の冷気とはまるで別の熱だった。
「いえ……あの、ありがとうございます。
逃げてくれて、じゃなくて……
一緒に、逃げてくれて」
言葉がもつれ、
自分でも何を言っているのか分からなくなる。
エリアスは小さく息を吐き、ほこらの奥に目を向けた。
「ここなら、しばらくは安全だと思う。
昔の祭祀場の名残らしくてな。
魔力の流れが乱れている。
追跡の術も、ここまでは届きにくいはずだ」
「……そんな場所が、あるんですね」
「文書院の記録で、ちらっと読んだだけだ。
正直、ただの噂だと思っていた」
そう言って、
エリアスは自分のマギボードを取り出した。
掌の上に乗せると、
板はすぐに彼の体温を吸い込むように、
わずかなぬくもりを返した。
光は出ない。
文字も浮かばない。
けれど、その沈黙は
さっきまでの冷えた石ではなく、
確かに「誰かが触れた後」の感触を残している。
リリアもポケットから板を取り出した。
自分の板を両手で包み込む。
「……静かですね」
「怒られているのかもしれないな。
勝手なことをするな、とか」
冗談めかして言ったつもりだったが、
自分の声が思った以上に低く響いて、
エリアスは少しだけ眉をひそめた。
リリアはふっと笑った。
「だったら、
わたしも怒られてますね。
“回収箱に入れなさい”って言われたのに、
逃げてきましたから」
「……逃げてくれて、よかった」
エリアスの口から漏れた本音に、
ほこらの空気がすこし変わった。
リリアは板を胸元に抱き寄せる。
「エリアスさんは……どうして逃げたんですか?」
問いかける声は、
ほこらの天井にやわらかく跳ね返った。
少しの沈黙のあと、
エリアスは視線を足元に落とした。
「……怖かったからだ」
「怖かった?」
「板をじゃない。
“あの光に名前をつけないまま、
消されること”が、だ」
言葉を探りながら、
ひとつひとつを確かめるように続ける。
「記録にない光は、間違いだと言われる。
危険物だとも。
……それならいっそ、
はじめから何も見なければよかったと
思ったこともある」
リリアは息をのんだ。
それは、
自分が何度も心の中でこっそり繰り返していた
弱さと同じだったからだ。
「でも、見てしまった。
……君の光を」
そこで、エリアスは顔を上げる。
薄暗いほこらの中で、
彼の目がまっすぐこちらを向いた。
「一度見てしまったものを、
“なかったこと”にはできなかった。
怖さよりも、
それを失う方が、ずっと怖かった」
リリアの喉の奥が、きゅっと締めつけられた。
何か言わなくちゃ、と思うのに、
声がすぐには出てこない。
やっとの思いで、
少し笑う形だけ整えてみせた。
「……わたしも、同じです。
あの光を見なかったことにして、
いつも通り、
“無難な相性の相手”と結婚して、
適当な生活を送ることも、
できたのかもしれませんけど」
そこで言葉を切り、
板に視線を落とす。
「でも、
あのとき胸の奥が温かくなったのを知ってしまったから。
それを知らないふりをするには、
……もう遅かったです」
エリアスの胸のどこかが、
静かにほどけた。
自分と同じ言葉が、
他人の口から出てくることがあるのだと
初めて知った気がした。
***
外の気配がだんだんと遠のいていき、
追跡官たちの声も聞こえなくなった。
かわりに、
夜の冷気が少しずつほこらの中に入り込んでくる。
リリアが肩をすくめた。
薄い服の上からでは、
この時間の冷たさは堪える。
「大丈夫か?」
「す、少しだけ……寒いです」
リリアが苦笑いを浮かべると、
エリアスは迷うことなく外套を脱いだ。
「これを。
俺は慣れている」
「でも、それじゃあエリアスさんが——」
「文書院の書庫はもっと寒い。
これくらい、どうということはない」
半分は本音で、半分は強がりだった。
それでも、
差し出された外套には、
さっきまで彼の体温が染み込んでいた。
リリアは両手で受け取り、
そっと肩にかけた。
布越しに、
さっきまでつないでいた手の温度を思い出し、
胸がわずかに高鳴る。
「ありがとうございます」
小さく頭を下げると、
エリアスは「どういたしまして」とだけ答えた。
それ以上の言葉が見つからなかった。
二人は少し距離をとって腰を下ろした。
ほこらの中には古い石の台があり、
それが簡易のベンチのような役目を果たしてくれる。
互いの姿は見える距離。
触れようと思えばすぐに届く距離。
それでも、
今はそっと空間を残して座るのが
精一杯だった。
***
マギボードは、
二人の手の中で静まり返っていた。
リリアが、
自分の板を見つめながらぽつりと呟く。
「……本当に、
光らなくなっちゃいましたね」
「ああ」
エリアスも、自分の板をじっと見つめた。
「壊れてしまったのかもしれない。
制度の外に出た罰か、
ただの寿命か」
そこで一度言葉を切り、
ゆっくりと息を吐く。
「でも、
もうどちらでもいい気もしている」
「え?」
「光がなくても、
君がここにいることは分かる。
その方が、ずっと確かだ」
リリアの胸の奥で、
何かがほろりと崩れ落ちる音がした。
嬉しくて、
怖くて、
それでも聞き逃したくない言葉だった。
「……ずるいです」
小さくそう漏らす。
「え?」
「そんなふうに言われたら、
わたし、もっと……」
そこで言葉が止まってしまった。
喉の奥から、それ以上の音が出てこない。
エリアスは、
その先の言葉を無理に引き出そうとはしなかった。
代わりに、自分の本音だけを
静かにそっと置く。
「会えて、よかった。
板の文字じゃなく、
声で……君の言葉を聞けて」
ほこらの空気が、
少しだけ柔らかくなる。
リリアは、
自分の両膝を抱え込むようにして座り直した。
「……わたしもです。
エリアスさんが本当にいるって、
こんなふうに隣に座ってるんだって、
まだうまく信じられないのに」
そこで笑って、
でも笑いきれない表情で続ける。
「それでも、うれしいです」
***
時間の感覚が、
少しずつ曖昧になっていった。
ほこらの外では、
ときおり遠くで声がする。
追跡の網は完全には解けていないのだと、
そのたびに思い知らされる。
それでも、
この小さな空間だけは
世界から切り離されているかのようだった。
リリアが、
石の台に寄りかかったまま、目をこする。
「眠いのか?」
「……少しだけ」
「眠っていい。
見張りくらいは、できる」
「エリアスさんこそ、
ずっと起きてたら身体に悪いですよ」
「文書院の徹夜に比べれば、
こうして座っているだけの方がまだ楽だ」
そう言って、
エリアスはほのかに口元をゆるませた。
「それに、
誰かを起こさないように夜を過ごすのは慣れている。
……父が、よく夜中にうなされていたから」
「……お父さまが?」
「ああ。
義務婚の制度が今ほど厳しくなる前から、
この国の変化を見てきた人だった。
光に従って結婚したのに、
ずっと何かを後悔しているようだった」
リリアは目を瞬いた。
エリアスが、
自分の家族の話をするのは初めてだ。
「だから、
俺はいつの間にか決めていたんだと思う。
“誰かに決められた相手”と生きるくらいなら、
独りでいいって。
……そう思っていたはずなんだが」
そこで、
ちらりとリリアを見る。
「君とこうして逃げていると、
その決めつけも、
案外あっさりひっくり返るんだな、と」
リリアはうつむいた。
胸があたたかくなるたび、
同じくらいの強さで
不安も押し寄せてくる。
「……エリアスさん」
「ん?」
「もし、
わたしたちが見つかったら、
どうなるんでしょうか」
その問いは、
ずっと二人の足元に横たわっていたものだった。
エリアスはすぐには答えない。
少しだけ考えてから、
正直に言葉を選ぶ。
「……良くて、板の没収。
悪ければ、再教育だろうな」
「再教育……」
「記録にない感情を持つ者は、
“制度への適応が不十分”だと判断される。
聞こえはいいが、
本当のところ、
どんなことをされているのかは誰も知らない」
リリアの指が、
ぎゅっと板を掴んだ。
「……怖いです」
「ああ。
俺も怖い」
エリアスはそれ以上、
軽々しく「大丈夫だ」とは言わなかった。
代わりに、
ほんの少しだけ距離を縮める。
石の台を挟んで座っていた二人の間が、
ゆっくりと近づいた。
肩が触れるか触れないか、
その手前で止まる。
言葉にできない約束が、
その距離の中にそっと置かれたようだった。
***
やがてリリアは、
外套にくるまったまま、
静かに目を閉じた。
緊張が抜けきらないのか、
眠りは浅そうだったが、
それでも睫毛の影が
ほこらの中の暗がりにやわらかく落ちていく。
エリアスは、その横顔を見ていた。
光ではなく、
声と表情で知った彼女は、
文字の向こうで想像していたよりも、
ずっと人間らしくて、
ずっとか弱くて、
ずっと強かった。
自分と同じように、
制度に違和感を覚えていながら、
諦めきれなかった人。
誰かの指示ではなく、
自分の足でここまで逃げてきた人。
(……守りたい、なんて)
そんな大げさな言葉を使う柄ではない。
それでも胸の奥で、
その言葉に似た何かが
しつこく居座ろうとしていた。
マギボードをそっと撫でる。
板は、静かな温度だけを返した。
(光がなくてもいい。
今はそれより——)
エリアスは、
石の床に背を預けたまま、
目を閉じた。
ほこらの天井の向こうには、
星も月も見えない。
それでも、
すぐ隣で誰かが眠っているという事実だけで、
夜はこれまでのどの夜よりも、
やわらかいものに感じられた。
***
どれくらい時間がたっただろう。
ほこらの入口から、
わずかな朝の光が差し込みはじめた。
冷たい空気が、
夜の気配を少しずつ押し出していく。
リリアは、
その変化を肌で感じて目を開けた。
最初に見えたのは、
隣でうとうとしながら座っているエリアスの横顔だった。
少し疲れていて、
それでも、
昨夜よりも表情がほどけているように見える。
「……おはようございます」
小さな声で挨拶すると、
エリアスは肩を揺らし、目を開けた。
「……ああ。
おはよう」
「ちゃんと眠れましたか?」
「少しくらいは。
君の方こそ、寒くなかったか?」
「大丈夫です。
外套、あったかかったです」
そう言って笑うと、
エリアスは安心したように息を吐いた。
ほこらの外から、
遠くの街のざわめきが聞こえてくる。
追跡官たちの声は、もうしない。
代わりに、
いつもの朝の喧騒が
薄い霧の向こうに戻りつつあるのが分かる。
「……どうしますか」
リリアが問う。
「このままずっと隠れているわけにも、
いきませんよね」
「ああ」
エリアスは、
ほこらの入口の光を見つめながら答えた。
「逃げることはできるかもしれない。
でも、逃げ続けるだけでは、
何も変わらない」
「変える……?」
「制度のことも。
俺たちのことも」
“俺たち”という言葉に、
リリアの胸がまた跳ねた。
エリアスは続ける。
「俺はずっと、
制度を遠くから眺めて、
記録するだけの立場だった。
でも今は——
初めて“当事者”になった気がする」
リリアは、
膝の上で握りしめていた手を
ぎゅっと重ねた。
「わたしも……
ただの“義務を果たす一市民”で
終わりたくないです」
顔を上げる瞳に、
夜の迷いはほとんど残っていなかった。
「怖いですけど。
でも、
何もしないで奪われるより、
自分で選んで、
奪われたいです」
エリアスは思わず、
小さく笑った。
「ずいぶん勝手な願いだな」
「……変でしょうか」
「いや。
とても、いい」
そう言って、
エリアスは立ち上がった。
ほこらの入口から差し込む朝の光が、
彼の輪郭を少しだけ明るく縁取る。
「ここから先は、
逃げるんじゃなくて“選ぶ”ことになる。
……それでも一緒に進むか?」
差し出された手は、
昨夜と同じ温度を持っている。
リリアは、
その手をまっすぐ見つめてから、
そっと指先を重ねた。
「はい。
一緒に、進みたいです」
その答えは、
ほこらの中の空気を
新しい朝へと押し出す合図のようだった。
まだ何も決まっていない。
危険も不安も、
これからの方がずっと大きいかもしれない。
それでも——
二人でほこらを出て、
霧の薄れた古道へ一歩踏み出したとき、
昨日までとはまったく違う世界が
足元から始まっていくように感じられた。
第八話へつづく。




