第6話 霧の出会い
夜明け前の空はまだ濃い灰色で、
街の輪郭は霧に溶けていた。
エリアスは静かな寝息を漏らしていた。
だが、不意に胸のあたりがじんと温まり、
まるで誰かに呼ばれたような感覚が押し寄せた。
手のひらの下で、
マギボードがかすかに震えている。
光は出ていない。
だが、薄い石の奥から
“息づくような温度”が指先に伝わった。
「……リリア?」
まだ夢の中のような声が漏れた。
通信制限中のはずだ。
それでも板は、
まるで自分の意思を持った生き物のように、
じんわりと温かさを増していく。
(……会いに来い、ってことか?
それとも……助けを呼んでいるのか?)
胸がざわつく。
その感情を言葉にするより先に、
身体が動いていた。
エリアスは外套を羽織り、
監視官の目を盗むように
静かに部屋を出た。
***
その頃、
リリアの部屋でも同じことが起きていた。
眠っていた彼女の指先に、
ふと温度が宿った。
マギボードが、
胸に寄せていた位置で
心臓の鼓動に合わせるように震えた。
(……え?)
寝ぼけた頭が一瞬で覚める。
光は出ていない。
けれど、確かに“誰か”がそこにいると感じる。
これは間違えようのない温度。
エリアスとの会話を重ねるたび、
何度も感じた
あのぬくもりの延長線。
通信は禁止されている。
それなのに、板はまるで
「ここを離れないで」と訴えかけるように
あたたかさを返してくる。
(エリアスさん……何かあったの?)
胸がぎゅっと縮んだ。
その瞬間、
家の前で重い足音がした。
窓の外を見ると、
婚活庁の制服を着た二人の職員が
家の前に立っていた。
——板の強制回収。
今日がその期限だった。
リリアは息を呑み、
板を胸に押しつけるように抱えて
裏口へ駆け出した。
(行かなきゃ……!
今、行かなきゃ!)
理由は分からない。
ただ、胸の奥で
**「会わなきゃ」**という衝動が
強烈に脈を打っていた。
***
街を出た先の石畳の道は
早朝の霧に包まれていた。
エリアスは板のぬくもりだけを頼りに歩く。
人も魔力測定器も少ない、
街外れの古道だ。
足元の石が濡れていて、
踏むたびにかすかな音を立てる。
音が霧に吸い込まれ、
世界が静かに閉ざされていく。
マギボードは
エリアスの手の中で温度を増し、
まるで行き先を示すように
時折震えた。
「……ここで合っているんだろう?」
追い風の中に混じって、
どこかで衣擦れの音が聞こえた気がした。
誰かが、
同じように霧に迷い込み、
同じ場所へ向かっている。
(……リリア?)
胸が熱くなる。
足を速めた。
***
リリアもまた、
霧の中を進んでいた。
板のぬくもりは強く、
胸元を温め続けている。
不安よりも、
その温度の方がずっと強かった。
(エリアスさん……
どこにいるの……?)
霧の向こうで足音が近づく。
規則的な、落ち着いた足音。
はじめて見るのに、
懐かしさを感じるような気配。
彼女は胸元で板を抱きしめ、
その場で足を止めた。
息が浅くなり、
頬が熱くなる。
霧が揺れた。
歩いてくる影が
ゆっくりと形を帯びはじめる。
***
エリアスの足音が、
霧の白い壁を抜けて
リリアの耳に届いた。
リリアの気配が、
霧の湿った空気の中で
エリアスの胸を温めた。
二人の足が止まる。
霧が、
まるで風に押されたように
静かにひらいた。
そして——
二人は
はじめて
“互いの姿”を見た。
***
エリアスは
呼吸の仕方を忘れたように、
しばらく立ち尽くした。
そこに立っていたのは、
想像よりずっと美しい女性だったからではない。
彼女の瞳を見た瞬間、
胸の奥の“答え”がはっきりしたからだ。
(やっぱり……
この人だ)
リリアもまた、
胸に胸板を押し当てられたような感覚に
息を飲んでいた。
目の前の男性は、
ずっと文字の向こうにいた温度そのままで、
静かで、どこか寂しげで、
そして優しい光を宿していた。
リリア
> 「……エリアスさん、ですか?」
声は震えていた。
けれどその震えには、
恐れよりも喜びが混ざっていた。
エリアス
> 「……あなたが、リリア?」
二人の間に残された霧が
一瞬、風に揺れた。
その揺れが、
二人の距離をほんの少し縮める。
***
リリアの手の中のマギボードが
あたたかさを返した。
エリアスの板も
同じ温度を帯びている。
光らない。
通信しない。
ただ静かに“同じぬくもり”を持っている。
その事実だけで、
胸がいっぱいになった。
エリアス
> 「……会えて、よかった」
小さくて、
けれど言葉より重い一言だった。
リリアの視界が
少しだけ滲んだ。
リリア
> 「わたしも……
ずっと、会いたかったんです」
二人の間の空気が
ゆっくりと温度を帯びはじめる。
霧に包まれた古道の上で、
世界から二人だけが切り離されているような静けさ。
もう一歩。
あと一歩で、
手が届く距離。
その瞬間——
「……いたぞ!」
霧の奥から声が響いた。
金属のぶつかり合う音と、
複数の足音。
婚活庁の追跡官たちだ。
「未登録の光の反応!
この近くにいる!」
リリアの肩が跳ねた。
エリアスの胸が強く締まる。
けれどその瞬間、
エリアスは自然と彼女の手を取っていた。
> 「こっちだ!」
二人は霧の奥へと駆け出す。
霧の中で手と手が離れない。
板のぬくもりが、
手のぬくもりと重なって消えない。
足音が迫ってくる。
(……だめだ、追いつかれる)
エリアスがそう思ったとき、
霧の向こうに
苔むした古い ほこら が見えた。
小さく、古く、
今にも崩れそうなのに、
どこか神聖な気配をまとっている場所。
エリアス
> 「ここだ!」
二人はその中へ身を滑り込ませる。
静寂。
霧の音も、金属の音も遠ざかる。
ほこらの内部には、
古い結界が残っていた。
追跡官たちの魔力探知が届かない。
暗がりの中で、
二人の呼吸だけが響いた。
手はまだ、繋いだまま。
リリア
> 「……エリアスさん……」
エリアス
> 「大丈夫。ここなら……」
言葉が途切れる。
ただ、手のぬくもりだけが
互いを確かめる。
リリアは、
逃げてきた恐怖よりも、
目の前の男性を離したくない気持ちの方が
ずっと強くなっていた。
> 「……もう、離れたくありません」
静かな、
けれど震えない声。
エリアスは返事の代わりに
そっと彼女の手を握り返した。
その手は温かくて、
現実で触れられるのが
奇跡のように思えた。
ほこらの外では、
追跡官たちの声が遠ざかっていく。
二人は暗がりの中、
ただ互いの手の温度を感じながら
そっと息を整えた。
——もう、光ではなく。
——ぬくもりでもなく。
目の前にいる
“あなたそのもの”を
離したくないと思っていた。
第7話へつづく。




