第34話 保留という名の猶予
白い執務室に、紙の音だけが落ちた。
「上層部の決裁です。――“保留通知”」
秘書が淡々と告げ、書類を机上に置く。
サムハン・シウはそれを指先でなぞり、面白い玩具でも眺めるように目を細めた。
「へえ。保留、か」
口元は笑っている。
けれど、その声には温度がない。
「理由は?」
「前例がないこと。社会不安を避けること。法的整理が追いつかないこと。……いつもの文言です」
「いつもの」
サムハンは小さく吹き出した。
「はは。やっぱり、たぬきどもだ」
秘書の眉がわずかに動く。
だが、咎めない。忠告もしない。
この部屋では、彼女はサムハンの“言葉の壁”になっている。
「決めないことで責任を回避する。怖いから動かない。なのに、権威だけは失いたくない」
サムハンは書類を裏返し、指で机を軽く叩いた。
「保留っていうのはね、動かないための決断じゃない。“責任を未来に押しつける”ための魔法なんだよ」
「……団長は、保留を不満に?」
「不満?」
サムハンはわざとらしく首を傾げた。
そして、にこりと笑う。
「逆だよ。ありがたい」
秘書が一瞬だけ目を瞬かせる。
サムハンはその反応を楽しむように続けた。
「だってさ、決められたら終わる。決められなければ、続く」
指先で書類の端を揃える。
「この国は“結論”が好きだ。光が出たら結婚。数値が出たら納得。みんな、迷いたくないからね」
軽い口調。
けれど、言葉の中身は鋭い。
「でも今回の件は、迷いそのものだ。三人同時、同色、しかも婚活庁の人間まで巻き込む。たぬきどもが一番嫌うタイプの“例外”」
サムハンは机の上のペンを持ち、指で回した。
「だから保留。つまり“箱に入れて棚の奥へ”だ」
秘書が低く言う。
「棚の奥に入れれば、世間の熱は冷めます。発表会の話題も、いずれ次のニュースに流される」
「そうそう。彼らはそれを狙ってる。誰も傷つけず、誰も責任を取らず、ただ時間だけが過ぎるのを待つ」
サムハンは笑ったまま、ふっと声を落とす。
「……腐るのを待つんだ」
秘書の背筋がわずかに硬くなる。
サムハンはそれを見て、また明るい声に戻した。
「でもね。腐る前に、使えばいい」
「使う?」
「保留は猶予だ。相手が勝手にくれた時間」
ペンの回転が止まる。
指先がぴたりと静止した。
「――準備をする時間だよ」
秘書は言葉を選ぶように間を置き、静かに尋ねた。
「準備とは……上層部への?」
「ん? 怖いこと言うね」
サムハンは肩をすくめる。
だが、否定はしなかった。
「たぬきどもは、守ることしかできない。制度を守って、椅子を守って、体面を守って……国を守った“気”になってる」
笑みの奥が、すっと暗くなる。
「でも、守るだけじゃ国は良くならない。良くなるのは“上にいるやつの都合”だけだ」
秘書が一歩、机の横に寄る。
声は小さい。
「団長。上層部は、団長を警戒します。今回の件で、なおさら」
「警戒されない野心なんて、野心じゃないよ」
サムハンは椅子にもたれ、天井を見上げた。
まるで雑談を続けるみたいに、軽く言う。
「ねえ。制度ってさ、“正しいから”続いてると思う?」
「……正しいからではありません。“便利だから”です」
秘書の即答に、サムハンは満足げに頷いた。
「そう。便利だから、誰も疑わない。疑っても、声が届かない。届かない声は、無かったことになる」
そして、机上の書類を指で押さえる。
「でも例外が出た。届いてしまった。――だから、保留」
サムハンは視線を秘書に戻し、笑う。
「ね、分かりやすいだろ?」
秘書は返さない。
返す言葉がないのではなく、返したくない顔だ。
サムハンはその沈黙を、噛みしめるように楽しんだ。
「ユウト・カザミ」
名前を口にした瞬間だけ、声が微かに硬くなる。
「彼は、面白い。優しすぎるし、真面目すぎる。制度から見れば“扱いにくい光”だ」
笑みが戻る。
「でも扱いにくいものほど、扱えた時の価値が高い」
秘書が静かに問う。
「団長は、ユウトたちをどうするつもりですか」
「どうする、か」
サムハンは両手を広げた。
まるで無害な冗談を言う前みたいに。
「選ばせるんだよ。――“自分たちで”ね」
「それは、彼らを守るという意味ですか」
「守る?」
サムハンは笑って、少しだけ目を細めた。
「守るのは簡単だ。箱に入れて鍵をかけるだけでいい」
声が、柔らかくなる。
「でも僕は、箱を壊したいんだ」
秘書の瞳が揺れる。
サムハンはそれを見て、最後に一言だけ、軽く告げた。
「たぬきどもが保留を選んだ。――つまり、動けないってこと」
指先で書類をとん、と叩く。
「なら、動ける人間が動くしかないよね」
笑顔のまま。
その目だけが、先ほどまでの温度を失っていた。
「……いつか、あの席に座るのは僕じゃなくちゃいけない」
まるで当然のように言って、サムハンは立ち上がる。
秘書は一歩下がり、静かにその背を見送った。
彼が扉へ向かう途中で、ふいに振り返る。
「ねえ。保留って、いい言葉だよ」
「……はい」
「“まだ決めない”ってことは――“まだ動ける”ってことだ」
その声は、明るい。
けれど、部屋の空気はもう、元に戻らなかった。
保留という名の猶予。
それは誰のための時間なのか。
扉が閉まる音が、乾いて響いた。




