第30話 夜風の下で、答えを急がない
川沿いの遊歩道は、昼の喧騒が嘘みたいに静かだった。
街灯の光が水面にほどけて、ゆっくり流れていく。風は冷たすぎず、仕事帰りの体から熱をすっと奪ってくれる程度。
ユウトは隣を歩くアイラの歩幅に合わせながら、無意識に肩の力を抜いていた。
いつもなら、こういう時間は「早く帰って続きを確認しよう」に直結するのに、今日は少し違う。
「……さっきのパッチ、あれでたぶん安定します。念のため、夜にもう一回ログ追いますけど」
アイラが、いつもの調子で言う。
「助かる。詰めるなら今だしな」
「ですよね。締め切りって、こっちの呼吸待ってくれないですし」
仕事の話をしている間だけ、頭が余計なところへ行かない。
それでも、ふとした隙間に——同時発光のことが入り込んでくる。
考えないようにしているつもりなのに、勝手に浮かぶ。
あの光の色。
あの瞬間、名前として並んだ三人。
そして、その中に“フレイ”がいたこと。
嬉しい、と言い切るのは怖い。
現実を軽く扱ってしまいそうで。
でも、嬉しくないふりをしても、たぶん嘘になる。
「……先輩、顔、固いですよ」
アイラが横目で見てくる。からかうというより、気づいている声だ。
「固い?」
「固いです。仕事の顔じゃない」
ユウトは苦笑し、誤魔化すように川の方へ視線を逃がした。
水面が揺れて、光が細く伸び縮みしている。答えのないものほど、きれいに見える。
小さなカフェは遊歩道に面していて、窓から灯りがこぼれていた。
テラス席に、ひとり先客がいる。
金髪のロングストレートが、夜の灯りにやわらかく光っていた。
ミーナはカップを両手で包み、川を眺めたまま、こちらに気づくと小さく手を挙げた。
「遅かったね」
口調は丁寧なのに敬語ではない。いつものミーナだ。
「待たせた」
「待ってない。私が早かっただけ」
そう言って、ミーナは笑う。
その笑みが、今日はやけに眩しく見えた。
注文を済ませ、三人で席につく。
湯気の立つ飲み物が置かれて、ようやく「集まった」という実感が湧いてくる。
最初は、取り留めのない話だった。
発表会の会場がやたら豪華だったとか、スタッフの動線が妙に完璧だったとか。
アイラがケーキの皿を見て「これ、値段の割にうまい」と小さく言い、ミーナが「それは褒めてる?」と返す。
ユウトはそのやり取りに、ほんの少し救われる。
——普通に笑っていいんだ、と。
けれど、席にもう一つ空けてある椅子が、ずっと視界の端に残っていた。
そこに誰が座るのか、分かっているからだ。
数分後、足音が近づいてくる。
視界の端に、制服とは違う色が引っかかった。
フレイは、仕事帰りらしい落ち着いた服装で立っていた。派手さはない。けれど、きちんと整えられた印象が、彼女の雰囲気そのものだった。
髪もまとめすぎず、少しだけ柔らかい。
それだけで、胸の奥がほんの少しだけ騒ぐ。
「遅れました。すみません」
「大丈夫。席、取ってある」
ミーナが言い、フレイが小さく頷いて椅子に座る。
フレイはユウトを見る。
視線は落ち着いているのに、どこか慎重で——それが余計に、近づきたくなる。
「……お仕事、長かったんですか」
ユウトが言うと、フレイは少しだけ口元を緩めた。
「はい。帰り際に少し……確認がありました」
“確認”。
それが婚活庁の言葉だと分かってしまうのが、いまの自分は少し嫌だった。
四人が揃うと、自然に会話が止まる。
風の音が、川面を撫でる音が、カップが触れる小さな音が、いつもより大きく聞こえた。
ミーナは一度、カップを置いて、全員を見回した。
仕切るときの顔だ。でも、強くはない。
「今日、集まってもらったのは」
ミーナが言いかけて、少しだけ言葉を選び直す。
「……結論を出すためじゃない」
アイラが瞬きをする。フレイは表情を崩さず、静かに聞いている。
ユウトは、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。逃げ道ができたというより、「急がなくていい」と許されたみたいで。
「制度は、放っておくと勝手に“答え”を作る。私たちの気持ちより先にね」
ミーナは淡々と言う。調査官らしい言い方なのに、どこか優しい。
「だから、その前に一回だけ。私たちで、同じテーブルにつきたかった」
視線が、ユウトに止まる。
「ユウト。あなたが一番、混乱してるはず」
否定できなかった。
混乱している。
でも、それ以上に——怖い。自分が誰かの人生を、言葉一つで揺らす側に立ってしまうことが。
「……ありがとう」
ユウトはそれだけ言った。感謝が先に出て、理由は後から追いつく。
アイラが小さく咳払いをして、少し照れ隠しみたいに言う。
「ま、つまり。まずは現状確認ってやつですね。先輩、勝手に倒れないようにしてくださいよ」
「倒れない」
「倒れそうな顔してます」
それにミーナが小さく笑い、フレイもほんのわずかに、口元が緩む。
その緩み方が、ユウトには刺さった。
ああ、この人と、もっと話したい——そう思ってしまう。
フレイは視線を落として、静かに言った。
「私も……今日は、来てよかったです」
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥に温度が残る。
このまま別れてしまったら、次があるのか分からない——自分が抱えていた焦りが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
結論は出ない。
今夜は、出さない。
でも、同じ場所で、同じ風に当たって、同じ時間を共有している。
それだけで、日常が少しだけ違って見えた。
川面の光が、またゆっくり揺れる。
答えはまだ遠い。
けれど——逃げてはいない。
四つのカップの湯気が、静かに夜へ溶けていった。




