第29話 日常という名の猶予
社内食堂は、いつも通りの昼の匂いに満ちていた。
トレイが重なる音。
誰かの笑い声。
食器が触れ合う、乾いた響き。
特別な出来事があった直後とは思えないほど、日常は淡々と続いている。
誰かと話す余裕がないわけではない。
ただ、今は一人でいたかった。
ユウトは箸を置き、湯飲みを手に取った。
温度を確かめるように、ゆっくりと口をつける。
事情聴取から、数日が経っていた。
婚活庁からは、まだ何の連絡もない。
(……静かすぎるな)
呼び出しがあるなら、もっと早いと思っていた。
それがないことに、ほっとしている自分がいる一方で、胸の奥では別の感覚がわだかまっている。
仕事に戻れば、考える暇はなくなる。
だからこそ、昼食のこの時間だけが、余計な思考を連れてくる。
同時発光。
あの瞬間の光景が、ふいに脳裏をよぎった。
自分のマギボード。
ミーナと、アイラと、そして——。
(……三人、か)
正直、簡単な話じゃない。
誰か一人でも重いのに、それが三人だなんて。
それでも。
候補の中に、フレイの名前が含まれていたことを思い出すと、
胸の奥で、ほんのわずかに緊張がほどけるのを感じた。
嬉しい、と言い切るのは違う気がする。
浮かれているわけでもない。
ただ——
含まれていたことを、否定しようとしない自分がいた。
(……おかしいな)
湯飲みを置き、深く息をつく。
自分が何を期待しているのか、はっきりとは分からない。
考えすぎだ、と仕事用の思考に戻ろうとした、そのときだった。
「先輩、もう戻ります?」
声をかけてきたのは、アイラだった。
トレイを手に、いつも通りの調子で立っている。
「うん。そろそろ」
「ですよね。午後のチェック、結構詰まってますし」
仕事の話。
それだけで、少し安心する。
「例の最終プログラム、さっき一箇所だけ気になる挙動が出てて」
「どこ?」
「ログはあとで見せます。致命的じゃないですけど、念のため」
「ありがとう。助かる」
自然なやり取り。
特別なことは、何もない。
——けれど。
アイラもまた、婚約者候補の一人なのだと、意識してしまう。
それが、ぎこちなくもあり、落ち着かなくもある。
「先輩?」
「……ああ、ごめん。行こう」
トレイを片付け、二人で食堂を出る。
廊下を歩きながら、ふと、あの日の光景が思い出された。
婚活庁の白い応接室を出る間際。
ミーナが「念のため」と言って、連絡先の交換を提案した。
ユウトは深く考えずに応じた。
アイラも、フレイも同じだった。
場の流れとして、ごく自然に。
今思えば——
それが、次に進むための前提になっていたのかもしれない。
開発フロアに戻ると、午後の空気は少し静かだった。
集中するための時間帯。
キーボードの音が、一定のリズムで響いている。
ユウトは自分の席に着き、端末を起動した。
例のプログラムを呼び出し、アイラの指摘箇所を確認する。
(……大丈夫そうだな)
細かい修正で済む。
それでも、念を入れてチェックを続ける。
締め切りが近いからこそ、油断はできない。
師匠の教えが、自然と思考の底にある。
——見逃すな。
——小さな違和感ほど、後で牙をむく。
作業に集中していると、端末が短く振動した。
表示された名前に、指が一瞬止まる。
ミーナ。
〈今夜、少し時間ある?〉
〈一度、みんなで話したい〉
画面を閉じて、ユウトは小さく息を吐いた。
(……あれ、助かったな)
特に、フレイの連絡先がそこにあること。 自分から聞く勇気は、きっとなかった。
ユウトは、画面を見つめたまま思う。
(ミーナには、感謝しないとな)
ほどなくして、アイラがこちらを見た。
「先輩。ミーナさんから、連絡来ました?」
「ああ。今夜、集まろうって」
「ですよね。私にも来ました」
何気ない会話。
けれど、もう後戻りはできない気がした。
——話し合う。
——向き合う。
その中に、フレイもいる。
(……猶予、か)
今はまだ、日常の中にいる。
けれど、その静けさが永遠じゃないことも、分かっていた。
ユウトは端末を閉じ、軽く息を整える。
日常という名の、この短い猶予が、
いつまで続くのかは分からない。
それでも今は——
仕事を終わらせる。
その先で、ちゃんと向き合うために。




