表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
義務婚の国で、君を想う  作者: カムロ
第1章 エリアスとリリア
3/47

第3話 声の記憶

その朝、鐘の音はやけに遠かった。

婚約が成立すれば、

必ず街に響くはずの金属音が、

霧の向こうで鈍く転がっているだけだった。

――昨夜の光は、

制度に“認識されなかった”。

その事実が、

エリアス・グレインの胸の奥に、

重く沈んでいた。

彼は窓辺で夜明けを見つめていた。

眠れなかった。

机の上のマギボードは、

夜のあいだじゅう淡い光を手放さず、

呼吸するように明滅を繰り返している。

ふうっと明るさを増し、

次の瞬間には静かに沈む。

——夢ではない。

その確信だけが、

身体の奥に、はっきりと残っていた。

エリアスは机に戻り、

掌ほどの黒い板を、そっと手に取る。

ひんやりとした石の感触の下に、

人の体温に似た柔らかなぬくもりが潜んでいる。

その温度が、

胸の中心に小さな火を灯した。

「……おはよう」

自分でも驚くほど、

自然に言葉がこぼれた。

誰に向けた挨拶なのかは分からない。

だが、返事はすぐにあった。

『おはようございます。聞こえていますか?』

黒い表面に、

白い光が細い文字を刻む。

その線は、わずかに揺れていた。

緊張か、迷いか。

感情の震えが、文字の端に滲んでいる。

エリアスは息をのみ、指先で返す。

『聞こえている。 君は、昨日の塔の……?』

送った瞬間、

板がふるりと震え、文字が重なる。

『はい。 昨日、塔で光を見た方ですよね。 わたしの板と、共鳴していた……はずです』

“共鳴”。

その言葉が、

胸の奥に重く落ちた。

マギボードの共鳴は、

本来すべて制度によって管理される。

相性が合えば、

婚約契約書が自動生成され、

文書院へ送られる。

だが——

昨夜、エリアスの机には

一通の書類も届かなかった。

(……記録されていない)

ありえない。

制度の外で光が生まれるなど。

だが彼は今、

その“ありえない光”と会話している。

慎重に文字を刻む。

『ああ。たぶん俺だ。 昨夜、君の光が見えた。 ……綺麗だった』

送信してから、

首筋が少しだけ熱くなる。

だが返事は早かった。

『そう言っていただけると、嬉しいです。 あれが気のせいだったら、 きっと……さびしかったので』

文末の揺れが、

彼女の心をそのまま映しているようだった。

エリアスは、小さく息をつく。

『……俺はエリアス。 文書院の記録士だ。 君は?』

少しの沈黙。

そのあいだも、

板の光は微かに揺れていた。

『リリアといいます。 書簡局で、写本士をしています』

「写本士……」

彼の脳裏に、

幾度も受け取った婚約書の束、

整った筆跡で書かれた“心の記録”が浮かぶ。

『写本士の字だ。 筆跡が、落ち着いている』

『ふふ……。 字を褒められたのは初めてです。 いつも急かされてばかりなので』

光がふわりと揺れ、

机の上に、やさしい明るさを落とす。

それは、

書庫には似つかわしくないほど、

静かな温度だった。

昼までの数時間、

二人は緩やかなやり取りを続けた。

書簡局の一室。

昼休み、他の職員がいなくなった部屋で、

リリアはマギボードを両手で包んでいた。

『文書院って、

あんなに婚約書があるんですね』

少し間を置いて返事が届く。

『好きでやってるわけじゃない。 でも眺めていると、 制度の形がよく見える。 そこに人がいるようで、いない。 インクだけが残る』

『……やっぱり、そうなんですね』

リリアは胸に手を当てた。

鼓動が、わずかに速い。

『結婚って、本当にあれで決まるものなんでしょうか。 誰かと並ぶ想像が、 わたしには……難しくて』

板がゆっくり光を帯びる。

『誰かと並ぶ必要はない。 言葉を並べる。 それで、今はちょうどいい』

(ああ、この人は……)

顔も知らないのに、

文字の揺れだけで、

彼が優しい人だと分かる。

『制度に合わない人間もいる。 俺は……そっち側だ』

その一文には、

小さな痛みが滲んでいた。

リリアは返す。

『わたしもです。 でも—— “間違い”だと言われる光でも、 見てしまった以上、 本物だと思います』

送り終えた瞬間、

板の光が、ほうっと柔らかくなる。

まるで誰かが、

「ありがとう」と微笑んだようだった。

夜。

エリアスは珍しく早く仕事を切り上げた。

部屋の明かりを落とし、

窓の外の群青を見つめる。

マギボードだけが、

静かに光っていた。

『今日は、塔の鐘が鳴りませんでしたね』

リリアからの一文。

『婚約が成立すると鳴るんです。 でも今日は、一度も鳴らなかった。 ……不思議ですね』

エリアスの胸に、

確信が落ちる。

(俺たちの光は、記録されていない)

制度の外で起きた“共鳴”。

それは、本来あってはならないものだ。

『もし、それが“間違いの光”だったとして。 それでも、君はよかったと思うか?』

板は、しばらく黙っていた。

長い沈黙のあと、

一行だけ文字が刻まれた。

『間違いでも、 わたしは綺麗だと感じました。 それだけで、十分です』

その文字の揺れが、

彼女の強さにも、弱さにも見えた。

エリアスは板を胸元に引き寄せる。

胸のあたりの空気が、

ひと息ぶん、柔らかくなる。

その夜、エリアスは夢を見た。

白い霧。

その向こうに、

ひとりの女性が立っている。

輪郭は曖昧なのに、

彼女のいる場所だけが不思議と明るい。

風に揺れる髪が、

光の粒をこぼしていた。

彼女は近づき、

胸の前に小さな光を抱いて言った。

「わたしの光が、見えますか?」

その声は、

マギボードの中の声と同じだった。

エリアスは手を伸ばす。

触れられそうな距離まで近づいた、その時——

光は、ふっと指先をすり抜けた。

ぬくもりだけが、

静かに残った。

目を開けると、

夜の名残がまだ部屋に漂っていた。

薄い朝の光が、

窓の隙間から差し込んでいる。

マギボードが淡く光る。

表面には、

新しい文字がひとつだけ刻まれていた。

『ありがとう』

声はない。

けれどその言葉は、

確かに“手の温度”で伝わってくる。

エリアスは板を包んだ。

人肌より、ほんの少しあたたかい。

——この世界に、

自分の名前を呼ばない誰かの光がある。

その事実だけで、

朝の空気は、少しだけ優しくなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ