第1話 暗がりの向こうで
——どうしてこうなった。
なぜ、こんな展開に。
避難訓練。
婚活庁が主催する、ただの“ハズレイベント”——
そう思っていた。
だが今の僕は、
薄暗い通路の中で、
初対面の女性と手をつないで歩いている。
いや、歩かされている、と言った方が正しい。
通路の魔力灯はところどころ消え、
わずかな光だけが、足元の青白い誘導ラインを照らしている。
その光は心許なく、頼りなく、まるで
「ここから先は自分でなんとかしろ」とでも言うように震えて見えた。
通路の奥からは低い風の音が流れてくる。
実際の風か、訓練用の魔力エアかは分からない。
だが、そのざわめきは狭い空間を押し広げ、
逆に息苦しいほどの静寂を強調していた。
そして——暑い。
密閉された空気が、肌にじわりとへばりつくようだ。
背中には汗がにじみ、
握った手のひらは、互いの熱を吸い込んでさらに湿る。
こんな環境では、誰だって緊張する。
それを“婚活に利用”してくる婚活庁の神経はどうかしている。
婚活庁曰く——
危機状況で心拍数が上がると、
隣の異性への好意も上昇するらしい。
吊り橋効果の魔力版。
この訓練通路には、
きっとその効果を最大化するための
温度・明るさ・閉塞度の“数値設定”がされているのだろう。
本当に、やりすぎ。
「……段差、あります。足元、気をつけてください」
隣の女性の声が、ふっと耳に届いた。
控えめなのに、澄んでいて、
暗がりの中なのに妙に存在感がある。
僕の手を引きながら、
自分の歩幅をわずかに合わせてくれているのが分かる。
(……優しい人だ)
見えないからこそ、
声の温度がまっすぐ胸に響く。
「す、すみません……僕、ちょっと汗が……」
「……大丈夫です。こういう環境ですから」
少しだけ笑ったような気配。
だが顔は見えない。
手のひらの温度だけが、彼女の“体温”を伝えてくる。
通路の角を曲がるたび、
衣擦れの音が小さく響き、
互いの呼吸がわずかに重なる。
たぶん、彼女も緊張している。
でもそれを隠すのが、驚くほど上手だった。
足元の誘導ラインがわずかに明るくなり、
前方に小さな光が見えてくる。
「……あそこ、給水ポイントみたいです」
女性の声が柔らかく揺れる。
僕もほっと息を漏らした——が、
次の瞬間、僕の思考は固まった。
テーブルの上に、
水筒が——ひとつ。
たったひとつ。
その横には、魔力文字が淡く浮かんでいる。
《水分補給はパートナーと協力して行いましょう》
協力?
つまり……順番に飲めということだ。
つまり……
間接キス。
(いやいやいや……え、これは……?)
僕が固まっていると、
女性が水筒をじっと見つめた。
暗闇で表情は見えなくても、
気づいているのは分かった。
むしろ、僕より冷静に状況を理解している気がした。
僕は覚悟を決め、水筒を手に取り差し出した。
「よかったら……先にどうぞ」
数秒の静かな間。
その沈黙が、心臓の音をさらに強くする。
彼女は小さく息を吸い、
控えめに頷いた。
「……では、失礼します」
長い睫毛が暗闇の中でゆっくり揺れた気がした。
水筒を両手で包み込むように持ち、
彼女はそっと飲み口へ唇を寄せる。
金属が、かすかに“コッ”と鳴る。
その音は、
壁に反射して何倍にも膨らんで聞こえた。
ごく……り。
喉が上下するたび、
通路の青い誘導灯が喉元を淡く照らし、
白い肌に細い影を落とす。
呼吸がほんのわずかに震え、
飲み終えた彼女はゆっくりと顔を離す。
そして——
唇の端のしずくを、
指先でふわりとぬぐった。
その仕草があまりにも美しくて、
僕は呼吸するのを忘れた。
握り合う手は汗で滑りそうなのに、
なぜか離したくなかった。
彼女は水筒をこちらへ差し出す。
「……次は、ユウトさんの番です」
名前を呼ばれた瞬間、
胸の奥で何かが跳ねた。
暗闇なのに、
なぜだか“照れている気配”が伝わってくる。
——そしてようやく理解した。
あ、これ……
本当に間接キスなんだ。
遅い。遅すぎる。
震えそうな手で水筒を受け取り、
飲み口を見つめる。
暗闇でも分かる。
彼女の温度がほんの少しだけ残っている。
喉がひくりと鳴った。
視界が少し揺れる。
そっと唇を寄せた。
金属の冷たさ。
その奥に残る微かな温かさ。
たったそれだけなのに、
胸の奥で何かが静かに弾けた。
——どうしてこうなった?
暗闇の中、
僕の心拍だけが、
自分の耳元で鳴り響いていた。




