第12話 選ぶ光、続いていく世界
婚活庁の石段を上がるとき、
リリアはあえて自分の足で一段一段を踏みしめていた。
「運べ」
追跡官の一人が言ったとき、
彼女は首を振って答えた。
「歩けます。
……わたしの足で行きます」
無意味な意地だと笑われても構わなかった。
誰かに引きずられていくのと、
自分で進むのとでは、
同じ“連行”でも意味が違う。
そのことを、
今のリリアははっきり分かっていた。
庁舎の中は、
ひんやりとした空気と警報の残響に満ちていた。
頭上の魔導灯がときどきちらつき、
廊下のあちこちで職員たちが
慌ただしく走り回っている。
「再教育室は上の階だ。急げ」
追跡官に促され、
リリアは階段を上った。
途中の踊り場で、
黒いローブの監視官とすれ違う。
その男は、
ふとリリアに視線を向けた。
胸元の測定器に手を添え、
何かを確かめるように短く息を吐く。
——妹も、“記録外の光”を出した。
十一話でエリアスに漏らした彼の言葉が
リリアは知る由もない。
だが、その目の奥に
言葉にできないざらつきが宿っていることだけは
直感的に感じ取った。
(この人も……
何かを失ってきた人なんだ)
追跡官に腕を引かれ、
視線が途切れる。
階段を上りきった先の廊下で、
別の職員が慌てて駆け寄ってきた。
「再教育室は反対側だ!
今は一時封鎖中だろう! 搬送経路を変えろ!」
追跡官が舌打ちをした。
「何だと? さっきの指示では——」
「庁内で異常魔力反応が出てる。
“記録外相性データ”との関連が疑われてる。
上からの命令で経路を変更しろと言われたんだ」
怒鳴り合いに近い声が交錯する。
リリアは、
その内容を完全には理解できなかったが、
ひとつだけ分かったことがある。
(……エリアスさん。
きっと、どこかで動いてる)
胸元のマギボードは、
布越しにほんのりと温かかった。
結局、
彼女は本来とは別の通路に連れていかれることになった。
追跡官のひとりが苛立った声で言う。
「仕方ない。
先に“処理待機室”に入れておけ」
その部屋は、
ラウドの執務区画と同じ階にあった。
——偶然か、必然か。
それを決めるのは、
いつも少し先の未来だった。
***
一方その頃、
エリアスはラウドの執務室で
真正面から副長官と向かい合っていた。
大きな窓の外には、
小さく市場の屋根が見える。
ついさっきまで、
そこでリリアが追跡官に立ち向かっていたなど
ラウドは知る由もない。
「……お前は、
何をそんなに怒っている」
ラウドの声は、
驚くほど落ち着いていた。
「ただ“制度通り”に処理しただけだ」
「“制度通り”に」
エリアスは繰り返した。
その言葉の冷たさに、
胸の奥がざらつく。
「人の光を、
例外だからと言って“危険物”に分類して、
それでも“ただの仕事だ”と言えるんですか」
「言える」
迷いのない返答だった。
「私は“国全体”を見ている。
お前は“個人”を見ている。
それだけの違いだ」
ラウドは窓辺に歩み寄り、
外の景色を見下ろした。
「出生率が下がり続けた時代を、
お前は知らないだろう」
低い声で続ける。
「婚姻の形が崩れ、
家族の形が薄れ、
街から子どもの声が消えていった。
そのとき、
私の家族もどこかで静かに壊れていった」
エリアスは、
意外な言葉に目を見開いた。
ラウドは表情を変えずに続ける。
「国は焦った。
数値で測れるものだけを基準にして、
“最適な組み合わせ”を作ろうとした。
それで救われた家庭も、
確かにある」
その言葉には、
嘘は混じっていなかった。
エリアスもまた、
制度によって“救われた人”がいることを
否定するつもりはなかった。
「だが……」
彼は言葉を継いだ。
「そこからこぼれ落ちた人は、
どうなったんですか」
ラウドの目が、
かすかに揺れる。
「俺の父は、
制度に従って結婚して、
“光の相性値”の高い相手を選んだ。
それでも……
ずっとどこか、笑い方を忘れたままだった」
父の背中を思い出す。
食卓で家族に向ける笑顔が、
どこかぎこちなかったこと。
夜ひとりで本を読むときだけ、
少しだけ肩の力が抜けていたこと。
「この国には、
制度に救われた人もいる。
同時に、
制度から救われなかった人もいる。
そして、
“制度の外に押し出された人”もいる」
エリアスはラウドを見据えた。
「俺たちみたいな、“記録外”の人間も」
ラウドは、
ゆっくりと振り返った。
「……お前たちは、
国を揺るがす火種になり得る」
その言葉には、
恐怖が滲んでいた。
「数値で測れない光を許せば、
皆が“自分だけの相性”を求め始める。
その揺らぎに、
この国が耐えられるとは思えない」
「揺らぎを怖がって、
何もかも均一にしてしまうんですか」
エリアスは首を振った。
「俺たちは“国を滅ぼしたい”わけじゃない。
ただ、自分の光を“誤り”と呼ばれたくないだけです」
「誤りと呼んでいるのは私ではない」
ラウドは静かに言い返した。
「制度だ。
数値だ。
結果だ。
私もまた、それに従っているに過ぎない」
「じゃあ、あなたは自分の正義を
どこに置いているんですか」
問いかけると、
ラウドは一瞬だけ黙り込んだ。
窓の外で、
アラームの光がかすかに瞬いている。
「……私も、この国を守りたいと思っている」
ようやく絞り出された声は、
驚くほど人間くさかった。
「お前たちと同じように、
自分なりの方法でな」
エリアスは、
胸の奥が少しだけ痛くなるのを感じた。
——敵、としてだけ見てしまえば楽だったのに。
ラウドもまた、
何かを守ろうとして
ここまで来てしまった人間なのだ。
「でも、そのやり方で
誰かの光を“なかったこと”にするのなら」
エリアスは言った。
「やっぱり、
俺はあなたに従えない」
ラウドは、
机の上の装置に手を伸ばした。
淡い光が走る。
「議論は終わりだ」
短く告げる声には、
わずかな疲れが混じっていた。
「この国は、“例外”を許さない。
君たちの光がどれほど純粋でも、
制度に組み込めない以上、危険因子だ」
装置が起動する音が室内に満ちる。
「強制測定を行う。
君の光も、
あの女の光も」
エリアスの背筋が凍りついた。
「……あの女?」
「もう一人の“記録外反応”だ。
今この庁舎のどこかで搬送されている」
その言葉を聞いた瞬間——
エリアスの胸を、
痛みとも熱ともつかない衝動が貫いた。
(リリア——)
名を呼んだとき、
扉が勢いよく開いた。
***
追跡官の一人が、
揉み合いながら部屋へ押し込まれてきた。
「申し訳ありません、副長官!
搬送経路の変更中に——」
その腕を振りほどくようにして、
ひとりの少女が躓きながら床に膝をつく。
長い髪が肩から滑り落ち、
顔を上げる。
「……エリアスさん」
リリアだった。
エリアスは、
息が止まった。
ほんの数日しか離れていないはずなのに、
彼女の瞳は
あの夜よりもずっと強い光を宿していた。
「リリア……」
自分の声が
かすれているのが分かった。
リリアは、
息を整えながら笑った。
「……来ちゃいました」
言葉は軽い。
けれど、その一歩一歩に
どれだけの覚悟が乗っているのかを
エリアスは知っていた。
「逃げるだけじゃ、
もう足りない気がして。
ちゃんと、自分で選んだ場所に立ちたくて」
ラウドは二人を見比べた。
「……都合がいい。
まとめて測定できる」
指先で装置の操作盤を叩く。
床に刻まれた魔導式が
静かに輝き始めた。
「二人とも、その場から動くな」
追跡官がリリアの腕を掴もうとしたとき、
ラウドが手で制した。
「必要ない。
この場で十分だ」
装置の中心部に光が集まり、
二人のマギボードへ向かって
細い光の糸が伸びていく。
エリアスは、
胸元の板をぎゅっと握りしめた。
(また、
あの日のように“異常”と呼ばれるのか)
だが、
リリアがそっと彼の方へ手を伸ばした。
指先が触れ合う。
その瞬間——
マギボードが、
ぴたりと光の流れを拒んだ。
装置から伸びる光の糸が、
二人の板の手前で弾かれる。
「……何だ?」
ラウドが目を細めた。
装置は
必死に数値化を試みるように
脈打つ光を送る。
だが、
数値はいつまで経っても表示されない。
代わりに——
ゆっくりと、
二人の足元から温かい光が広がり始めた。
眩しさはない。
ただ、
炎でもないのに火にあたっているときのような
柔らかなぬくもりだけが
部屋いっぱいに満ちていく。
「これは——」
エリアスは、
かつて文書院で読んだ一文を思い出した。
《数値化を拒む光は、
二人の間にだけ灯るぬくもりとなる》
真の相性——。
リリアが、
握った手に力を込める。
「エリアスさん」
声が震えていた。
けれど、
その震えは恐怖ではなかった。
「……わたし、
この光でよかったって、
今、ちゃんと思えます」
エリアスは、
彼女の横顔を見た。
誰かに決められた価値ではなく、
自分で選んだ光の中にいる人の顔だった。
「俺もだ」
ゆっくりと言葉が出てきた。
「数値に乗らなくてもいい。
記録に残らなくてもいい。
これは——
俺が、俺の人生で選んだ人と出会えた証だから」
室内の光が
さらに静かに広がっていく。
窓ガラスを透かして、
廊下へ、
庁舎の別の部屋へ、
そして外の空気へ。
婚活庁の中で働く職員たちが、
一斉に動きを止めた。
胸の奥に、
ふっと温度が灯る。
忘れていた感情を
誰かがそっと撫でたような——
そんな感覚が走る。
「……馬鹿な」
ラウドが呟いた。
装置の表示板は、
相変わらず空白のままだ。
だが、
その周囲の空間だけが
柔らかな金の色に染まっている。
「数値が——
一つも出ない……?」
彼の手が震えた。
「これは矛盾だ。
説明できない現象が、
制度より正しいはずがない……!」
「説明できなくていいんです」
リリアが言った。
「これは、
わたしたちの気持ちですから」
ラウドが、
ゆっくりと彼女を見た。
その瞳は、
怒りだけではなく、
わずかな迷いを含んでいた。
「……君は、
自分の光がこの国を乱すかもしれないと
それでも思わないのか」
「思います」
リリアは、
はっきりとうなずいた。
「わたしたちみたいな人が増えたら、
制度はきっと変わらざるを得ない。
揺らぐと思います」
「それを、
恐ろしいとは感じないのか」
「怖いです」
今度は、
少しだけ笑ってみせた。
「でも……
最初から“間違い”と決めつけて、
何も知らないままでいる方が、
もっと怖いです」
エリアスも続けた。
「あなたは、
この国を守ろうとしていました。
それは分かります」
ラウドがわずかに眉をひそめる。
「でも、
誰かの心を犠牲にしてまで守った“安定”は、
いつか必ずひずみます」
静かに、しかし確かに──
言葉が積み上がっていく。
「俺たちみたいな“例外”を
最初から排除するんじゃなくて、
“どう共存していくか”を考えることだって、
きっとできるはずです」
「それができると、本気で思うのか」
ラウドの声には、
諦めと期待がないまぜになっていた。
「自由は混乱を生む。
人は常に、
自分の都合のいい方へ流れていく」
「そうですね」
エリアスはあっさりと認めた。
「だから——
制度も、人も、
完璧にはならないと思います」
それでも。
「不完全なまま、
それでも誰かを選ぼうとする光が、
今ここにあるってことだけは……
今日、あなたも見たはずです」
ラウドは、
視線を落とした。
机の上には、
今まで“削除した”と報告してきた
記録外データの一覧が
光の反射で浮かび上がっている。
職員たちが廊下の外から
様子を窺っている気配も伝わってくる。
——もう、
以前のようにただ黙って従うだけの空気ではなかった。
「副長官」
扉のそばで見ていた監視官が、
一歩前へ出た。
「……再教育施設に送られた者たちの記録も、
本当に“危険”だったのか
再検証すべきではありませんか」
ラウドは、
その問いにすぐには答えられなかった。
胸元の記章が、
やけに重く感じられる。
長い沈黙の末、
彼はゆっくりと息を吐いた。
「……私は、
数値を信じてきた」
自嘲にも似た笑みが浮かぶ。
「数値は嘘をつかない。
だからこそ、
数値に乗らない光を恐れた」
視線が、
二人の方へ向けられる。
「だが今日——
私は、
数値に乗らないものを
“見てしまった”わけだ」
エリアスは、
何も言わずにその言葉を受け止めた。
リリアもまた、
ただ静かにラウドを見つめている。
「……私が間違っていたのかどうかは、
すぐには判断できない」
ラウドは言った。
「だが、
このまま何も変えようとしない方が
誤りだということくらいは、
ようやく分かった」
それは、
彼なりの精一杯の譲歩だった。
監視官が深く頭を下げる。
廊下の奥から、
上層部の職員たちが現れた。
「副長官ラウド。
これまでの制度運用について、
調査委員会を設置することが決定されました」
淡々とした声で告げられる。
「当面、あなたは職務を離れ、
調査に協力していただきます」
ラウドは
逃げも、逆上もしなかった。
ただ一瞬だけ目を閉じ、
エリアスたちに背を向ける。
扉の前で足を止め、
振り返らずに言った。
「……もし、
私が見えなかった未来があるのなら」
低く、
誰にも聞こえなくても構わないような声で続ける。
「それを証明するのは、
君たちだ」
エリアスは、
その背中を見つめながら答えた。
「見せてみせます」
言葉は短く、
しかし確かだった。
「あなたが守ろうとした“安定”を
全部壊してしまうんじゃなくて。
そこに、
別の形の光を差し込めるってことを」
ラウドは何も返さなかった。
ただ静かに歩き去っていった。
***
庁舎の外に出ると、
夕暮れの光が街を淡く染めていた。
市場はすでに騒ぎを終え、
いつもの喧騒を取り戻しつつある。
リリアは石段の上から、
街を眺めた。
「……少し、
変わった気がします」
横で立っていたエリアスが問い返す。
「街がか?」
「わたしの見え方が、です」
リリアは笑った。
「前は全部、
“決められた道”の風景に見えてました。
でも今は、
ひとりひとりに違う光がある場所に見えます」
エリアスも、
胸元のマギボードに手を当てた。
板は沈黙している。
けれど、
指先には確かなぬくもりがあった。
「俺たちは、
結局“制度”をひっくり返したわけじゃない」
彼は言った。
「ラウドのような人間が
また現れるかもしれない。
“記録外”だと怯える人が
いなくなるわけでもない」
「はい」
リリアは素直にうなずいた。
「でも——」
彼女は空を見上げた。
「今日、
誰かの心に少しだけ
“別の選び方もあるかもしれない”って
思いが灯ったなら。
それで十分な気もします」
エリアスは、
その横顔をしっかりと目に焼き付けた。
「俺は」
少し間を置いてから言う。
「制度がどう変わろうと、変わるまいと、
君を選んだことだけは変えない」
リリアが、
驚いたように目を瞬いた。
「……はい」
頬がうっすらと赤くなる。
「わたしも、
誰かに“選ばれる”んじゃなくて、
自分で選びたいって思いました。
その結果が——」
彼の方へ向き直る。
「エリアスさんです」
風が、
ほんの少しだけ強く吹いた。
街のざわめきが遠のいて聞こえる。
ふたりの距離は、
あの塔の上で光を見たときよりも
ずっと近かった。
「……いつか」
エリアスは言った。
「制度が変わって、
“選ぶ婚”みたいな仕組みが本当にできたら——」
「ええ」
リリアは、
少し照れながらも笑う。
「そのときは、
ちゃんと書類も出しましょうか」
「その前に、
家族への説明が山ほどあるな」
「はい。
でも、
今日のわたしなら言えます」
胸を張る。
「“義務婚”じゃなくて、
“自分で選んだ人です”って」
エリアスも笑った。
「それなら、
俺も一緒に頭を下げに行こう」
「一緒に、ですか?」
「ああ。
君ひとりで責任を背負わせるつもりはない」
リリアは、
少しの間黙ってから
小さくうなずいた。
「……心強いです」
***
それから数日後。
婚活庁には、
新たな調査委員会が設置された。
“記録外の光”について再検証する部署だ。
監視官の男は、
その補佐として配属されることになった。
彼は新しい資料室で
古い記録に目を通しながら、
妹の名前がどこかに残っていないか
静かに探している。
市場では、
あの日の騒ぎが
「真の相性騒動」として
半ば噂話のように広がっていた。
「あの光、見たか?」
「特に何か得したわけじゃないけど、
なんか、胸が温かくなったんだよな」
「“義務婚”だけじゃなくて、
“選ぶ婚”もありなんじゃないかって……
ちょっとだけ思った」
人々の口にのぼる言葉はまだ曖昧だ。
それでも——
確かに何かが変わり始めている。
リリアの家では、
父が食卓で小さく言った。
「……ただいま、と言うべきなのか?」
「ただいま、でいいですよ」
リリアは答えた。
母は涙ぐみながら、
娘の手を握りしめる。
「戻ってきてくれて、ありがとう」
「勝手に出て行って、ごめんなさい」
謝り合いながら、
少しずつ言葉を交わしていく。
制度の話をすると、
父は難しい顔をした。
「全部を否定することはできん。
だが、
あのとき娘を“危険物”と呼んだ言葉は、
やっぱり許せん」
それでも最後には、
こんなふうに笑った。
「まあ……
選んだ相手を、
今度連れてきてくれるなら。
話は、そこからだな」
リリアは、
顔を真っ赤にしてうなずいた。
「……はい」
***
義務婚の国で、
誰もが“決められた幸せ”を
当たり前のように受け入れていた。
数値に従うことは楽だ。
誰かに選ばれる方が、
自分で選ぶよりずっと怖くない。
それでも今——
この国にはもうひとつの選択肢が
静かに芽生え始めている。
数値では測れない。
記録にも残らない。
それでも確かにそこにある、
誰かを“自分で選ぶ”という光。
エリアスとリリアの物語は、
その最初の一行に過ぎないのかもしれない。
義務婚の国で、君を想う。
その想いは、
これからも誰かの心に
小さなぬくもりを灯し続けていくだろう。
——第一部・了。




