第10話 迫る影と、それぞれの危機
住宅区へ続く道を歩きながら、
リリアは、足元の石畳ひとつひとつを確かめるように視線を落としていた。
いつもなら見慣れたはずの通りだ。
朝市の準備をする人々。
洗濯物を干す主婦たち。
道端で遊ぶ子どもたち——。
けれど今日は、そのどれもが
薄い膜の向こう側にある風景のように見えた。
笑い声はするのに、
誰も心から笑っているようには思えない。
彼らの視線は、
ときどき空を、
そして街の中心にそびえる塔をちらりと見上げる。
——婚活庁。
義務婚の制度を管理し、
光の記録を独占している場所。
そこから伸びる見えない糸が、
この住宅区まで張り巡らされているように感じた。
(……こんなに、息苦しい場所だったっけ)
リリアは、
自分の胸のあたりをそっと押さえた。
マギボードは、
服の布越しに冷たく沈んでいる。
それでも、
昨夜ほこらで感じたぬくもりの余韻が
まだ指先にうっすらと残っていた。
それがなければ、
ここに戻ってくる勇気は出なかったかもしれない。
***
家のある通りに近づくにつれて、
空気が少しずつ変わっていった。
人々の話し声が、
小さく、途切れ途切れになる。
視線が、
道の真ん中ではなく
誰かの家の方へ集まっている。
その流れを追うように
リリアは歩みを進めた。
角を曲がった瞬間、
胸の奥がきゅっと縮む。
自分の家の前に、
見慣れない制服の男たちが立っていた。
婚活庁の紋章が、
胸元で不快な光を放っている。
「……っ」
リリアは、とっさに近くの物陰へ身を引いた。
木陰と塀の影が重なる場所。
そこからそっと顔を出し、家の方を見る。
玄関先には、
父が立っていた。
姿勢は正しいのに、
肩がわずかに落ちている。
その表情には、
いつもの穏やかな笑みはなかった。
「本当に、お心当たりはないのですね?」
婚活庁の職員が、
書類をめくりながら淡々と問いかけている。
「……娘が“記録外の光”を出したなどと、
にわかには信じられません」
父の声は、
かすかに掠れていた。
「娘は、真面目に義務を果たそうとしていました。
制度に逆らうような子では……」
「“記録外の光”は、
本人の意思とは関係なく起こる“異常反応”です」
職員は、
冷たい言葉を選んだ。
「ご家族に非があるなどとは申しません。
ただ、もし見かけたらすぐにご連絡を。
再教育を受ければ、
通常の範囲に戻ることもありますから」
“再教育”という言葉が、
玄関先の空気をさらに重くした。
家の中から、
小さなすすり泣きが聞こえる。
リリアは、
喉の奥がひりつくような感覚を覚えた。
(お母さん……)
自分のせいで、
泣いている。
そう思った瞬間、
その場に飛び出していきたくなる衝動が
身体の中から一気に湧き上がった。
全部、自分の口で説明したい。
“異常なんかじゃない”って、
言いたい。
けれど——
家の前に立つ職員たちの腰には、
魔力測定器と記録用の封印箱が下がっている。
そこに捕まれば、
自分だけではすまない。
父も。
母も。
家族ごと、
制度の“例外”として処理されるかもしれない。
リリアは、
塀の影に指を食い込ませるようにして
その場に留まった。
(ごめんなさい……)
声にならない謝罪が、
胸の内側を巡る。
(こんなつもりじゃ、なかったのに)
あの日、塔の上で見た光は、
ただ嬉しかった。
誰かと通じ合えた気がして——
それが、
こんなふうに家族の表情を曇らせるなんて
考えたこともなかった。
***
職員たちが去ったあとも、
家の前の空気は重く沈んでいた。
父は、
玄関の前でしばらくのあいだ
空を見上げていた。
その横顔は、
リリアの知っている“父”そのものなのに、
どこか遠く感じられる。
母が、中から声をかけた。
「……大丈夫、でしょうか」
「大丈夫じゃ、ないだろうな」
父は、
苦笑にもならない表情で言った。
「けれど——
あいつが“危険な子”だと
言われたままでいるのも違う」
「でも……
記録に残らない光なんて……」
「昔は、そういう話も
“特別な祝福”として語られていたんだ」
父の言葉に、
リリアは目を見開いた。
「本で読んだことがある。
数値には乗らない、
ただ二人のあいだだけに灯る光の話をな」
「……あなた、
そんな話、してましたっけ?」
「してない。
忘れようとしていたのかもしれん」
父は、自分で言いながら
小さく肩を落とした。
「それでも、
あいつが笑える場所で生きられるなら……
制度だろうが何だろうが、
正しいとは限らないと、
やっと思えるようになってきた」
母は、
目元を拭いながらうなずいた。
「……リリア。
どこにいるのかしらね」
その言葉は
静かな祈りに似ていた。
リリアは、
もうこれ以上見ていることが
耐えられなくなった。
塀に背を預けたまま、
そっとその場を離れる。
家に戻る選択肢は、
完全に消えた。
それでも——
父と母の表情を見て、
ひとつだけはっきりと分かったことがある。
(……わたし、
本当に“戻りたい場所”を
失いたくない)
だからこそ、
逃げ続けるだけではいけない。
奪おうとする側に、
背中を向けたままではいられない。
***
一方その頃、
エリアスは中央区の外れに立っていた。
目の前には、
婚活庁の巨大な庁舎がそびえている。
白い石造りの塔は、
遠目には清廉な印象を与える。
だが近づいてみればみるほど、
その足元に絡みつく
目に見えない鎖のようなものが
はっきりと感じられた。
正門には、
複数の監視官と測定器。
出入りする者の魔力反応を
ひとりひとり確認している。
(正面は、論外だな)
エリアスは、
人混みに紛れるふりをしながら視線を巡らせた。
庁舎の西側は、
使用頻度の低い古い棟がつながっている。
文書院の登録室や、
過去の記録を保管していた区画だ。
昔、
文書院の職員として
何度か足を運んだ場所。
今はほとんど使われておらず、
警備も手薄なはずだった。
(変わっていなければ、だが)
建物の影沿いに歩き、
人目を避けつつ西側へ回り込む。
庁舎の裏手には、
搬入口として使われていた小さな扉があった。
そこには
古い施錠用の魔導装置が
錆びつきながらも残っている。
エリアスは、
指先で装置の接合部をなぞった。
(この術式の書類、昔読んだな……)
記録の中に埋もれていたはずの知識が、
指先の感覚とともに
じわじわと蘇ってくる。
魔力を流す角度。
刻まれた符の順番。
解除のための“抜け道”となる線。
彼は小さく息を吸い、
そっと魔力を流し込んだ。
古びた装置がかすかに光り、
錠前が「カチリ」と音を立てる。
扉が、
ゆっくりと、内側へと開いた。
「……まだ、全部は書き換えられていないらしい」
皮肉混じりに呟いて、
エリアスは中へ滑り込む。
扉を静かに閉めると、
庁舎の中の空気が
ひんやりと肌を撫でた。
***
夜の庁舎は、
表側だけが静かだった。
裏の廊下や部屋には、
いつも以上の人の気配がある。
魔導灯の下を、
黒いローブをまとった追跡官たちが
行き来していた。
壁際には、
魔力測定器がずらりと並び、
休みなく淡い光を点滅させている。
(……“非常時”の体制か)
エリアスは、
足音をできるだけ殺しながら
廊下の影を進んだ。
昔の記憶を頼りに、
文書記録室の前を通り抜ける。
扉は固く閉ざされ、
封印の符が新しく貼り替えられていた。
そこに、
小さな紙片が一枚だけ重ねて貼られている。
> 《記録外相性データ一時保管・転送完了》
短い文言。
だが、その意味は重かった。
(……俺たちの光の記録も、
ここを通ったのか)
エリアスは、
思わず拳を握りしめた。
すぐそばの掲示板には、
簡単な図が貼られている。
“未登録光対象者”と書かれた欄に、
見覚えのある数字の列。
その端には、
簡素な似顔絵のようなものまで描かれていた。
目深にフードをかぶった男。
そして、
長い髪をひとつに結んだ女性。
特徴だけを抜き出した
簡略的な線画にもかかわらず、
自分たちのことだと分かってしまう。
(ここまで、
“排除対象”として扱うのか)
心の奥にあった怒りが、
小さく火を噴いた。
記録外の光を
「危険」だと定義したのは、
誰の都合だったのか。
人々の心を守るはずだった技術を、
誰が最初に“鎖”に変えたのか。
その答えは、
この奥にいるはずだ。
***
エリアスが奥の廊下へ進もうとしたとき、
前方から人の声が聞こえてきた。
「——追跡状況はどうなっている」
低く、
よく通る声だった。
エリアスは、
柱の影に身を隠す。
廊下の先には、
黒いローブの追跡官と並んで
ひとりの男が立っていた。
婚活庁の副長官、ラウド。
彼の胸には、
真新しい紋章と階級を示す記章が
光っている。
「記録外の光を示した二名、
エリアス・グレンとリリア・エステルについては、
未だ確保できておりません」
追跡官が答える。
「ただ、
住宅区および文書院周辺での反応は——」
「“反応”など、どうでもいい」
ラウドは、
冷たく言葉を遮った。
「重要なのは、
その存在を長く放置しないことだ」
その声音には、
感情の起伏がほとんどなかった。
それがかえって
不気味な響きを持つ。
「制度は“安定”を前提としている。
記録に残らない光など、
民衆に知られるわけにはいかない」
「しかし、副長官——」
「たとえ真実であったとしても、
秩序を乱すなら、それは“誤り”だ」
ラウドは
当たり前のことを言うように続けた。
「未登録の光を持つ者は、
適切な再教育の対象とする。
個人の感情の自由など、
この国の安定の前では
取るに足らないものだ」
エリアスの爪が、
掌に食い込んだ。
(……そうやって、
全部“誤り”にしてきたのか)
文書院の分館で見つけた古い記録。
“真の相性”と呼ばれた光。
それを
危険物として封印したのが、
目の前の男たちのような存在なのだ。
「例の文書は、
完全に封印しました」
別の職員が
資料を抱えて報告する。
「前史資料にあった“真の相性”に関する記述も、
一般職員の閲覧リストからは削除済みです」
「よろしい」
ラウドは頷いた。
「古い迷信に縋る者が、
制度を揺るがすことのないように」
「ですが、副長官。
“真の相性”の記述が事実だとしたら——」
「事実であろうとなかろうと関係ない」
ラウドは静かに言った。
「この国を保っているのは、
光の“数値”と、
それに基づいて組まれた婚姻の網だ。
それを外れた者は、
たとえどれほど純粋な感情を持っていようと——
制度にとっては障害でしかない」
エリアスは、
その言葉の一つひとつを
心に刻みつけるように聞いていた。
(……人の心を、
本当に“数値”でしか見ていない)
そういう人間が、
今この国の“婚”の仕組みを
支配しているのだ。
深く息を吸い込む。
肺の奥がひりついた。
(あいつは、
きっと俺たちの顔を見ても何も感じないだろうな)
記録外の光を持つ者として、
排除すべき対象としか見ない。
それでも——
(俺は、
あんたの顔を、
このまま知らないふりはしない)
エリアスの中で、
静かな怒りが形を持ち始めていた。
***
その頃、
リリアは人通りの多い市場に足を踏み入れていた。
家から少し離れたこの場所なら、
人の声に紛れて
自分の心のざわめきも
少しは誤魔化せる気がした。
露店の並ぶ通りを抜けながら、
リリアは考える。
(エリアスさんは、
今ごろ婚活庁の中なのかな)
想像すると、
胸が詰まりそうになる。
危険だと分かっているのに、
そこへ向かうと言った人。
自分が一緒に行けないと分かっていながら、
それでも背中を押すしかなかった人。
(……わたしも、
何かしなきゃ)
家族の顔を見てしまった以上、
何もしないで隠れていることはできない。
逃げれば逃げるほど、
いつか家族ごと追い詰められるかもしれない。
(だったら——
逃げないで、
向き合わないと)
今の自分にできることは何か。
真実を知った者として、
何を選ぶべきなのか。
答えはまだはっきりしない。
ただ、その輪郭だけは
ぼんやりと見え始めていた。
「……ん?」
ふと、背中に視線を感じた。
振り返ると、
人混みの向こうに
黒いローブの裾がちらりと見えた。
婚活庁の追跡官。
リリアは
反射的に歩く速度を早めた。
人垣に紛れようとするが、
さっきから視線の気配は消えない。
遠くで、
魔力測定器の低い音が鳴っている。
(見つかった……?)
胸が早鐘を打つ。
逃げるのか。
この場でやり過ごすのか。
足が揺れたとき、
エリアスの声を思い出した。
『俺は、自分で選んで危険な場所に行く。
でも君に、それを強いることはできない』
あのとき、
何も言い返せなかった。
でも今は——
自分で選ぶ番だ。
(逃げるだけじゃ、
きっと何も守れない)
リリアは、
ぐっと唇を噛んだ。
市場の喧騒の中、
彼女の背中を
黒い影が静かに追い始める。
***
婚活庁の奥深く。
エリアスは、
副長官ラウドの姿が見えなくなるのを待ってから、
そっと柱の影から離れた。
今はまだ、
ここで飛び出していくべきではない。
怒りを、
復讐心に変えてしまえば、
簡単に制度の思うツボになる。
それは分かっている。
(俺は、
自分のためだけにここに来たんじゃない)
自分と、
リリアと、
同じように“記録外の光”を持たされた人たちのために。
そして、
制度を絶対だと信じて
自分の心を押し殺している
無数の人々のために。
何かを“変える”ところまで
行けるかどうかは分からない。
ただ——
この目で見て、
この足で踏み込んだ事実だけは、
誰にも奪えない。
(それでも、
あいつのところまで行かなきゃ)
ラウドのいる執務区画へ繋がる階段へ
足を向けかけた、そのとき。
背後で、
かすかな靴音がした。
反射的に振り返る。
薄暗い廊下の奥に、
黒いローブをまとった影が立っていた。
顔はフードの陰に隠れている。
しかし、
こちらをじっと見ていることだけは
はっきりと分かった。
ローブの胸元で、
婚活庁の紋章が
静かに光っている。
(……気づかれていたか)
エリアスは、
ゆっくりと息を吐いた。
逃げるか。
それとも——
ここで問いかけるか。
選ぶ瞬間が、
またひとつ目の前に突きつけられた。
***
街の反対側では、
リリアが人混みの中を進んでいた。
追跡官の足音が、
確実に近づいてくる。
彼女もまた、
別の場所で
同じように“選ぶ瞬間”に追い込まれつつあった。
ふたりはまだ、
互いの状況を知らない。
だが運命の線は、
別々の場所で張り詰めながらも、
ひとつの方向へと収束しようとしていた。
第十一話へつづく。




