第22話:新たな標的
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セーフハウスの空気は重く、窓の外の街灯すら頼りなく見えた。
蓮司と朝比奈が戻ると、榊原は机に突っ伏すように座り、真鍋は壁にもたれて煙草を握りつぶしていた。
「……止まったはずだったんじゃないのか」
真鍋の声はかすれ、唇が震えている。
榊原は両手で顔を覆い、嗚咽を必死に堪えていた。
「仇を……とれたと思ってたのに……。また、同じことが……」
その肩が小刻みに揺れるたび、蓮司の胸の奥にも同じ重さがのしかかってきた。
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光がディスプレイに新しいデータを投影した。
《霧崎ユイナの搬送記録を検出。搬送先の病院は、笹本信一が顧問を務めています》
「……笹本?」
朝比奈の目が見開かれ、口にくわえていたタバコがポトリと床に落ちた。
指先がかすかに震えている。
真鍋が顔を上げ、息を呑んだ。
「その名前……厚労省医薬局の笹本信一か? 俺、院内の裏契約リストで見たことある」
蓮司の脳裏に、あの穏やかな笑顔がよみがえる。
——ついさっきまで「同志」だと信じていた声が、耳の奥でまだ温度を保っている。
胸の奥が、石槌で叩かれたようにひび割れ、息が詰まった。
視界の端が白く霞み、心臓が乱打する。足元から血の気が引いていき、膝が一瞬かくんと折れそうになる。
『妻を病院の不正で失いました』
味方だと思った言葉が、すべて罠の糸に変わって絡みついてくる。
「……ふざけるな。笹本さんが……あいつが繋がってるってのか?」
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膝が震え、支えを求めるようにソファへ腰を落とす。蓮司は俯き、喉の奥で言葉を噛み潰すように吐き出した。
「……笹本信一。……あいつを……ターゲットにしろ」
光のアイコンが揺らぎ、低い駆動音が響いた。
《検索開始——対象:厚労省医薬局・笹本信一》
スケールアイシステムが起動する。
闇の虚空に光の糸が編み込まれ、断片的な記録が浮かび上がった。
それは封印されたままの過去——内部会議の映像だった。
——数年前、厚労省・医薬局。
長机に積まれた分厚い承認資料。時計の針の音だけが響く会議室。
若い局員が勇気を振り絞って声を上げた。
「……承認が遅すぎます。このままでは救える患者が死んでしまう。プロセスを短縮すべきでは?」
笹本信一は眉一つ動かさず、机に書類を叩きつけた。
乾いた音に、幹部たちの背筋が震える。
「短縮だと? 君は現場の声しか見ていない。
もし副作用が出たら誰が責任を取る? 厚労省か? 君か?
——承認は遅らせる方が安全だ。追加データを積ませれば、国も、制度も守れる」
局員は口をつぐみ、沈黙が支配する。
笹本は椅子に深くもたれ、冷ややかな笑みを浮かべた。
——承認も拒否も、生死すらも。
すべてを握る彼の言葉は、省内で「帝王」の異名を生んだ。
映像が霧散する。
沈黙を破ったのは朝比奈だった。
鋭い視線を光に向けながら、低く問いかける。
「……一見すると、“安全のため”に見える。
だが、本当にただの慎重さなのか? どこかに仕掛けがあるだろう」
光が応じるように赤い糸を広げ、網目を描き始める。
《問題は“空白”です。承認を遅らせることで灰色の期間が生まれ、その間に未承認薬が裏ルートへ流れる。——慎重さの仮面をかぶった制度設計です》
榊原の唇が震えた。
「……裏ルート?」
光のアイコンが淡く明滅する。
《はい。承認が意図的に遅らされることで“承認待ち”の灰色期間が生まれます。本来なら使えない薬が、その間だけ“治験”の名目で第7病棟に流されるのです》
榊原が青ざめた顔で後ずさる。
「……全部、あの人が……」
蓮司は深く俯いた。顔を上げることもできず、吐き出す声はかすれて震えていた。
「……治験で……人を“喰いもの”にして……さらに……」
光のアイコンが淡く揺らぐ。
《承認を意図的に遅らせることで“空白期間”が生まれます。その間、本来なら救える患者が薬を使えず、静かに命を落とすのです》
蓮司の胸が重く沈む。
「……どっちに転んでも……人は殺されるように……仕組まれてる……」
短い沈黙。
光の声が低く結ぶ。
《はい。現状の制度設計には、その二重の死が組み込まれています》
蓮司は力なく目を閉じ、ソファに沈み込んだ。
止められない震えだけが、手の平に残っていた。
榊原は涙で赤くなった目を上げ、唇を噛んだ。
「……やるなら、私も動きます」
真鍋も力強く頷く。「次は取り逃さねぇ」
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蓮司は拳を固く握りしめる。
——力を込めれば込めるほど、拳は小刻みに震え続けた。
止めようとしても制御できず、掌に食い込む爪の痛みさえ、その震えを抑えることはできなかった。
光のアイコンが淡く揺らぎ、低い声が落ちてきた。
《……手が震えています。あなたの心拍と交感神経が過負荷状態です》
蓮司は顔を上げなかった。
「……放っておけ」
声は掠れ、震えを隠そうとするほど、震えが際立っていた。
霧崎ユイナの死と、笹本の裏切り。二つの重さが一気にのしかかり、足元から力が抜けていく。
思考は鈍く、体の芯が鉛のように沈んでいく。視界は暗く狭まり、ただ呼吸を続けるだけで精一杯だった。
鬱の波が、骨の髄まで侵食していく感覚。
同時に、事件が自分たちの手に負えないほど巨大に膨れ上がっていく恐怖が胸を締め付けた。
国家、制度、そして笹本。自分たちが挑んでいるものは、あまりにも大きすぎる。
——けれど。
「やらねぇと……ここで止まったら、全部が終わる」
焦燥感が喉を焼き、荒い息となって吐き出された。震える手が制御できず、机の縁を強く掴む。
まるで自分の体まで裏切っていくように、力が入らない。
それでも、蓮司の目だけは諦めなかった。
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光が画面に新しいマップを表示する。
笹本の勤務先、会議予定、そして「非公開の視察予定」が赤くマークされる。
《さとり同盟全チャンネルを再起動。新たな標的をロックオンします》
「……よし、動くなら今だ」
朝比奈の目が鋭く光り、声には揺るぎがなかった。
榊原も机を叩きつけるように言った。
「ようやく繋がった……! あの人さえ落とせば、一気に形勢を変えられる!」
真鍋は煙草をもみ消し、短く吐き捨てた。
「潰すしかねぇ。あいつを野放しにしたら、また誰かが消される」
セーフハウスの空気は一気に熱を帯び、全員が笹本の首を取る未来しか見ていなかった。
——ただ一人、蓮司を除いて。
蓮司は唇をかみ、頭を振った。
「……待てよ。あまりにも“わかりやす過ぎる”」
朝比奈が振り向く。「どういう意味だ」
光が一瞬だけ沈黙し、低い声で告げた。
《敵が自ら名前を晒すのは——“見せ札”である可能性があります》
胸の奥に冷水を流し込まれたような感覚。
味方の仮面を剥がしたつもりが、逆に誘い込まれている。
「……つまり、奴は自分が黒幕だと気づかせることすら計算済み……?」
光の声は静かに肯定するように震えた。
《背後にいる協力者、そして“さとり同盟”を炙り出すための罠》
仲間の視線が熱を帯びれば帯びるほど、蓮司の胸には重石が積み上がる。
——皆が前へ進むほど、自分だけが足を取られて沈んでいく。
拳は止められないほど震え、思考は「罠」「裏切り」「失敗」ばかりを繰り返していた。
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蓮司はしばらく黙り込み、やがてゆっくりと拳を握りしめた。
その震えを隠そうともしない姿に、セーフハウスの空気が固まる。
——まるで高熱の身体で百メートルを全力疾走し、新記録を叩き出そうとしている人間を見せつけられたようだった。
止めるべきか、信じるべきか。誰も言葉を発せないまま、ただその背中を見つめるしかなかった。
「……罠だろうが知ったことか」
低く吐き捨てる声に、揺るがぬ熱が宿る。
「たとえ刺し違えることになっても——真実は暴く。それが誰かの未来を繋ぐなら、俺の命くらい安いもんだ」
朝比奈が目を細め、煙草の火を強く吸い込む。
その眼差しには、共に堕ちても構わないという覚悟が浮かんでいた。
モニターの中心で、笹本の顔写真に赤いターゲットマークが重なった。
——新たな狩りが、始まる。
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——その頃、都内の高層ビル。
夜景を背に、笹本信一は静かにグラスを揺らしていた。
窓に映る自分の顔を見つめ、ゆっくりと口角を歪める。
そこにあるのは、昼間の柔らかな笑みではない。
氷のように冷たく、人を人とも思わぬ笑みだった。
「……結局、下々の連中は数字でしかない。命も痛みも、捨て駒と同じだ」
指先で契約書の端を軽く弾き、赤い液体をグラスで転がす。
「その代わり、こちらには“さとり同盟”の尻尾が残る。深見蓮司の背後に潜む協力者も、これで炙り出せる」
低い囁きは、誰に聞かせるでもなく闇に溶けた。
「……真実にたどり着いたと思った瞬間、それこそが罠だったと知る。
それ以上に愉快なことはないだろう」
笹本の冷酷な笑みは、もはや人の表情ではなく——
支配者が駒を並べ替える時の無機質な愉悦だった。




