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第1話:プチ覚醒

1/8

——躁と鬱、その両極の波に振り回されるのが俺の病気だ。


けれど、その波の中でだけ目を覚ます“異常な感覚”がある。


躁のとき、脳は過活動し、ドーパミンとノルアドレナリンが過剰に放出される。


思考は加速し、相手の心の揺れや嘘さえ透けて見える。


だが同時に、神経系は過剰に興奮状態へと傾き、脳内物質のバランスが大きく崩れる。 その揺り戻しとして反動が生じ、活動が強ければ強いほど、終わった後の抑うつ状態も比例して深刻化する。


鬱のときは逆だ。


全身が鉛のように重く沈む代わりに、扁桃体と交感神経が異常に働き、音や匂い、足音の間隔まで鋭く拾える。


その過敏さは危険察知になるが、呼吸は乱れ、心拍は暴走し、時に意識すら飛ぶ。


——そして稀に、躁と鬱が同時に走る瞬間がある。


脳波は乱れ、神経はスパークし、医者なら「てんかん発作に近い危険信号」と診断するだろう。


その刹那、時間は引き延ばされ、世界は立体的に浮かび上がる。


だが代償は、神経細胞の損耗と寿命の短縮。


長く続ければ、本当に壊れる。


だからこれは“特別な力”なんかじゃない。


病の副産物であり、命を削る錯覚だ。


わかっている。使えば使うほど、自分は確実に壊れていく。


……それでも俺は、この感覚にすがるしかない。


誰かが消され、真実が闇に葬られるのを、黙って見ているくらいなら——


2/8

あの頃の俺には、心に決めていたはずのものがあった。


——二度と危険な場所には踏み込まない。


けど今は違う。


港湾地下通路の発見、茅葺グループ海外子会社への航路暴き、武装部隊との死闘——


命を賭けたあの一連の出来事で、俺は知った。


弱さも、病気も、全部が武器になる瞬間がある。


そして、その武器は俺ひとりのためじゃなく、世界中の仲間と分け合える。


もう、生き延びるためだけに動くんじゃない。


奪われたものを取り返し、まだ見ぬ闇を切り開くために——俺は前へ出る。


この命ごと燃やしてでも、進むしかないんだ。


3/8

昼下がりのセーフハウス。


テーブルには淹れたばかりのコーヒー、奥のモニターでは人型のアイコンが淡く揺れている。


椅子に腰を沈めていた深見蓮司は、ボサボサの髪に無精髭を残したまま、眠そうな目でカップを持ち上げた。


そのだらしなさは、張り詰めた空気の中で妙に人間味を漂わせている。


「……結局、あの夜が一番ヤバかったな」


その呟きに反応したのは、黒髪を短く整えた女だった。


黒のパンツスーツに白いシャツを合わせ、姿勢は隙なく正しい。


鋭く細められた瞳が、場の空気を一瞬で引き締める。


公安情報分析官・朝比奈藍——その存在感は、ただ座っているだけで緊張を生む。


「“境界”越えたってやつ?」


4/8

蓮司は頷き、あの路地を思い返す。


前も後ろも武装した連中に塞がれ、銃口がこちらを狙っていた瞬間——


躁の直感と、鬱の感覚が同時に研ぎ澄まされ、時間が何倍にも伸びた。


足音の間隔、呼吸の速さ、トリガーにかかる指の音まで、すべてが立体図のように脳裏に浮かんでいた。


「正直……あれがなかったら、今ここにいない」


5/8

《あの現象について、私は名前を付けました》


共振制御演算型AI・光の声が静かに響く。


「名前?」蓮司が目を細める。


《“プチ覚醒”です》


朝比奈が吹き出した。


「安っぽいネーミングね」


《正式には、“躁鬱感覚同時活性状態”ですが、日常的に使うには長すぎます》


「いや、そんな難しい病名みたいなの出されたら、余計ヤバく聞こえるだろ」


6/8

光はあの瞬間の蓮司の生体データを映し出す。


心拍、脳波、反応速度——すべてがピークに達し、通常の数倍の処理能力を記録していた。


《極限状態でのみ発現する可能性があります。持続時間は短く、代償は大きい》


「まぁ、終わったあと、全身震えて意識飛びかけたけど」


朝比奈はコーヒーを口に含み、視線を落とす。


「使いどころを間違えたら、あっという間に潰れるわよ」


7/8

蓮司はしばらく黙っていたが、ふっと笑みを漏らす。


「でも……あれがあるってわかっただけで、少しは戦える気がする」


《そのために訓練プランを再構築します》


「おいおい、また倒れるやつじゃねぇだろうな」


《安全性は……検討中です》


「今“検討中”って言ったな」


8/8

窓の外では港のクレーンがゆっくり動き始めていた。


港湾地下通路も、海外の倉庫も、まだ解明していない。


蓮司は椅子にもたれ、天井を見上げた。


「……プチ覚醒、次は勝手にじゃなく、狙って使えるようにしてやる」


光のアイコンがわずかに明るくなる。


《では、第三幕を始めましょう》

※本作品はフィクションです。実在の人物・団体・名称などとは一切関係ありません。作中に登場する病気(双極性障害など)の描写は、物語上の演出として描かれています。実際の病気については、必ず専門の医療機関にご相談ください。

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