八、天馬の拳
「ワシからこの碗をとってみい!」
老人の枯れた声が、野営地の広っぱに響きます。
蘇老人は袖で豪快に口元を拭うと、小さな編み笠を外して、お碗を両手でくるっと回しながら、自分の頭に乗せました。
「さすれば、逞しい馬をやろう」
報酬に対して簡単すぎるほどに見える、不安定な場所に据えられた陶器。
「ホントでやんすか!?」
と、背の低い少年が声を張り上げました。
素早く空を切る蘇老人の掌。
老人はそれをピタリと正面で止めて、
「お主らの、ほとばしる若さを見せてみい」
と、乾いた寒空の下で少年たちを誘いました。
劉備は蘇老人を、じっと見極めようとしました。
あの時、老人は余裕の表情だった__先主『劉備』は、後にそう語っておられたそうです。
「立派な馬って、女の子を乗せて、背中に……うへへ」
一人何かを想像して、緩んだ表情を見せる耿。
「馬の肉……じゅるる……」
よだれを垂らす太っちょの少年。
劉備はそれらを軽く無視して、仲間に目配せをしました。
「なんっつうか、簡単っつうかさぁ」
目を細めるノッポの青年。
彼は老人に向かって走り出すと、その手を前に伸ばしました。
虫が止まるような華麗な動き。
蘇老人は、半身を少し返すのみ。
「いただきでやんす!」
動きを止めた老人へ、背の低い少年が足を踏み出します。
蘇老人は、そちらに一瞥もくれず。
足元の小石を蹴りました。
「あいたっ!」
礫は背の低い少年の脛に当たって『ビタァン』と、その場へズッコケました。
太っちょの少年はその場で動かず、頭の碗に釘付けになっていました。
「お碗に盛られた、艶々の米粒……」
彼は……だめだこりゃ。
馬商人の立派な馬たちは、飛び出した鹿へ頭を向けました。
「そこの色ボケ!アニキの子分なら、早く突っ込めよ!」
背の低い少年が、動かない耿に文句を言うと、耿は自分を指して
「はあっ!俺があいつの子分?」
と、驚きました。
"あのご老体、どうしてあんなに動けるんだ?"
劉備は蘇老人に疑問を持ちながら、
「耿!」
と、この地方の呼び方で、彼の名前を呼びかけました。
「耿っ!」
と、すけべ男は誤りを正しながら、劉備と老人を挟み込みました。
「気を付けろよ、その老人かなり出来るぞ!」
劉備が耿に警戒を促すと、二人で巴の模様を描くように、足取り踏んで隙を探ります。
「ほらほら、早く動いて温めんと、体をやってしまうぞ」
蘇老人が二人を意地悪く誘います。
二人の視線にノッポが映ると、三人がかりで飛びかかりました。
「ナメんなっつうかさぁ!」
ノッポの青年が叫びます。
半身をずらす蘇老人。
襲いかかる手が空を切り、老人が背中から回転すると、青年は脚を刈られて、その場に尻もちをつきました。
劉備は瞬時に失敗を悟りましたが、そのまま耿と掴みかかります。
「ほっほっほ。少しは覚えがあるようじゃのう」
蘇老人はそう言って目を細めると、瞬時に右掌を前に出し、片脚の構えをとりました。
その瞬間、空気の音が聞こえて来そうな、静けさが辺りを覆いました。
体に『ぞわっ』と鳥肌が立つ劉備。
耿は前のめりの態勢で、右手を素早く伸ばしました。
左鉤手で受ける蘇老人。
左手を繰り出して粘る耿。
身を引いて老人が顔の前で受ける。
それに劉備が加わって、腕を広げ老体を包囲しました。
「こんなに激しく動いたのは、何年ぶりかのう」
蘇老人は頭を下に向け、碗を足元に落としました。
「えっ?」
時が遅くなったように、落ちる碗に目線を向ける劉備。
その刹那、老人は軽く碗を蹴り上げると、身を翻し空高く舞い上がりました。
「えええええっ!」
空を見上げる劉備と耿。
高くとんぼ返りするその老体は、日の光を遮って、まるで後光が差すかのように、彼らの目を驚かせました。
呆気に取られる耿へ向かって、劉備が大声で指示を出します。
「わん!わん!」
足をやられた背の低い少年が、
「犬?」
と、脛をさすりながら顔を上げました。
「違う!お・わ・ん!」
劉備はそう叫ぶと白いその落下物へ向かって、自慢の足でツッコミました。
土の上でまばらに生えた枯草。
地面に腹を擦りそうにしながら、劉備の体が横に流れます。
「よっ」
彼が両手を必死に伸ばすと、靴の先が碗を蹴り上げました。
蘇老人は、再び頭で腕を受け取ると、腕を翼のようにして構えを作り、
「飛翔すること、天馬の如し!」
と、高らかに詠い上げました。
"今の俺たちは、この老人に絶対勝てない気がする……"
天馬の構えを決める蘇老人を見て、劉備はそう思いました。
後ろに腕を伸ばしたその滑稽な格好も、蘇老人の実力が妙な説得力を与えていました。
「馬の肉ぅぅっ!」
今頃やる気になった太っちょの少年。
叫びながら老人の方へ突進しています。
子供とは言え、彼の体に着いた肉は、細い体の老人を押しつぶすのに十分な凶器でした。
慌てず懐に手を入れる蘇老人。
衣から干からびた肉の棒を取り出して、血走る太っちょの目の前で、左右にゆっくり振りました。
「ほれっ、ほれっ」
太っちょの少年は、顔ごと目で追っています。
棒を振る老人の手が止まると、そのまま棒を放り投げました。
「にくうぅぅっ!」
太っちょは口いっぱいに涎を漏らし、干し肉が飛んで行く方向へ、肉を揺らしながら走って行きました。
静まりかえった木枯らし吹く広場に、馬たちの『ぶるる』という嘶きが聞こえてきます。
「ほっほっほ。もう終わりかのぅ」
劉備たちの動きが止まったのを見て、蘇老人は前で手を組み直しました。
"母上はともかく、ここの所出会う大人は極端な力を持ったヤツらばっかりだ"
今まで大人をどこかナメていた劉備。
彼は蘇老人に実力の"差"を見せつけられて、大人に圧倒された時の事を思い出していました。
"剣なんぞは、学びを修めた後に手に入れればよろしい!"
"礼には……礼……頭を……垂れろ……"
劉備の脳裡に、これまでの言葉が駆け巡ります。
その記憶の中で、屋敷に祀られている先祖伝来の「王者の剣」が劉備の心に引っかかりました。
"備よ、この剣はご先祖である劉縯さまが帯びていた宝剣だ"
幼いころに聞いた、在りし日の父の言葉が劉備の頭の中に蘇ります。
"そう言えば光武帝さまは兄である劉縯を主に誅殺された時に、まずは復讐よりも兄の非礼を謝罪したと聞いたな……"
その時、劉備の頭の中で閃きが走りました。
「この通りだ!俺たちをアンタの……」
腕を組んで高くそびえる蘇老人。
劉備は生まれて初めて大人に対して、頭を下げて教えを請いました。
その時。
『カァン』と、お碗に直撃する石。
それはそのまま地面へ落ちると、『ゴッ!』と鈍い音を立てました。
目が飛び出さんばかりの表情をして、蘇老人がお椀を見つめます。
「あぁぁっ!ワシのお気にに入りがあぁぁっ」
地面に転がる、変わり果てた姿の白い碗。
「作戦成功でやんす!」
そして、少年の会心の叫び。
皆の目線の先には、背の低い少年が映っていました。
蘇老人は体を震わせて、
「碗を取れとは言ったが、割れとは言っておらん!」
と、真っ赤な顔で地団駄を踏みました。
「まあ、確かに」
真顔でうなずく耿。
涙を溜めた蘇老人は、劉備たちを指さして、
「お前ら弁償が終わるまで、しばらくタダ働きな!」
と、大きく打ち震えました。
劉備たちは割れた碗を片付けると、蘇老人の前に整列させられました。
蘇老人が目をクワッと見開いて、
「おぬしら!そもそも足腰の基本が成っておらん」
唾を飛ばしながら駄目を出します。
「サアァァセン!」
一同そろって、謝礼の姿。
「ご老人、いえっ!御大。あなたは一体何者なのですか?」
劉備が敬語で尋ねました。
「ワシは天馬の拳の使い手で、皆からは『蘇家師』と呼ばれておる」
耿が顎に指を当てて尋ねました。
「馬商人が拳法の達人ですか?」
「ワシらのような商人は、『儒教』に護られてはおらん」
白いヒゲを撫でながら、落ち着いて語る蘇家師。
「腕力を示す事によって、取引の公平を守っておる!」
と、老人は腕の小さい力こぶを見せました。
意味が分からず、白目をむく背の低い少年。
「じゃが……」
蘇家師が劉備の方をチラッと見ました。
"ん?俺っ?"
「蘇のジジイ!」
突然鳴り響いた老人の叫び声。
「そんなに半人前を抱えてどう言うつもりぞな!」
黒い衣服の背の高い老人が、夕日を背にして佇んでいます。
彼はもの凄い速さで距離を詰めながら、
「そんなヤツらは、芽が出る前にワシが摘んでやるぞな!」
と、凄んで人差し指を突き出したと、伝えられております。
次回へ続く。
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