七、謎の老商
「ほっほっほ」
そよ風が桑の木々を揺らし、木陰で静かに笑う一人の老人。
枝葉から漏れる日の光が、足もとにまだら模様の影を作っていました。
老人は藁で編まれた小さな笠を押し上げてこちらを見ていたと、先主『劉備』は後に語っておられたそうです。
「その異彩を放つ顔立ち、貴殿は高貴な家柄の方だとお見受けする」
老人が乾いた声で低く述べると、劉備の隣にいた耿が胸を張って誇らしげに言いました。
「よくわかってるじゃねえか!」
一瞬、枝葉がこすれ合う音が止み、場にしばしの沈黙が訪れました。
「ご老人は商人かい?」
劉備は老人の白い衣を見て、その生業に見当をつけました。
「いかにも、ワシは西の中山国より買い付けに参った、蘇双と申す者ですじゃ」
老人はそう名乗ると、深々とお辞儀をしました。
"ん?"
黒く、艶やかな力強い馬の脚。
劉備は雄々しい馬たちを思い浮かべました。
「あっ、市場で馬を引いてるのを何度か見たぞ」
「ほっほっほ」
蘇老人がゆったりとした声で笑い、
「如何にも、ワシは選りすぐりの美丈夫(男前)たちを斡旋しておる」
と、片目をつぶりました。
その言葉に息を飲む劉備。
耿が会話に割って入って来て、
「乗るんだったら、俺は美丈夫より、美しょ……」
と何かを言い終える前に、劉備は『スパァァァン!』と彼の頭を叩きました。
「ほっほっほ」
蘇老人の乾いた笑いが小さく響きます。
「ところで、馬の爺さんがこの俺をご指名かい?」
劉備は腕を組み、目を細めて蘇老人を訝しみます。
一気に劉備との距離を詰める蘇老人。
「うわっ!」
劉備が声を上げると、蘇老人は彼の顔を凝視して、
「なるほど、噂に違わぬその魅力……」
そして、ゆっくりと目線を下へ移し、
「この引き締まった腿……お主にはその才覚があるのう」
と評しました。
思わず身を引く劉備に対し、
「お主、逞しい馬は好きじゃろ?」
と強く迫る蘇老人。
劉備は唾を飲みこみます。
すると、
「俺たちはここいらで名の知れた、『白馬騎士団』だ!」
と耿が蘇老人を制しました。
細い目で耿を見据える蘇老人。
劉備は耿の言葉を聞いて、思わず視線を落とします。
"おめえは、自分の力で勝った訳じゃねえ!"
公孫瓚の戒めが劉備の心に鳴り響きました。
「せっ、千の金子っ、千の金子をやろう!これでワシと一緒に大草原へ飛び出さんか?」
不意打ちのように放たれた蘇老人の言葉。
"俺はいつかあんな馬に乗って、英雄のように中華を駆け回るんだ!"
劉備の志が、誘惑への疑いを暈していきました。
頭の中の整理がつかず、自分を求める蘇老人に目を丸くする劉備。
「おっ、俺にゃそんな価値はねえよ!」
劉備が蘇老人を軽く拒むと、
「お主には人を狂わせるほどのモノがある、それゆえに、若い衆を集めて欲しいんじゃ」
と劉備に拱手して、頭を深く下げました。
通り過ぎていく風が、桑の木をざわめかせました。
「爺さん、話は分かったが、人を集めてどうすんだよ?」
耿が問いかけました。
蘇老人は衣を払い、
「ふん、馬はお主らでは手が出せんほど高価じゃろ?かどわかされんよう、守らねばならん」
と耿を再び細い目で見据えました。
「つまり、丈夫(立派な男)を集めて、囲えと言う事かい?」
とりあえず話をまとめる劉備。
「わっ、ワシの言いたい事はそれじゃ!」
蘇老人が、少し鼻息を荒げました。
「草原ということは、異民族とやり合う事もあるわけか」
劉備のその言葉に耿が反応するかのように、
「えっ……じゃあ蓮の姫君に会うかも知れんな!」
と彼も声を昂らせました。
劉備はそっと頬をさすります。
彼の胸の奥で、沸々と何かが燻り始めていました。
「分かった、蘇老人、俺は草原を駆ける!!」
劉備は凛とした目つきで蘇老人に打ち明けました。
「おおっ!なんという」
それ以上何も語らず、ただただ劉備に深く礼をする蘇老人。
「備耳(劉備のあだ名)、白馬騎士団の力の見せどころだな!」
耿は大きな声を上げ、劉備の肩を叩くと、
「あっ、ああ」
劉備は耿から視線を外しました。
"哥哥(お兄さん)に会うのか……"
彼の胸の中で、淡い想いと恐怖がせめぎ合っていました。
夜が明けると劉備は、愛馬『的』に跨って、村を北へ向かいました。
劉備の住む楼桑の村から遼西郡まで行くには、約ひと月かかります。
劉備は一日千里を駆けると言う汗血馬である的の脚力を最大限に発揮させ、公孫瓚の下へと足を速めました。
「俺の歌舞の脚じゃ、遼西に着いたころにゃ年が明けちまう」
劉備は耿に公孫瓚の所へ一緒に行くことを頼みますが、彼は愛馬の脚力を理由に断ってきました。
そして、
「それに、草原へ発つ前に、母ちゃんより先に自分の部屋を片付けたいからな」
と、付け加えました。
劉備は強い風を体に受けながら、振り落とされないよう、腿でしっかり的を挟みます。
力を込めて手綱を握る劉備。
"哥哥……"
晩秋の風が、冷たくその身を冷やしました。
遼西に近づくにつれて、円柱状の簡易な家屋が目立ち始めてきました。
その周りでは、白い小動物や馬などが放たれています。
「哥哥の天幕を尋ねてみたが、すでに片付けられていたからな」
劉備はそう呟きながら、邑の城門を目指します。
邑の有力な家柄の出である公孫瓚を探し出すのは、意外とたやすい事でした。
「ダメだ!オラはやらねえ!」
眉間にしわを寄せてそう言い放つ公孫瓚。
彼の言葉に劉備は、胸を締め付けられる感覚を覚えました。
それを否定するように、劉備は震える口を開きました。
「哥哥、白馬騎士団を中原に知らしめるのに……」
「おめえ、オラをなめんなよ!」
公孫瓚が大声を上げます。
劉備がこみ上げるものに耐えようとすると、公孫瓚は一瞬目を見開き、唇を少し開けました。
公孫瓚は鼻息を『ふっ』と吹き、
「それは、おめえを見込んで持ち込まれた話じゃねえか」
と、優しくも震えた声で劉備を諭しました。
劉備は公孫瓚の見せた優しさに葛藤しながら、立ち尽くしていました……。
――草原を一人、とんぼ返りする劉備。
寡黙な的と共に駆ける時間が、劉備の心を癒して行きます。
「気乗りはしないが、あそこへ行くか……」
しばしの旅路をたどるうち、冷たい風が冬の到来を告げました。
劉備の日焼けしていた肌は、雪のような色をとり戻し、身を覆う衣から、その綺麗な面持ちを覗かせています。
楼桑の村の市場では、屋台の野菜が彩りを変え、干物の生臭い匂いが漂っていました。
「くっそぉ!スッカラカンでやんす!」
広場の片隅から、少年のぼやく声が聞こえます。
劉備はその声に『ふっ』と、口を緩ませました。
「よっ、お前ら」
劉備が屯する少年たちに声をかけると、少年たちはお化けでも見るような顔をして、一斉に振り返りました。
「あっ、劉のアニキ!」
背の低い少年、ノッポの青年、太っちょの少年。
順番に彼らを見る劉備。
"こいつらを危険な目に合わせたくはないが……"
劉備は一度目を閉じ、不敵な笑みを作って、
「今日は、お前らに大儲けの話を持ってきたぜ!」
と得意げそうに言いました。
少年たちは曇りのない眼で劉備に視線を寄せ、
「ちょうど賭けすぎて、袋を空にされてた所でやんすよ」
と背の低い少年が劉備に訴えました。
「お前の興奮すると止まらない所は、前と変わってねえなぁ」
そう劉備は、ニヤニヤと白い歯を見せます。
「この間アニキの言ってた『雒陽の秘技』どおりやったらさぁ、上々でさぁ」
ノッポの青年がゆぅぅぅっくりと、自分の調子で語りました。
「嘘つけ!お前も素寒貧に剥かれたくせに」
間髪入れず、青年に突っ込む背の低い少年。
「いっぱい喰いてえ」
太っちょの少年は、潮の芳しい匂いがする方を眺めて、大きな腹をさすっています。
「わかった、みんな美丈夫とは言い難いが、決まりだな!」
劉備は少年たちの顔を見渡すと、背の低い少年は、
「また、アニキとつるめるんだ!」
と、その頬を緩ませました。
村の外れには天幕が張られ、蘇老人の商隊がそこを仮の住まいとしていました。
劉備は仲間三人を連れてくると、天幕の前に耿が先に来ていました。
劉備が白馬騎士団が当てに出来ない事を耿に告げると、耿は目を見開いて
「えっ、駄目だったの?」
と驚きの声を上げました。
"こいつは、なんて幸せな奴なんだ"
劉備は精神が抜けていくような感覚を覚え、耿を見て白目をむきました。
「それにしても、活きの良い子供三人と、俺と備耳合わせて五人か……」
耿が今回の成果に肩を落とすと劉備は、
「それなら耿、お前も仲間集めて来いよ!」
と、この地方の発音で彼の姓を呼び、声を荒げました。
「そもそも俺の郷里はだなあ……」
耿が言い訳をしかけると、天幕の中から蘇老人が
片手に碗を持ち、現れました。
「ほっほっほ。連れて来たようじゃのう」
蘇老人はそう笑うと碗を飲み干し、拳法の構えを取ったと、伝えられております。
次回に続く。
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