六、師の教示
「私はここより遥か南、長江の畔の地へ『儒教』のすばらしさを伝えに行かねばならなくなった!」
盧先生の釣鐘のような声が、教室の終わりを告げました。
草盧の中では生徒同士が隣の者と顔を見合わせ、互いの行く末を話し合っていました。
この時起こったざわめきを、『先主』劉備は後に「稲光前の雲のようだった」と、回顧しておられたそうです。
「はあっ?どういうことだよっ!」
久々に学舎に顔を見せた劉備は、声を荒げました。
「えっ、師父!どういうことですかっ!?」
同時に、呻くように声を上げる、従兄弟の劉徳然。
その席からは『カラカラ』と、氷雨のように冷たく竹簡が落ちる音が響きました。
「そうか⋯⋯もうこの席に座る事は無くなるのか」
そう呟いて、隣の空いた席に視線を向ける劉備。
彼の目に、そこで居眠りしている公孫瓚の姿が、薄っすらと浮かんできました。
"哥哥(お兄さん)……"
この教室で共に笑いあった日々。
それを思い出す一方で、先日、公孫瓚から厳しい言葉をかけられた事を思い出し、劉備の胸はざわついていました。
微かな残暑が、過ぎ去った時を呼び覚ますようでした。
盧先生が「うむっ!」とうなずくと、少しざわめきを静める生徒たち。
劉備が再び教壇の方を向くと、先生は一本の得物を構えていました。
"何だありゃ!?"
一丈(成人の身長)ほどもある、馬鹿でかい筆。
劉備はそれを目にし、息を飲みました。
盧先生が桶に筆を豪快に突っ込むと、墨が溢れ、辺りを黒く染めました。
前列に墨を豪快に飛ばしながら、振り上げられた巨大な筆先。
彼はそれを、背後の白塗りの壁にあてがうと、力強く筆先を押し付け、一心不乱に得物を上下させます。
真剣な眼差しの盧先生。
神聖な筆先が純白を染め上げていきました。
徳然は無意識に身を揺らしながら、その筆さばきを体に刻み込んでいるかのようでした。
そして、仕上げに筆を勢いよく跳ね上げた盧先生。
先生は静かに身を引いて、筆先を垂らしました。
白壁へぶちまけるように描かれた巨大な一文字。
劉備は仕上げられたそれを見つめ、読み上げました。
「仁?」
盧先生は、『ふっ』と息を吐くと、書き上がった文字を見て「うむっ!」とうなずき、口を開きました。
「私は故郷の子供たちに正しい教えを伝え、『春秋』の加護を守るため、この教室を開いた」
先生が静かに語り掛け始めると、生徒たちは背筋を伸ばしました。
「仁とは、心の底に秘める熱い物である」
締め切られた窓の簾が、微かな風に揺れていました。
盧先生は、自分の胸に手を当てると、
「礼とは、それを形にして伝える手段でもあります」
"――俺の秘めた志は、中華を駆けまわる事だ"
愛馬『的』と出会った雑木林の光景が、劉備の脳裏に蘇りました。
「仁を礼で表し、そして義を結び合う」
先生がその言葉を放つと、劉備は胸に稲妻が輝くような衝撃を受けました。
「人と人との繋がりが、やがて大きくなって国を成すのです」
先生はそう言って、言葉を締めくくりました。
徳然はその場で体勢を崩し、肩を大きく震わせていました。
劉備は目を閉じると、
"哥哥、俺は自分なりの仁を表すよ!"
そう胸に誓い、盧先生に向かって無言で拱手し、一礼しました。
余燼を残すかのような先生の教示に、その炎を胸に燃え上がらせる劉備でしたが、その火種は他の者をも焚き付けたようでした。
「師父!」
徳然はそう高らかに声を上げると、その場に立ち上がりました。
毛髪をまとめる巾の紐を解き、長い髪を下ろす徳然。
生徒の間で、ざわめきが起こります。
女性と見まごうほど純潔な姿の徳然が、淀んだ空気を晴らすかのようでした。
彼は、雪白の面持ちより涙を拭って見せると、背中に流れた髪を後ろでまとめ直しました。
艶のある黒色がうなじを魅せるよう、綺麗に垂れ下がります。
盧先生はその立ち振る舞いに、
「うむっ!」
と、声を昂らせ答えました。
徳然は教卓へ向かい礼をし、紅を引いたように色づいた唇を開いて言いました。
「僕、いや、わたしは、師父との短くとも濃密な時間を宝とし、今までの自分を葬り去る事にします!」
胸を突き出し発せられた、凛とした声が教室中に響き渡ります。
徳然の決意が終わると、盧先生は顔を紅潮させていました。
教室中で生徒たちから大きな拍手が巻き起こり、身を乗り出して興奮を表す者もいます。
"徳然の秘めている仁の大きさは、こんなにでっかかったのか⁈"
劉備は、徳然の豹変ぶりに驚きを隠せませんでした。
徳然は膝をそろえると、
「ありがとうございました!」
と、立派な礼をしました。
盧先生に師事を願いに来たときに見た、強力な『礼』を思い起こさせる劉備。
"こっ、こいつ、いつの間に!"
それは、徳然が確かに成長したことの証でした。
「師父、ご武運を⋯⋯」
徳然が嗚咽を堪えるように恩師の身を案じると、盧先生は足を一歩踏み出し、その場で留まったかのように見えました。
劉備の小麦色の肌から少しずつめくれ始めた薄皮が、季節の変わり目を示していました。
雑草が生い茂っている、稲刈りを終えた田んぼの畔道。
人々が草を踏み倒して、そこには自然と道が作られていました。
その道を歩き、帰路につく劉備。
"我が子よ、『儒教』を修めなさい!"
草の匂いを感じながら、劉備の頭の中では母上の言葉が響きます。
「言えないよなぁ、何も修めてませぇんだなんて……言えないよなぁ」
乗馬に明け暮れている間に、徳然に勉学の差をつけられた劉備は、頭を悩ませていました。
「明日っからどうすっかなぁ……」
劉備が屋敷の近くまで来て見上げると、大きな桑の木が目に移りました。
「俺は、きっとこんな羽飾りのついた車に乗ってやるんだ!」
蘇る幼いころの記憶。
劉備は一族の子供たちと遊びながら、馬車の天蓋のように広がる桑の枝葉を差して、大きな夢を恥ずかしげもなく言っていたのを思い出しました。
「天子さまを目指すなんて……馬鹿げた夢だよな」
彼は顔を下ろし、
「それを言う度に、叔父さんに『一族を滅ぼす気か』って、よく叱られたな」
と、一人で懐かしんでいました。
「何をブツブツ言ってんだよ」
突然の声に驚いて振り返ると、劉備の後ろに耿がいました。
劉備がこの地方の読み方で、
「よう、耿」
と、抑揚の無い声で彼の姓を呼ぶと、
「耿だっつうの!」
と言って、彼はお決まりの返しをしてきました。
いつもと変わらず接してくる耿。
そんな友の様子に、劉備は少し表情を和らげました。
「お互い蓮の姫君には振られちまったが、傷心同士、仲良くしようぜ!」
耿が同情し、目頭を押さえると、
「パアァァン!」
という音が、劉備の耳に蘇ります。
劉備は頬に手を当てると、顔を真っ赤にした芙蓉(蓮の姫君)が、薄っすら思い浮かんできました。
「いや、俺は別に⋯⋯」
口ごもる劉備に、耿が無言で肩を叩きます。
乾いた音が、衣の肩から小さく聞こえました。
耿は手を引くと、自分の胸に親指を立てました。
「俺はこんなだけど、ご先祖はかつて世祖さまをお助けした雲台二十八将の一人なんだぜ!」
胸を張って先祖を語る耿が、言葉を続けます。
「そんな俺を振るなんてな、まったく見る目がねえぜ!」
地面から聞こえて来る、最後のひと鳴きの蝉の声。
劉備が耿に、意地悪く尋ねました。
「(かん)のご先祖、二十八将の序列は何番目だっけ?」
耿が口ごもり気味に答えました。
「じゅっ、十三番⋯⋯」
薄ら笑いを浮かべた劉備。
先祖を軽くコケにされた耿が、やり返します。
「備耳(劉備のあだ名)とこだって、英雄劉縯さまがご先祖って、すっげぇ微妙」
劉備は顔をほころばせて、
「弟ぎみが大英雄の『光武帝』さまじゃあなぁ、勝てるわけねえよ⋯⋯って、やかましいわ!」
豪快に耿の、先祖への不敬を笑い飛ばしました。
その時、劉備の笑い声に共鳴するように、
「ほっほっほ、お若いかたは元気がよろしいな」
と、どこからか笑い声がしました。
「なんだなんだ?」
声の主を探して、辺りを見渡す耿。
大きな桑の木が『さわさわ』と枝葉を鳴らしています。
「ワシはここですじゃ!」
桑の木より乾いた声がしました。
「木が喋った!?」
うろたえる耿。
「んな訳ねえだろ!よく見ろ」
劉備が桑の木を指すと、人影が跳躍するのが見えました。
「飛んだ!」
空中で身を翻し、一回転する影。
それは地面に足を付けると、ゆっくりと立ち上がり、白色の衣を日の下に晒しました。
「老人だって!?」
先主『劉備』は驚きなから白衣を見ると、老人は小さい網笠を『くいっ』と、押し上げたと伝えられております。
次回に続く。
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