五、蓮の姫君
「ヒヒィィィン!」
草原に鳴り響くいななき。
二頭の馬が蟠桃河に沿って、波のような蹄の音を大地に響かせています。
その時、『先主』劉備は栗毛の馬にまたがり、頭を低くして手綱を握っていたと伝えられております。
"飛ばし合いなら、いつも仲間たちとやっているから大丈夫"
そう心に言い聞かせる劉備。
手綱を握る手は熱を帯び、湿っていました。
「的、俺たちの初舞台だな!」
体に強い風を感じながら、劉備は栗毛に語りかけます。
劉備が手綱を取る栗毛の馬『的』は、たてがみをなびかせて、安定した走りを見せていました。
しかし、その隣を蹄の轟音を上げながら、前に轡を突き出して行く大柄な馬。
"こいつは相当な馬力を持っているな……"
劉備は大型を横目に見て直感しました。
鮮卑族の青年は、劉備を一瞥もくれず、手綱を握り続けていました。
力強く土を蹴り、風を切り裂いていく鮮卑族の馬。
彼のまとめられた後ろ髪が、ゆらゆらとなびいて劉備の目の前におどり出ました。
"やっぱり俺なんかじゃ、小さい頃から馬と共に生きてるあいつらには勝てねえのかな……"
鮮卑族の青年の背中を見せつけられながら、思いふける劉備。
その想いから、鳴り響く蹄の音さえ頭の中からなくなって行きました。
一切の『無』、白い空間。
"オラ達ははみ出しもんだけど、いつか真っ白な馬で揃えてみんなのために戦うぞ!"
空っぽになった劉備の意識の中で、公孫瓚の言葉がふいに湧き上がり、こだましました。
劉備は、『ふふっ』と小さく吹き出すと、
「いっちょ、やってみっかぁ!」
と公孫瓚の口真似をして、的の腹を蹴りました。
踵から伝えられる衝撃が神経を刺激し、足回りの回転数を上げる的。
劉備の顔に当たる風は、徐々に強さを増していきました。
しかし、鮮卑族の大型馬が、走り出してから真ん中ほどの所へ到達しました。
"このままでは奇跡でも起きねえかぎり追いつけねえな……"
劉備はそう見立てながらも、手綱を握り締めました。
"この負け犬王族が!"
鮮卑族の罵倒が、劉備の頭の中に蘇ります。
早くに父を亡くし、一族のはみ出し者となった劉備。
彼の中で、今一度熱いものがこみ上げてきました。
「俺は、この勝負で……人生を変えるんだ!」
劉備はそう叫ぶと、的の腹に二度、踵蹴りを入れました。
すると、的から「ブオォォォォン!」と、物凄い嘶きが噴き上げました。
「えっ⁈壊れたのか?」
的を気遣う劉備をよそに、その身体からゆっくりと立ち上る霧状の汗。
その汗が的の身体中から一気に噴き出すと、もの凄い向かい風が劉備の体に圧をかけました。
「なんじゃこりゃぁ!」
劉備はとっさに的の体へしがみつき、腕に力を込めました。
日の光にキラキラと輝く的の汗を見て、仲間の耿が声を上げました。
「あれはまさか、汗血馬か⁉」
身体中の古傷から、鮮血まじりの汗を噴き出しながら、その本性をさらけ出す的。
「的!これ以上はダメだ!」
劉備が制するも、的は今まさに追い越さんと、目の前の獲物を捉えているようでした。
「その駆ける速さ、まるで強弩より放たれた矢のよう」
後に『先主』は、そう回顧されてたようです。
「ンダ、バックレテンジャネェゾ、アン」
その様子を見た鮮卑族の仲間たちが、怒鳴りながら弓を取り出して構えました。
「お前ら卑怯だぞ!」
彼らの行動に、白馬騎士団の仲間たちが野次を飛ばしました。
その抗議を無視するかのように、『ヒュンヒュン』と弦を響かせる鮮卑族の弓。
霧雨のような矢が、冷たく劉備へと降り注ぎます。
なす術の無い劉備は、目を閉じ祈りました。
"ご先祖さま、劉縯さま!"
劉備の意識が霊魂のように浮遊し、まるで足がついていないような感覚をおぼえました。
"あの世から、ご先祖が迎えに来たのかな……"
劉備がそう思った時、
「――見ろ、飛んでるぞ!」
と、耿の驚愕する声が聞こえて来ました。
劉備が再び目を開けると、的が蒼天へ向かって軽やかな跳躍を見せ、矢をかわしていました。
まとった汗を、日の光で幻影のように輝かせる的。
皆はその様子に見とれ、その場に立ち尽くしていました。
「的、お前もそれなりの血統だったんだな」
劉備は的と共に着地すると、そのまま鮮卑の馬をぶっちぎり、目標の地点を一気に通過して行きました。
過ぎ去った的の風圧で、木が大きく揺れていました。
仲間たちから湧き上がる賞賛の中、公孫瓚の下へ駆け寄ろうとする劉備。
彼の気持ちは高ぶり、思わずその足を速めました。
その時、
「ンダ、イカサマシテンジャネエゾ、コラ」
と、鮮卑族から鋭い怒声が上がりました。
背筋を震え上がらせる感覚が、劉備の身体を走ります。
「いや、この勝負、こいつの勝ちだ」
公孫瓚が前に出て、鮮卑族を睨みつけました。
蟠桃河の空気が、再び冷えて行きます。
鮮卑族の青年たちが足を踏み出そうとしたその時、
「待ちなっ!」
彼らの中から、勇ましい声が聞こえました。
「やっぱり女だ!」
耿が身を乗り出して声を張り上げました。
先ほどまでのざわめきは雲散し、鮮卑族の騎馬が粛々と整列しています。
その間を堂々と闊歩して、威勢のいい声と共に少女が現れました。
「テメエら、漢同士の勝負にガタガタ言ってんじゃないヨ!」
巻きのかかった長い髪が後ろでなびき、その整った顔立ちには気品が漂っています。
辺りに『ぴゅゅう』と響く、耿の軽い口笛。
鮮卑族の青年たちは、少女を目の前に背筋を伸ばしています。
"あの娘は何者だ⁈"
劉備は目を細めて彼女を見守っていると、
「アタイらは腐っても硬派だろ!」
と、少女が剃りこみの青年たちに喝を入れました。
「サーセン、アネゴ!」
『ビシィィィッ』っと背筋を正して、キレイなお辞儀を見せる鮮卑族の青年たち。
「うん?あれは『礼』か」
異民族が見せた予想外の行動は、劉備に儒教の『礼』を想わせました。
"もし、乗馬の達人であるあいつらが、礼で統率されて襲い掛かって来たならば……"
劉備は、その壮観な光景を想像して背筋を凍らせます。
少女は劉備たちへと振り返り、
「アタイの名は『芙蓉』、仲間内では『蓮の姫君』って呼ばれてるってなもんさね」
と名乗りを決めました。
蓮の姫君(芙蓉)の髪を飾る金の輪っかが輝いています。
それに気が付いた劉備の背筋が、不思議と体を直立させました。
「ねえねえ、吃饭了吗?(ご飯食べたかい?)。好きな経書は何?どこの緑地で遊ぶのが好きぃ?」
耿は興奮しながら、彼女に早口で迫りました。
姫君は耿をガン無視しています。
「好きな狼煙の線は何色ぉ?」
耿はめげずに、姫君へ矢継ぎ早に話しかけました。
"あっちゃぁぁぁ"
見ていられなくなった劉備は、目を覆いました。
「お前、うぜぇ……」
河辺にその声が鳴り響くと、さっきまでいがみ合っていた者たちから『クスクスクス』と、嘲笑が聞こえて来ました。
「あぁぁぁっ!」
膝から崩れ落ちる耿をよそに、劉備が大声を上げました。
「えっ⁉」
姫君が劉備の方に顔を向けます。
姫君の顔をじっと眺める劉備。
つがいのみさごが『かんかん』と鳴き合うと、河の中州より翼を羽ばたかせました。
瞳を潤ませる彼女に、劉備は意を決して心を打ち明けます。
姫君の頬が蟠桃のような色に染め上がりました。
「その金色の髪飾り……あんたもしかして『鴻家』のもんか⁈」
劉備の言葉が終わると、姫君の少し開けた口が震えていました。
そして、突然巻き起こった一陣の旋風が、劉備の前髪に触れると、
「パァン!」
肌をおもいっきり叩く音が、辺りに鳴り響きました。
頬を押さえ、目を丸くする劉備。
「だったら何なのさっ!」
蓮の姫君は手の平を広げ、右腕を真っ直ぐに伸ばしていました。
彼女は素早く踵を返し、
「あんたらっ、いくよっ!」
と、鮮卑族の青年たちに指示を出し、その群れの中に消えて行きました。
それぞれの持ち馬に飛び乗る鮮卑族の青年たち。
蟠桃河を西へ去って行く騎馬群の中から、蓮の姫君の訴えが聞こえて来ます。
「今日の所は退いてやんよ!アンタなんか、『八百八屍将』が居たら瞬殺さね!」
その声と共に、鮮卑族は嵐のように去って行きました。
劉備は、ほっとした表情で公孫瓚の方へ振り返ると、彼は黙ったまま劉備をにらんでいました。
その目を見て、胸に冷ややかなものを感じた劉備。
勝利の余韻で仲間たちが笑いあっている中、公孫瓚が口を開き、
「おめえは、自分の力で勝った訳じゃねえ!」
と、大声で劉備を戒めました。
劉備は手を震わせて目を閉じると、思い出したかのように、
"我が子よ、『儒教』を修めなぁさい"
と、いつもとは違う、少し勉学に誘うような母上の言葉が、頭に浮かびました。
母上の言葉に促されるように、劉備は初心に帰るため、久々に盧先生の草廬へ顔を見せました。
この時、盧先生は教壇に立ち、
「この教室は、本日をもって閉める!」
と、教室の閉鎖を大声で、草蘆中に響き渡らせた伝えられております。
次回に続く。
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