三、礼の大家
草蘆の暑い空気を逃すため、開け放たれた窓という窓。
その中では少年たちが、机に竹簡を広げていたと申します。
その奥で長いヒゲの大男が、口から煙のようなものを立ち上らせながら、『ビシィィッ』と深く頭を下げ、『礼』を放ちました。
空間を従わせる礼の威力で、強くなびく劉備たちの髪紐。
腕を交差して耐える劉備でしたが、それを浴びた劉徳然は、その場に膝をつきました。
「うっ、くっ!」
その威力に悶える徳然の体から、見る見る生気が失われていきます。
「なんだ!?この物凄い圧の礼は!」
そう叫ぶ劉備が圧を受けた腕の隙間から覗くと、
「ほう、私の礼に耐えるとは大した奴だ!」
と大男は目を細め劉備を褒めると、再び頭をのけ反らせました。
"あの惹きつけられるような目は……俺たちと本気でやるつもりがあるのか?"
劉備がそう思っている内に、両腿に手を添え息を大きく吸い込む大男。
大男の周りが蜃気楼のように、徐々に歪んで行くのが見えました。
「備兄⋯⋯気をつけろ。あの方がおそらく『礼』の大家、盧子幹さまだ⋯⋯」
徳然がそう言い切ると同時に、大男の口から二回目の礼の圧が放たれました。
「ドウも!コニチハァァァァッ!!!!!!」
空間の道理を歪めながら、迫る大男の真っ直ぐな思い。
「うっ!」
劉備は徳然を庇うようにして、再び衝撃に耐えました。
「ああっ……」
苦悶の表情であえぐ徳然。
劉備は中腰で体を支えながら、ゆっくりとその目を開きました。
そこには完全にやられてしまって、足元で伏せている徳然の姿が。
草蘆の窓から少年たちが、外の様子を覗いています。
この時、『大儒』盧先生は、黒い袍(上着)を正し、伏せる徳然に視線を向けて、
「その白面の美男子が言う通り、私が盧子幹こと『盧植』だ」
と低く落ち着いた声で名乗ったと伝えられています。
「先生はなあ!『五経』の一つ『礼記』を極めておられるのだぞ!」
窓から飛んでくる、おそらく生徒の野次。
「どうりで……」
劉備は小声でそう呟くと、痙攣している徳然を見て、
"ちょっと待て。俺たちは弟子入りに来たんだよな?"
と訪問の目的を再確認しました。
劉備が徳然を気遣っている内に、盧先生は膝を揃えて三度目の動作に入りました。
"待て待て待て、あんな『礼』で三度も請われれば、どんな賢者でも壊れちまうぞ!"
そう危ぶみながら劉備が盧先生の方を見ると、すでに口の周りが歪み初めていました。
腕を交差し備え目を閉じる劉備。
"我が子よ、『儒教』を修めなさい!"
劉備の脳裡に母上の声が響きます。
「くっ、このまま帰ったら母上に大目玉だ……」
その時、呟く劉備の裾を徳然が『ギュッ』と引っ張り、
「礼には……礼……頭を……垂れろ……」
と助言しました。
"一人で夜遅く励んでいる徳然ならともかく、俺でも大丈夫なのか?"
劉備は不安になりながらも、一か八かで膝を揃えました。
"博打は俺の方が得意だ!"
「こっ、こんにちは……。」
劉備が先生の真似をしてぎこちなく礼の声を振り絞ると、彼の心に言いしれぬ清涼感が広がりました。
先生は劉備のつたない礼を見ると、大きく「うむっ!」とうなずき、
「礼の大切さがわかっただろ!」
と教え示すと、ヒゲを乱しながら草盧の中から走って来ました。
「君たち、若いのにやるなぁ!」
生気を失った徳然を抱き起こして二人を褒める盧先生。
先生に体を支えられながら徳然が空を見上げると、積乱雲が天へたどり着かんと、大きく大きく立ち込めていました。
"励んでも励んでもまだまだ足りない……"
徳然は劉備を撫でる先生を眺めながら、悔しい想いが収まりません。
"盧先生のように『礼』のてっぺんを極めたい!"
徳然はそう心に決め、湧き出る情熱を包み隠さずに、
「僕は今までの自分を脱ぎ捨てて……」
と先生にその想いを告げようとすると、
「うむっ!」
「早やっ!」
と劉備のツッコミはさておき、先生は二人の弟子入りを認め、満足そうにうなずきました。
弟子となった劉備と徳然は、先輩に伴われて草盧の中へ。
劉備が古い敷居をまたぐと、綺麗な衣を纏った少年たちが席へと腰を下ろしていました。
「何だ?あのみすぼらしい衣は」
少年たちがその口を隠して、劉備をこっそり横目で見ながら、
「劉元起さまの所に厄介になっている、備とかいうやつだ」
「あの方は清廉で有名だから、大方銭でもせびったんだろう」
と小声でヒソヒソ話をしています。
劉備の大きな耳はそれを聞き漏らさず、彼は密かに拳を握りました。
荊の花道を歩いてるように、一歩一歩と歩いて行くうちに、劉備の心を棘が刺しその心を傷つけて行きます。
劉備が募る怒りを胸に、思わず拳を振り上げようとしたその時、
「盧先生の『礼』に耐えるなんて、てえしたもんだなぁ」
と一番後ろの席の方から、青年の大きな声がしました。
その言葉のあまりのなまりっぷりに『ぷっ』と噴き出してしまう劉備。
"何だコイツ、もの凄くなまってるな"
劉備はこわばった顔を緩めて、青年の隣へと腰を下ろします。
「オッス、オラ遼西の公孫瓚ってんだ!」
小麦色に焼けた大きな体の公孫瓚はハツラツとした表情で、劉備にその名を名乗りました。
"遼西……北の方の出身だな"
劉備はそう感じながら、公孫瓚に返事を返しました。
「おっ、おう、俺は劉備だ。よろしく……」
公孫瓚は劉備をまっすぐな目で見て、
「おめえみてえな強えやつを見ると、オラは心が弾むぞお」
と屈託の無い笑顔で称えました。
生徒たちがそれぞれお喋りを始める中、盧先生がヒゲをひと撫でしてから「うむっ!」と大きな声を上げると、皆話すのを止めました。
静かになった草盧の中。
竹簡を緩やかに読み上げる盧先生。
草盧の中で『礼記』の言葉が優しく響きます。
片肘をついて頬杖しながら何度も顔を落とす劉備。
彼の耳には『すう、すう』と、数人の寝息が聞こえてきました。
劉備が前の方の徳然を見ると、彼は盧先生を静かに眺めて、時折下を向いているのが後ろの席から見えました。
"退屈になってきた……"
そう思いながら劉備はあくびして隣を覗くと、
「ぐうううっ、ぐうううっ」
公孫瓚が気持ちよさそうに大いびきをかいていました。
彼を見て『ふっ』っと微笑を浮かべる劉備。
静寂の中、時間がゆったりと過ぎて行きます。
盧先生が手元の竹簡に『さっ』と紐を回して結んで置くと、別の竹簡を紐解いて、咳ばらいをしてから読み始めました。
先生が冒頭の数行を読むと、
「ひゃあああっ!待ってました!」
と、いびきをかいていた公孫瓚が、むくっと起きてまるで子供のように大興奮をしはじめました。
その声に全員が振り返って、注目される公孫瓚。
劉備は公孫瓚を見て顔を赤くして大笑いしました。
草盧に響く盧先生の優しく、時折悲しげな声。
十倍の兵を持つ異民族を勇気と知恵で追い払った、英雄『李広』のお話が先生の口より語られていきます。
"妙な説得力があるな……盧先生は戦の経験者なのか?"
話が佳境へ差し掛かったころ、劉備がそんな想像をしていると、先生は机を『バンッ』と叩き、
「曰く、『桃李言わざれども、下自ずから蹊を成す』」
と、諺で話を閉めました。
"なんだ?この感じは……"
その言葉に何かを感じた劉備。
「桃の木の下に人が集まる、か」
その時、『先主』劉備は心に深く突き刺さったその言葉を呟いたと、よく懐古しておられたそうです。
日がたつにつれて夏の日差しは熱気を帯びて強くなっていきました。
陽炎の向こう方から綺麗な一頭の白馬が、誰かを乗せて走って来ます。
「哥哥(お兄さん)!」
白馬に乗った公孫瓚に大きく手を振る劉備。
公孫瓚が白馬から降りると、劉備が馬を撫でて呟きました。
「この暑い中、この馬に跨って駆け回れたら、すっごく気持ちいいだろな……」
馬の毛並みの柔らかさを、劉備は手のひらで確かめています。
公孫瓚が目を輝かせる劉備を笑顔で見つめていました。
草盧の窓から劉備たちを呼ぶ、先に来ていた徳然の声。
「君たち、早く来ないと師父の講義が始まるぞ!」
「勝った方が親分!」
公孫瓚がそう劉備に競争をけしかけると、二人は競争をしながら草盧へ走って行きました。
そんな日々が過ぎていく中、
「おいっおめえ!ちょっと顔かせ」
この日、公孫瓚が草盧の裏へ『先主』劉備を突然呼び出したと申します……。
次回に続く。
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