二、王者の剣
「はっ、母上!」
『先主』劉備の母上は、全身を藁まみれにしながらも、身なりからは想像できないほど、とても整った顔立ちをしていたと伝えられています。
垣根の桑の木が激しく揺れて、燕が空へと舞って行きました。
草履が吊るされ、莚が積まれた小屋の前に立つ母上。
劉備はかなり慌てながら、懐へ手を入れました。
「売り上げは、只今ここに……あっ!」
母上は襟を『サッ』と正して髪に付いた藁を払うと、落ち着いた口調で語りかけます。
「あなたも今年で齢十五、学問を始めるには良い頃合いでしょう」
枝葉が作る日陰にいるとは言え、その暑さから噴き出す体の汗。
母上は額の汗を拭うと、裙(スカート)の前を手で押さえながら、ゆっくりとすり足で歩いて来ます。
"いつもに増して、気品のある歩き方だ……"
そう思う劉備の目の前に、甘い汗の匂いが近づいて来ます。
劉備は顔を引き締めて、着崩していた衣を整えました。
「我ら親子も一応は世家の端くれ。あなたも孔子さまの教えである『儒教』を学び、ここらで一廉の人物を志しなさい!」
体を『ピン』と直立させて、母上の言葉を聞く劉備。
母上の言葉が終わると、絞り出すように劉備が口を開きました。
「しかし、高名な先生に師事するには、それなりの学資が必要だと聞いております。草履や莚を作って商う我々親子の稼ぎではとても……」
母に頭を伏せる劉備に、彼女は『はあっ』とため息を漏らし、
「なにを言っておるのじゃ。学資は先祖伝来の『王者の剣』を売ってそろえれば良いこと!」
と声を荒げて言い放ちました。
沈黙してしまった屋敷の庭に、
「あれっ?あっ、カブト虫!」
「しっ、ツノを立てて蜜を吸いに来たんだ」
と垣根の外から聞こえて来る、低くかすれた少年たちの声。
劉備と従兄弟の徳然は同時に声を出しました。
「母上!」
「おば上!」
しかし、母の歩みを劉備が顧みると、滴り落ちた波紋の跡。
"母上も女手一つで励んできたからな……"
劉備はそうとは思いながらも、
「ご先祖さまは、この世を乱す悪が現れし時、大いに振るいなさいと剣を残されました。それを手放すだなんて……」
と母に説きました。
目を閉じて『プルプル』と震える母上。
そして……。
「んだまらっしゃいっ!!!!!」
と母上はその目を見開いて、大地を震わせるほどの大喝一声を劉備に向かって浴びせました。
『パラパラパラ』と母上の体から落ちる藁。
同時に「ひいっ!」と少年の声が垣根の向こうから聞こえて来ました。
一瞬悩ましげな表情をして、垣根の方に顔を向けた母上を見て劉備は、
"まるで、母上から母親の仮面が外れたかのようだ……"
と、思い抱きました。
母上は自分の鬢を『ササッ』と整え、震える手を優雅に揃えると劉備に、
「物の道理を理解せずに剣を振るわば、それは意志なく戦わされる犬畜生と同じ。ふさわしくないものが皇族を騙ったところで、必ず滅ぼされる事でしょう……」
と声を整えながら戒めました。
そして劉備を指差して、
「剣なんぞは、学びを修めた後に手に入れればよろしい!」
と荒々しい口調で言い切りました。
垣根の外を行き来する、慌ただしい音が響いて来ます。
その時、屋敷の門の方から誰かの気配がしました。
「あっ父上、おかえりなさいませ!」
徳然が父を迎えると、徳然の父は三人の方を見て、
「兄嫁、ただいま戻りました」
と深く頭を下げました。
お世話にも綺麗とは言えない儒者の衣を纏う徳然の父。
自分の体を嗅ぐ徳然の父に、
「元起さん、暑い中、今日も民草への施しですか?」
と母上が尋ねると、
「貧しき者のために、この身を整え、この心を捧げましょう……」
と彼は拱手をして答えました。
そのやり取りを見て目を細くする劉備。
父の方を眺める徳然が『クルッ』と劉備の母の方を向くと、
「おば上、王者の剣はわたくしの家で預かるという形でいかがでしょうか?」
拱手を作って提案しました。
彼の言葉に徳然の父がその片眉を少し上げ、
「徳然それはどういうことだ?」
と、その意図を聞くと、
「剣と引き換えに、父上が備兄の学資の肩代わりをするのです!」
と徳然は語気を強めて述べました。。
すると、
「それぞれ別で一家を構えているのに、どうしてそんな事をしなければいけないのですか!」
と母屋の方から女性の声が。
「母上!」
徳然の母は色鮮やかな絹の衣を纏った姿で、母屋から『スッ』と現れました。
「表がやけに騒がしいと思ってずっと聴いていたら、何ですかそれは!」
声を荒げる徳然の母を、
「われらの一族の中にあの子がいて、あの子は並の人間ではないからだ……」
と徳然の父がなだめました。
徳然の母は劉備の母を見ると『キッ!』と睨んで、
「まあ、亡くなったお従兄さんの事もありますからねっ!」
と吐き出すように言いました。
劉備の母は徳然の方を見て、
「私は知っていますよ。小屋の裏でこっそりと、柄を握って熱心に練習している徳然くんこそ、剣を持つには相応しいですね……」
と明かすと、徳然は顔を真っ赤にして、素早く顔を下へと向けました。
徳然の母は我が子の隠れた部分を知ると、少し表情を落ち着けました。
屋敷にある先祖の廟。
母上は『王者の剣』を横にして徳然の父へと掲げると、彼は跪いてそれを受け取りました。
剣を渡す儀式の後で徳然の父は、中身の詰まった銭袋を劉備に手渡しながら言いました。
「これにて『儒教』を学ぶ第一歩としなさい」
徳然の父は笑顔を浮かべつつ、厳格な面持ちで見送りました。
お屋敷の門を出た劉備たちが、しばらく歩くと荒ぶる声がしました。
「やっと出てきた!」
中年の男が据わった眼つきで、劉備を睨んで歩いて来ます。
その姿を見て「あっ!」と言って、気まずい表情をする劉備。
「お前、よくも人を誑かしやがって!」
身を震わせて声を上げる男の肩に頬に傷のある男が手を乗せると、低い声で劉備に言いました。
「ちょっと俺たちと来てもらおうか」
劉備は彼の後ろの侠客たちを見て、ゆっくりと後ずさりしました。
侠客は手に持つ棒切れを、剣に見立てて構えています。
すると、劉備の前へと飛び出す大きな影。
影の正体の母上が、男たちに向かって名を求めました。
「お主ら、何ものじゃ!」
彼女は先ほどとは打って変わって、うなじを見せるように上げた髪型に金の髪飾りを輝かせて、淡い絹の衣で着飾っています。
「母上!」
綺麗に変わった母上を見て、劉備が大きな声を上げると、
「悪いがあんたの息子には、俺と付き合ってもらう!」
と男が絶叫しました。
思わずその目を見開く劉備。
しかし、叫びを聞いた母上の顔に、偉大なる五岳の峻険な谷が深く眉間に刻まれました。
そして次の瞬間、
男がまばたきをする間に母上はその身を躍らせて、高い身長から放たれる電光石火の平手打ちを、男の頬へとお見舞いしました。
母上の手からは風が巻き起こり、大きく弧を描いて吹っ飛ぶ男。
その竜巻のような風圧を受けて、侠客たちが後ずさります。
「ここを長沙定王を継ぐ、臨邑侯が末裔の屋敷と知っての狼藉か!」
侠客たちに向かって啖呵を切る母上。
「はぁっ?誰だよそれ、知らねえよ」
頬傷の男が声を震わせて、母上に向かって言い返しました。
「このわからずやめらがっ!」
と劉備の母が手を振りかざすと、その背後には薄っすらと鬼神の姿が。
「きっ、今日のところはこれで勘弁してやる!」
頬傷の男が道端にのびた男を抱えると、捨て台詞を吐きながら去って行きました。
母上は足で地面を蹴って、
「莚売りをナメんじゃないよ、クソが!」
と大きく吼えると、懐から小さな茶壺を取り出し、去りゆく侠客たちへ雑に投げつけました。
母上がすっかり乱れた襟を正し、
「我が息子の門出、士大夫の母として見送りましょう……」
と、凛とした声で言いました。
湧き上がる感情をこらえる劉備。
母上は劉備を真っ直ぐに見て、
「我が子よ、『儒教』を修めなさい!」
と言葉を送り、悟られないように愛おしそうな目で、子供を真っ直ぐに見ました。
ちょうどこの頃は田植えの時期らしく、村人が粟や麦などを植える作業をしています。
"これもまた、母上の示す英雄への道か……"
劉備がそう考えながら畔道を歩いていると、
「あっ、あれかな」
徳然が先生が草蘆を指差しました。
草蘆の中ではヒゲの大男が、竹の書を開いて講義しています。
劉備たちはそれを窓から覗くと、大男は彼らがいるのに気がつき、
「ドウも、コニチワァァァァッ!!!!!!」
と、頭が地面に付くくらいのお辞儀をしながら、大声で挨拶をしました。
「ほんとに『礼』の凄い先生だ!」
この時、劉備たちは物凄い衝撃を受けて、その場で腰を抜かしてしまったと申します。
次回に続く。
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注:この物語は娯楽を目的としたフィクションです。
実際の人物とイメージが異なるように書いていますのでご了承下さい。




