一、楼桑の村
「孔子さまの教えを悪用する"にせ皇帝"、俺が成敗してやる!」
少年たちが、枝を剣に見立てて英雄ごっこ。
都、雒陽の遥か北に、ひとつの村がありました。
枝葉を広げ、天高くそびえる村の桑の木。
それを目印に人々は、自ずと引き寄せられていたと伝えられています……。
熱い日差しが民家を照らし、影が北の方へと伸びていました。
「旦那、だ、ん、なっ!」
玄い路地の隙間から聞こえる、声変わりさなかのかすれた声。
中年の男はその声に振り返ると、わざと着崩した小麦色の肌の青年が、素早く現れました。
「なんだ、子供か……」
男は立ち止まると、青年は大きな耳たぶを揺らして背後に回り込み、こう囁きました。
「これは、雒陽で仕入れた秘技ですぜ……」
人で賑わう村の広場からは、食欲をそそる干し肉の匂い。
他にも野菜や果物の屋台が軒を並べていました。
広場では小さな市場が開かれ、商人たちが儲けの機会を虎視眈々と狙っていたようです。
その一角で、小さな網笠をかぶった老人が、馬の品定めをしていました。
「馬は高級品だからねぇ、しっかり見させてもらうよ」
この時、老人が思い出したかのように、
「そう言えば、この村には数年前、南から劉氏が移り住んだそうじゃな」
と、呟いたそうです。
一方、市場と別の場所では柵の中で犬を闘わせ、観戦客が声を沸き立たせていました。
砂埃舞う中で、対戦相手を威嚇する、鼻面を垂らした黒い犬。
「見ろよ、うちの犬はこの間、鶏泥棒を追っ払ったんだぜ!」
頬に刀傷を持つ男が、その犬を指しながら自慢話。
しかし、自慢の番犬は首筋に牙を立てられると『キャン』と呻いて観客席から、どっと笑いが吹き出しました。
歓声が響く中、その身を抱えて悶絶する姿も。
「ああああっ、ありったけの銭をつぎ込んだのに……」
闘犬会場が盛り上がっている頃、少年たちが民家の隙間でヒソヒソ話を始めました。
"さて⋯⋯"
静かにまぶたを開く大耳の青年。
彼は枝先で地面をなぞり、
「いいか、この丸がワンちゃんな」
と言って、大小の丸を描きました。
「ちっこいワンちゃんが相手なら、大きいヤツにお手を出す。ワン!」
青年は小さい丸を消し、代わりに円を目いっぱい大きく描き殴り、
「覇王級が来たならば、それに迷わず一齧り!ヴヴッッッ!」
と唸り声を上げました。
そして巨大な丸だけを残し、同じ大きさの円を隣にくるりとなぞりました。
少年たちが丸をじっと見つめます。
露ぶく汗に、甘い香りを滲ませる青年。
「さあて、こうなったらどうすると思う?」
彼は突然謎かけをして、皆を『サッ』横に見渡しました。
呆然とした顔で黙り込む一同。
青年が滴る汗を『ぺろっ』と舐めると、
「覇王級でやり合う時は、背中を向けて手を出さない!」
と言って枝を空へ向けて飛ばしました。
そして青年は、
「これで百戦危うからずだ!」
とうそぶきながら、大きな耳たぶを弾きました。
彼の髪をまとめる紐が、後ろに垂れてなびいています。
青年は姿勢を直し、
「ってな感じで、都で仕入れた秘技だって言って、おっさんからたんまり巻き上げてきたぜ」
と白い歯を見せると、袋から銅銭を取り出して、仲間たちへと分け与えました。
「アニキの声には何っつうかさぁ、魅力があるんだよな」
仲間の一人がそう讃える中、少年たちは銅銭を受け取ります。
「大人なんてチョロいチョロい」
青年がそう嘲る横で、一人がぼそりと冗談を言いました。
「ちっこいワンちゃんが勝ったりして……」
その時、闘犬会場の方から大歓声が漏れてきました……。
広い道の真ん中を、大耳の青年は少年たちの先頭で歩いています。
「今日こそは勝って、袖を通していない衣が欲しい!」
「蒼天さま、孔子さま、どうか一発当てて、おれを漢にして下さい!」
勝った自分を想像しながら闘犬会場に向かう彼らは、老人が多くの馬を引いている場面に出くわします。
今にも飛び出さんとする、雄々しき姿を見せる馬たち。
その光景を見た青年の胸に熱い志が湧き上がりました。
"俺はいつかあんな馬に乗って、歴史に語られる英雄のように中華を駆け回るんだ!"
気分を良くした青年が鼻唄まじりに歩いていると、中年の男が辺りを見回しながら人を引き連れて慌ただしくしています。
「ああああっ!見つけたぞおっ!」
そう叫ぶ男が青年を指差して、
「お前の言う通りに賭けたら大損しちまったじゃねえかぁっ!」
と声を荒げて青年をにらみつけると、ボロボロになった黒い犬もなぜか鼻面を震わせて唸っています。
耳を突く声に後ずさりする少年たち。
それを見た幼子は親に手を引かれ、民家の窓が次々に『バタン、バタン』と閉じられていきます。
青年は辺りを見渡した後、
「おっといけねえ、さっそく覇王級の罰が当たっちまった!」
と、おどけてお尻を向けると、一目散に走り出しました。
男は顔を赤くして、
「あっ、逃げたぞ!」
と叫び、逃げる姿を指差すと、黒い犬と大勢が一足遅れて追い始めました。
青年は髪紐をなびかせて兎のように軽々と走り、皆との距離を広げて行きました。
ワンちゃんも、垂れた鼻面を『ブルブル』と揺らして一生懸命に追いかけています。
青年はそのまま桑畑に入ると、そのど真ん中を突っ切ります。
影を作る木々が実を付けて立ち並び、初夏の風情を赤々と、とても綺麗に彩っていました。
「てめえ、待ちやがれ!」
後ろの方から小さく聞こえる青年を追う執拗な声。
その光景を見ていた網笠の老人が、指差して村人に尋ねました。
「もし、あの元気のよろしい青年はどなたですかのう」
楼(やぐら)のような桑の木を村人が指差して、
「あそこに見える木が立つお屋敷の『劉備』さまというお方だ」
と苦笑いして答えました。
そう、大耳の青年こそ、後の『先主』、劉備さまでございます。
「ほほう、劉氏の血筋の方ですか⋯⋯麒麟を見るのはあの青年か、もしくは⋯⋯」
老人はそう呟き、馬の群れと共に去って行きました。
垣根の隅に立つ立派な桑の木が緩やかに枝葉を揺らしています。
劉備はその近くへたどり着くと、懐に手を入れて何やら探し物。
"ありゃ?銭袋を落として来ちまったか"
彼はそう思い頭をかくと、お屋敷の方へゆっくりと鼻唄を歌いながら歩き出しました。
「ふふ、ふぅん、ふぅん、ふふふぅ、ふぅん」
お屋敷の手前の桑畑では劉備が奏でる悲しげな旋律を、遅れて着いた中年の男が耳を澄ませて聞き入っています。
「あの屋敷は他所から来たとは言え劉氏のもの、うかつに入れば痛い目にあうぞ」
頬に傷の入った男が忠告すると、中年の男は銭袋を見つめ、
「なあに、劉氏といっても、あの劉備とかいうやつはとっくに親父を亡くし、もう跡継ぎではないそうだ」
と低く唸り、微笑を浮かべ舌なめずりを見せました。
桑の木が庭へと影を作って、離れの小屋からは『カサカサ』と、藁の擦れるような音が聞こえてきます。
「ご苦労、ご苦労」
掃除する使用人に声をかけながら劉備がお屋敷の門をくぐると、庭に従兄弟の『劉徳然』がいました。
徳然の玉のように白い肌と顔横の大きな耳たぶが、高貴なものを感じさせます。
彼は劉備を細目でじっと見て、
「備兄はまた遊び歩いて。少しはおば上さまの手伝いを……」
と離れの小屋の方を見ると、小言を途中で止めました。
徳然は、軽く咳ばらいをすると、
「そんなことよりも、最近、この村の近くに『礼』の、とっても凄い先生が引っ越してこられたらしいんだ」
と声を大きくして、その目を輝かせています。
劉備は視線を下に逸らすと、自分の耳たぶを指でいじりながら、
「へぇ、『礼』って、孔子さまの教えの」
と抑揚のない声で返しました。
静まり返った屋敷の庭では、藁の音だけが聞こえてきます。
徳然は再び咳ばらいをすると、
「僕は立派な大人になって、将来国へ仕えるために、父さんに頼んで今からその先生の弟子にしてもらいに行くんだ!」
と希望に満ちあふれたように語りました。
東南から吹く爽やかな風が、劉備の頬をなでて行きます。
"父上には孔子さまの加護が無かったからなぁ。一族のお世話になっている俺にとっては、勉強なんてもう……"
劉備は心の中でそう思うと、徳然の顔から目を逸らしたまま、
「まあ、はみ出し者の俺にゃ関係ない話だな……」
と吐き出すように返しました。
すると、離れの小屋から鳴っていた音が止み、小屋の中から大人の女性の大きな声が。
「あ、な、た、もっ、一緒に行くのです!」
劉備はその声に思わず両肩を上げて、まぶたを塞ぎました。
"やべえ……"
劉備はそう思ってからそっと目を開くと、全身藁まみれの女性が離れの小屋の方から、険しい目で彼を見つめていたそうです。
次回に続く。
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注:この物語は娯楽を目的としたフィクションです。
実際の人物とイメージが異なるように書いていますのでご了承下さい。




