目を逸らしたのは、誰だったのか
老教師がその日、公園のベンチに腰を下ろしたのは、十数年前に見送ったはずの名が、再び彼の人生に問いを投げかけてきたからだった。
鉛色の空は、まるで世界が終わる瞬間を映し出しているようだった。公園のベンチは、昨夜の激しい雨の記憶を吸い込んだまま、冷たく沈黙している。
遠くの子どもたちの声が、風に引き裂かれた悲鳴のように響いた。鼻を刺す湿った土の匂いの奥に、どこか血のような鉄の気配が潜んでいた。
チルドカップの表面には薄く水滴が浮かび、握られた手の熱を僅かに吸い取っていく。風は止み、木の葉は不気味な静けさの中で、まるで息を潜めているようだった。
チルドカップを握る指先は、わずかに節くれ立ち、表面は長年の風雨に晒された木肌のように、細かな皺が刻まれていた。老いた指は、冷たいカップを慎重に、しかし確かな力で包み込んでいた。袖口から覗く手首には、使い込まれた腕時計が鈍い光を放っている。濃い紺色のジャケットは、雨の湿気を吸って僅かに重さを増したように、その肩に張り付いていた。ジャケットの襟元には、ほんのりと煙草の匂いが残っている。深く被られた帽子の影から覗く横顔には、長年の思考が刻まれたような、細い皺がいくつか見て取れた。
ベンチの冷たさが、背中越しにじわりと染み入ってくる。時計の針が刻む音も、いまは遠い。老教師の視線は空のどこかを彷徨いながら、過去へと沈んでいった。
リク。
教師としての年月のなかで、幾人もの名を見送ってきたが、その名前だけは風化しないまま、胸の奥にひっそりと根を張っている。ひどく無表情な少年だった。整った顔立ちに似合わぬ虚ろな目と、声なき反抗をまとった仕草。それでも、あの頃、彼の中に何かが叫んでいるのを、うっすらと感じ取っていた気がする。ただ、その声に耳を澄ますだけの時間も、勇気も、自分にはなかった。
数日前、テレビの画面が突然リクの名前を呼んだ。無差別殺傷——そんな言葉と共に、画面には顔写真が貼りつけられ、アナウンサーの声が冷たく事件を読み上げていた。容疑者の動機は不明、感情の欠如、家庭環境の問題、専門家の分析。いずれも彼を理解しようというよりも、納得するための材料のようだった。
“怪物”。そう、世間はそう呼んでいた。言葉の裏には安堵と嫌悪が同居している。人間ではなかった——そう断じれば、誰も心を痛めずに済む。
だが、自分の中では違った。違うと、思いたかった。あのとき彼のノートの端に書かれた、読み取りにくい落書き。ふとした瞬間にだけ見せた、震えるような目の色。あれは、ただの影だったのか。それとも、助けを求める最後の火だったのか。
ふと指先がチルドカップを強く握り直す。わずかに残る冷たさが、掌の熱に抗うようにじんわりと滲み、現実へと引き戻す。向かいの遊具で遊ぶ子どもたちの声が、また一つ、歪んで耳に届いた。
微かに動いた風が、帽子の縁を撫で、首筋にひと筋の冷たさを残していった。老教師はそっと息を吐き、静かに立ち上がる。足元で湿った土がわずかに沈み、音もなく靴底を包んだ。左のポケットに指を滑らせ、折りたたまれた紙片の感触を確かめる。
それは一週間ほど前、無地の封筒に差出人もなく届いた。一節だけの短い手紙だった。
──先生、もし覚えていたら、学校前の、あの公園で会ってください。日曜日の午後三時。
たったそれだけの文面。文字は細く震え、どこか掠れていた。差し込まれた印字ではなく、ペンの走りが残る手書き。封筒には何の痕跡もなかったが、なぜか、その稚拙な筆跡に見覚えがあった。忘れるはずのない名が、無意識に紙面の匂いを呼び起こす。もしそれが本当に、あの“リク”の手によるものだとしたら──
時計の針が刻む鋭い音が、やけに大きく意識に響いた。彼は、その針の音に導かれるように、ゆっくりと左手首の腕時計へと視線を滑らせた。銀色の細い針は、寸分の狂いもなく、「三時」を指し示していた。
濡れた葉擦れの音がかすかに響き、心臓の鼓動が、頬に触れる空気の温度が、ほんの少しだけ変わった気がした。
背後でカラスが鳴いた。掠れたその声は、空の高みに吸い込まれることもなく、湿った空気の中でぽたりと落ちるように消えていった。頭上の分厚い雲の層は、ゆっくりと確実にその領域を広げている。
老教師は、先ほどまで腰を下ろしていた冷たいベンチを背にしたまま、微動だにせず、公園の入り口へと視線を送った。
そして、その影は現れた。
脚を引きずるように、土をかすかに曳いて歩いてくる影。その姿は、まるで記憶の霧から滲み出てきたようだった。
頬の肉が削げ、皮膚の下に骨の形が透けて見える。けれど、そのか細い輪郭だけは、記憶の中のリクと寸分違わなかった。服はどこか古びていて、全体が薄く埃をまとっているかのようにも見える。湿った空気のせいか、はたまたうるさく鳴る心音のせいか。ザクッザクッと土を踏み締めるはずの音が、よく聞こえない。
老教師は一歩も動かず、ただ静かにその姿を見つめていた。男は近づき、数歩手前で立ち止まった。互いに声をかけず、風も音もない中で、時間だけが伸びたように感じられる。
「……覚えてて、くれたんですね」
リクの声は思いのほか柔らかく、けれどどこか底が抜けたようだった。響きはあっても、重みがなかった。乾いた落葉が誰にも見られず擦れるような音だった。
老教師のまなざしがわずかに揺れる。しかし、その視線は言葉の代わりに答えを返していた。
「ニュース……見ましたか」
リクの唇が、皮膚よりもわずかに青白くひきつって動いた。
教師は言葉を選ぶように、ゆっくりと息を吸った。
「見たよ」
沈黙が落ちる。風のない空間で、葉の一枚さえ揺れなかった。
「やったのは、俺です」
リクは、あっさりとそう言った。目に憎しみも、開き直りもなかった。まるで天気の話をするかのように。
「俺が壊れてるって、誰かに見つけてほしかったんです。……でも、誰も気づかなかった。だったら、本当に壊れてたんだって……そう思ったほうが、楽だった」
老教師の胸がじんと軋む。どこかで聞いたことのある音のように、しかし思い出せない痛みが心の奥で鳴っていた。
「先生。俺は……最初から壊れてたんですか?」
問いかけは、まっすぐだった。
けれどその瞳の奥には、真実を望む色ではなく、すでに諦めた者の透明さが滲んでいた。
返す言葉を持たなかった。喉元まで何かがせり上がってきたが、それは声にはならず、ただ口の中で消えた。
ただ、思い返す。
成績は優秀、素行に大きな問題もない。真面目で無口で実直な生徒——そう記憶に残っていた。けれど、ノートの端に書かれた奇妙な詩。出席番号を呼んだときの、微かに遅れる返事。教室の隅で、指先だけを小刻みに動かしていたあの姿。
それらを見ていたはずの自分が、なぜ、目を閉じていたのか。
「……すまない」
やっとの思いで出たそれに、リクは小さく首を振った。
「先生のせいじゃない。誰のせいでもない。ただ……そういう世界だったんです」
空は相変わらず鉛色だった。けれど、雲の切れ間に、わずかに光の筋が覗いたようにも見えた。確かではない。目の錯覚かもしれない。ただ、風の匂いが、どこか遠くの場所を思わせるものに変わっていた。
リクはそっと視線を落とし、小さく息を吐いた。
「ただ。今、少しだけ……楽になった気がします」
その輪郭が、わずかに滲んだように見えた。湿った空気の中、遠近感が歪む。教師は目を細めたが、確かにそこに立っているはずの青年が、ほんの少し遠のいたように感じた。
「ありがとう、先生」
その声が最後だった。
老教師はただそこに立ち尽くしたまま、何も言わず、何も動かず、空を見上げた。帽子の庇が、彼の表情のすべてを隠していた。
気づけば、遊具で遊んでいた子どもたちの姿も、声も消えていた。木の葉は静止したまま、土の匂いも、空の色も、どこか輪郭を失い始めている。
ふと、腕時計に目をやる。
三時。それは、彼が来ると書いていた時刻であり——彼の姿が現れ、そして消えていった時間でもあった。
細い針は、三時を指したまま、微動だにしていなかった。