お別れの夜5
「ところで吉蔵さん。タマちゃん、歩けるようになりそうかね?」
吉蔵さんの妻、タマさんは今年のはじめ、とつぜん脳梗塞の病で倒れた。一命はとりとめたものも、体のほぼ左半分の運動機能が失われていたのだ。
「歩くんは、とうぶん無理やろうな。リハビリも思うようにいかんのや。ワシひとりじゃろ、風呂に入れちやるんもひと苦労でな。こんままじゃ、ワシも倒れちしまいそうでな」
吉蔵さんは力なく首を横に振った。
「あんたまで倒れたら、タマちゃんをみるもん、おらんようになるやないの」
「それなんよ、心配なんは。和子んヤツが、早ようもどっちくれたらいいんやが」
「そうやなあ。でも、長いこと待てんしねえ……。そうや、豊後森に福寿苑ちゅうのがあるやろう。タマちゃん、あそこに入れちもろうたらどうかね? 村のもんも、何人か入っちょることやし」
菊さんが介護施設への入所をすすめる。
「そんことはこのごろ、ワシも考えよんことは考えよるんやがな」
「ウチも動けんようになったら、あそこに入れてもらうつもりなんよ。考えてん、ソンはねえと思うがね」
「うーん」
吉蔵さんはふんぎりのつかない返事をした。妻を施設に入れることには抵抗があるのだろう。
この三人の輪に、カラオケを歌い終わったばかりのおスミさんが割り込むように入ってきた。
実の弟である吉蔵さんのとなりに座る。
「吉蔵、なに神妙なツラしちょんのよ」
吉蔵さんの空になったコップに、そばにあったビールをなみなみとついでやる。それから早口で、つき放すようにしゃべった。
「どうせ、また和子んことやろう。だったら吉蔵、あん子をあてにすんのは早ようあきらめることやな。独りもんやが、もう二十年も福岡の病院に勤めよんのやけん、こげなクソ田舎に帰っちくるもんかい」
「ネエさんにゃ、なんぼ年とってんかなわんなあ」
つがれたビールを口に運びながら、吉蔵さんは情けない苦笑いを浮かべた。
「オマエが死んだら、ウチが忘れんで墓を建てちゃるけん、なんも心配せんでいいって。ハハハ……」
おスミさんは声高に笑い、それから自分もビールを一口飲むと、
「もう一曲、歌っちくるわ」
さっさと立ち上がって、カラオケを歌いにとステージに行ってしまった。
―栗原村住人たちの紹介―
元作さん……十七歳のとき、栗原村に来て鉄道会社に就職。以来一筋、蒸気機関車ドングリ号に乗る。
お夏さん……亡き夫が村の駐在所の駐在員であったことから、住人たちに頼りにされている。
新吉さん……村では一番若く六十歳。元作さんとともに日ごろから村の世話をする。
綾乃さん……東京生まれの東京育ち。夫が栗原村出身であり、夫の死後も村で暮らしを続ける。
徳治さん……頭はボケているが、体はいたって元気である。トキと夫婦。
トキさん……徳治の妻。認知症の徳治の世話に追われている。
吉蔵さん……病気で倒れた妻、タマの介護を自宅でしている。おスミさんは実の姉にあたる。
タマさん……吉蔵さんの妻。脳梗塞で倒れて以来、体半分の自由を失う。
菊さん……夫を鉱山の落盤事故で失って以来、女手ひとつで三人の子供を育てあげる。
スナばあ……九十七歳で村一番の高齢者。独り暮らしだが、いたって健康。
おスミさん……夫の戦死で嫁ぎ先から村にもどる。以来、再婚もせず村で暮らす。吉蔵さんの姉。
鶴じい……九十歳なかば。踊ることが趣味。息子が一人いたが戦死する。
ゴンちゃん………栗原村の最後の駐在員。栗原村が気に入り、そのままいついている。
弥助さん……鉱山が開業してからは農業をやめ、閉山するまで鉱山で働く。独り暮らし。
喜八さん……高齢のため足腰がめっぽう弱い。妻はミツさん。
ミツさん……喜八さんの妻。夫の体の具合をいつも心配している。
冬次郎さん……妻と死別し、子供が帰省しなくなってからアルコール依存症となる。
庄太郎さん……鉱山のダイナマイトの爆破事故で右手の手首から先を失う。
おツネさん……離婚して村にもどって以来、ずっと独り暮しをしている。