生きてきた証10
「ワシん子は、ワシがホトケさんになりゃ、しかたのうでん会いに帰っちくる。オメエにくらべりゃ、そんなもんがおるだけでん、ちっとはましなんやのう」
「それはそれで、また淋しいもんやろう。会えるもんがおるのに会えんのやから……。ところでスナばあは嫁に来ち何年になるん?」
「十八んときやから……」
スナばあが両手の指を順番に折り、それを目で追いながら一年二年と数え始めた。
それを待っていてはたまらない。
おツネさんがあわてて教える。
「八十年くらいやな」
「そうか、八十年もかあ。いつんまに、そげえにたったんかのう」
スナばあは目をじっとつぶり、それから思い出すように遠い昔のことを話し始めた。
「ワシ、子供んころな。どうしてん学校ん先生になりてえでの。それでいっぺんだけ、先生になりてえち親にせがんだことがあるんや」
「ほう、先生になあ」
「そしたらの、貧乏漁師ん家に生まれたオマエがふびんやち、ふた親そろうち泣いてのう。それで、あきらめたんや」
「そんとき神様、どこ見ちょったんやろうかね。神様も情けねえもんやな」
おツネさんが笑って言う。
「そんかわりお迎えにもこん。神さんも悪いち思ったんやろうて。まあ長生きしちょってん、たいしていいこともねえがな」
スナばあはしわくちゃの顔で笑って返すと、ふたたび夜の別府湾に目をもどした。
およそ一世紀を生きてきた、スナばあ。
楽しかったこと、悲しかったこと。
うれしかったこと、つらかったこと。
思い出は数え切れぬほどある。そしてそのひとつひとつが、遠い記憶として、生きてきた証として、心の中に刻まれている。
スナばあはじっと夜の海を見ていた。
遠い昔の記憶。
生きてきた証。
海を見ながら、それらのひとつひとつに思いをはせていた。久しぶりに、ほんとうに久しぶりに。
夜の別府湾が遠ざかってゆく。
やがて……。
車窓から海が消える。
ドングリ号は日豊本線を北上していた。
そして。
ドングリ号との衝突を避け、日豊本線を走るすべての列車がいたる所で足止めをくっていた。
―栗原村住人たちの紹介―
スナばあ……九十七歳で村一番の高齢者。独り暮らしだが、いたって健康。
おツネさん……離婚して村にもどって以来、ずっと独り暮しをしている。




