生きてきた証8
さて、ドングリ号の車内。
「なんもなかったなあ」
笑顔の新吉さんが元作さんに話しかける。
「まったくやな。またじゃまさるんち思うちょったけんのう」
元作さんは拍子抜けするとともに、なにごとも起こらなかったことに安堵していた。
「なんか、人がうじゃうじゃおったな」
「遠くでよう見えんかったが、カメラを持ったもんがホームを走りよったぞ」
「警察のもんもおったよのう」
「ああ、ようきおったわ」
「そやのに今度は、えろうたやすう通しちくれたやねえか」
「ええ。さっきの鉄橋みたいに、なにかあったらとヒヤヒヤしてたのに」
「心配しちソンしたわ」
住人たちはだれもが気づいていない。まったく気づいていなかった。駅長たちのたくらみに……。九番線から隣の八番線に、ドングリ号が一瞬にして移ったことを……。
その八番線。
日豊本線の上りの路線であった。
ドングリ号は日豊本線を北上していた。
大分の町並みを抜けると、向かって右手に夜の別府湾が開けてきた。
黒い海原の沖合に無数の小さな灯りが見える。
それらは一定の間隔を保ちながら、波間でチラチラと漂うようにゆれていた。
「きれいやなあ」
窓ガラスに鼻先をくっつけ、おツネさんがため息まじりにもらす。
「あいつはな、イカ釣船の灯りなんや」
座席の背もたれ越しに、元作さんが車窓の外を指さして教えた。
「何年ぶりやろ、夜の海を見るなんち」
おツネさんはしみじみつぶやいたあと、向かいの席に座っているスナばあに声をかけた。
「ほれ、海や。スナばあも早よう見らんか」
スルメをしゃぶっていたスナばあが顔を上げ、窓の外にしょぼくれた目を向ける。
「おう、海や。それにあん灯りは漁り火や。子供んころを思い出すのう」
涙がひと筋、露のようにこぼれ、年輪のごとく刻まれたシワの中に吸い込まれてゆく。
―栗原村住人たちの紹介―
元作さん……十七歳のとき、栗原村に来て鉄道会社に就職。以来一筋、蒸気機関車ドングリ号に乗る。
新吉さん……村では一番若く六十歳。元作さんとともに日ごろから村の世話をする。
スナばあ……九十七歳で村一番の高齢者。独り暮らしだが、いたって健康。
おツネさん……離婚して村にもどって以来、ずっと独り暮しをしている。




