走れ! ドングリ号10
綾乃さんは生まれも育ちも東京である。栗原村で暮らし始めたのは、およそ十年前。思わぬことから移り住んだのだった。
人生を狂わせた思わぬこと。
それは夫がガンの病となり、勤めていた東京の会社を退職することになったのだ。そしてそのとき、夫が請い願う。生まれ育った栗原村で残りの人生を過ごしたいと……。
二人の両親はすでに他界していた。さらに兄弟姉妹もいなかった。だから今の綾乃さんには、身内はおろか親族と呼べる者さえいない。
「このまま消えてしもうても、だれも気づいてくれんのやなかろうか。近ごろ、そんな気のするときさえあるんですわ」
「そりゃあ、なんともつれえことやのう。せめて、思い出しちくれるもんがおったら……。まあ、そんなもんがおっても同じようなもんやがな」
吉蔵さんの口から、つい娘へのグチがこぼれ出る。
「和子さんのことですね?」
「ああ、めったに帰っちこん。電話もろくにしてこんしな」
「たぶん事情がおありなんですわ」
「なんの事情か知らんが、帰ろうち思えばすぐにでん帰るんはずや。それにタマんヤツ、倒れてからちゅうもの、しきりに和子に会いたがるんよ」
「和子さん、一人娘ですもんね。そりゃあ顔も見たいやろうし、頼りにもしますわ」
「まあ、そいつもあるがな。タマんヤツ、自分のことより和子んことを心配しちょるんよ。なにしろ結婚もせんで、ずっと独り身じゃろ。そやから、和子んゆく末を気にかけちょるんや」
「タマさんにとっては和子さん、いつまでも子供なんですねえ」
「そげなタマん気持ち、ちっとは和子にもわかっちほしいんやがな」
「お勤めの病院、きっと忙しいんですよ」
「じゃがな、ワシに言わせれば、他人様の面倒はみてん、おのれん母親をみらんなんち、どう考えてんおかしいと思うんや」
福岡は日帰りのできる距離。そのうえ母親は、ほぼ寝たきりの状態にある。しかるに子が、たまにでも会いに帰ることは世の道理、人の道としても当然のことであろう。
「そうですわねえ」
綾乃さんがウンウンとうなずく。
「タマん介護、ワシだけでは限界があるけんな」
「では、やはり豊後森の施設に?」
「ずっと迷うちょったが、入れんことに決めた。ドングリ号も、いつこわさるんかしれんのに、こうしちがんばっち走りよるけん。ワシも息んあるうちは、最後までがんばろうち決めたんや」
公民館のときとは打って変わって、吉蔵さんの口調には露ほどの迷いも感じられなかった。
―栗原村住人たちの紹介―
綾乃さん……東京生まれの東京育ち。夫が栗原村出身であり、夫の死後も村で暮らしを続ける。
吉蔵さん……病気で倒れた妻、タマの介護を自宅でしている。おスミさんは実の姉にあたる。
タマさん……吉蔵さんの妻。脳梗塞で倒れて以来、体半分の自由を失う。




