ドングリ号2
鉱山会社にとっては、採掘した金鉱石を搬出する新しい駅が、どうしても鉱山の近くに建設される必要があった。そこで目をつけたのが、鉱山にほど近いセイリュウ神社の広大な敷地だった。
こうしてこのとき、神社の土地のおよそ半分が神社本庁から鉱山会社に売却され、さらに清流駅と鉱山までの軌道敷が建設された。
本来、鉄道の建設や運営業務は鉄道会社が行うべきものである。よって鉱山会社は鉄道の建設費用を出資したのみで、建設工事はもちろん、開業後は鉄道に関するすべてを鉄道会社に譲り渡した。
このような経過のなか。
建設途中に一度だけ、栗原村住民の反対で工事がストップしたことがあった。それは駅の建設で、清流池が埋め立てられようとしたときだ。
清流池は先祖代々、神の宿る池としてあがめられてきた神聖なもの。だからして、たとえ神社本庁によって売却されようとも、住民たちは黙って見ていなかったのである。
連日、住民たちは池のそばに座り込んだ。
これには鉄道会社も工事の変更を余儀なくされ、清流池は当時のままの姿で残ることになったのである。
続いて、ドングリ号の名前の由来と歴史。
清流駅と豊後森駅の間にある雑木林には、遠い昔からクヌギの木が群生していた。
それが秋になると、線路敷のいたるところに数え切れぬほどのドングリの実が落ちる。ときには風で飛んだドングリの実が、客車の開いた窓から飛び込んでくることもあった。
そこで栗原村の住人たちは、いつしかドングリ号と愛称で呼ぶようになったのである。
このドングリ号。
大正の時代から久大本線を走っていた。ちなみに久大の久は福岡の久留米、大は大分の頭文字で、久大本線は両市を結んでいる。
それが戦後、栗原村に鉄道が建設されたのを機に、以来その引き込み線を走ることになった。
当初は機関車に、客車三両と十両ほどの貨物車が連結されていた。しかし鉱山の閉山により、貨物車はすべて切り離され、機関車と客車一両の短い列車に生まれ変わった。
それからは豊後森駅との間を一日二往復。乗客が激減したここ数年は、一日一往復に減ったが、それでも休むことなく生き残ってきた。
こうして……。
ドングリ号は、大正、昭和、平成と時代の波にもまれながら、現在まで走り続けてきたのである。




